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平野神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2013年1月27日 (日)

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平野神社
ひらの じんじゃ
Hirano-jinja 005.jpg
概要 天皇の外戚祖神を奉斎する神社。
奉斎 今木大神・久度神・古開神・比売神(神社ウェブサイト)
所在地 京都府京都市北区平野宮本町1
所在地(旧国郡) 山城国葛野郡
所属(現在) 神社本庁
格式など 式内社名神大社正一位二十二社朱印地拝領神社官幣大社別表神社
関連記事 平野神社旧跡八幡信仰仁徳天皇旧跡公祭

平野神社

久度神社(平野神社の元宮の一つ)(下)


目次

概要

由緒

奉斎

  • 今木大神
  • 久度神
  • 古開神
  • 比売神

(神社ウェブサイト)

概要

平野神社の祭神については、祭神やその性格を巡って古くから議論がある。 『延喜式』「第1巻神祇1四時祭上」によると、平野祭の祭神として「今木神、久度神、古関神、相殿比売神」と挙げられている。同じく『延喜式』祝詞には「古関神」ではなく、「古開神」とある。「古関神」なのか「古開神」なのかははっきりしないが、古来、「古開神」とされることが多い。惟宗公方『本朝月令』(平安時代中期)によると、延喜式を遡る『貞観式』にも『延喜式』と同様に四神の記述があったと記している。現在の祭神はこの『延喜式』の記述に基づいている。

中世には、仁徳天皇説と四氏祖神説が登場し、近世に実証主義的研究が始まるまで、両者の説が広く一般に広まっていた。 まず鎌倉時代初期より、仁徳天皇説が登場した。根拠はよく分からないが、王権に関わる神という認識と関わりがあるのだろう。『愚管抄』が初出という。現在でも、仁徳天皇を祭神とする平野神社の分社はある。また仁徳天皇説と関連して、同時に源氏・平氏・高階氏・大江氏の四氏の氏神とする説が登場した。延喜式所載の四神に日本武尊仲哀天皇仁徳天皇天照大神を当て、これらを四氏の氏神と称したのであった。四神のうちは日本武尊と仲哀天皇は、仁徳天皇に関連する皇族として発想されたものだろうか。それぞれの氏をそれぞれの神に当てはめる根拠はよく分からない。当時の有力な四氏を取り込むために喧伝されたものであろうか。ちなみに本地仏はそれぞれ大日如来正観音菩薩地蔵菩薩不動明王とされていた。 近世には国学者による研究が進み、実証主義的な考証によって、桓武天皇の母方祖神説や、竈神説が唱えられた。特に伴信友の『蕃神考』における研究は著名である。伴信友は祭神を、百済の聖明王、大江氏の祖神、大江氏、大江氏夫人であると主張した。これは現在の研究に基礎となっている。 仁徳天皇説、四氏祖神説、桓武天皇の母方祖神説、竈神説を諸説を補いつつ詳しく見ると次のとおりである。

仁徳天皇説

仁徳天皇説は『愚管抄』(鎌倉時代)に始まるという(宮地直一解説『本朝神社考』)。『愚管抄』には「仁徳ハ平野ノ大明神ナリ。」とある。『帝王編年記』(室町時代初期)の仁徳天皇条にも「今平野大明神此天皇也」とある。この説においては、祭神が四座であることは無視されているようである。 『廿二社本縁』(室町時代)では仁徳天皇説の存在を挙げつつも、源氏の氏神ということを重視して別説を立てている。後述するように、源氏の氏神は八幡宮となる以前は平野神社であったという認識が一部にはあったらしい。仁徳天皇は現在の皇統に連なる天皇でないことから、継体天皇の高祖父だとして仁徳天皇弟の隼総別皇子を挙げている(しかし、『古事記』によると継体天皇の高祖父は隼総別皇子ではなく若野毛二俣王である。隼総別皇子は八幡若宮の一柱とされるから、挙げられたものか。)。

四氏氏神説

『伊呂波字類抄』(平安時代末期-鎌倉時代初期)によると、「一神殿大日源氏、二殿正観音平氏、三殿地蔵高階氏、四殿不動大江氏」とある。本地仏とともに、各氏の氏神となっていることが記されている。摂社県社も中原氏、小神氏、中臣氏、卜部氏、小野氏の氏神であるとしている。『公事根源』(室町時代)にも、第一殿を源氏の祖神、第二殿を平氏の祖神、第三殿を高階氏の祖神、第四殿を大江氏の祖神としている。『二十二社註式』(室町時代)には『延喜式』記載の四神を挙げつつも、日本武尊、仲哀天皇、仁徳天皇、天照大神のこととし、上記の四氏の氏神としている。

この組み合わせは別の伝承もあった。『神祇正宗』(室町時代?)では、氏の配置は同じものの、日本武尊、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇としている。あるいは氏の組み合わせが異なる記録としては第三殿仁徳天皇を大江氏の氏神とする説があった。『大江俊光記』(江戸時代)によると、大江俊光は疑問を持っていた。多くの書籍が第四殿を大江氏の氏神としているが、なかには第三殿を大江氏の氏神とするものもある。どちらが正しいのか。人に聞くところでは、最近、神社では、朝廷の考証書類には第三殿を大江氏祖神とあったので、幕府への提出書類にもそのように書いたというが、よく分からないので社家の者にまた尋ねないといけないと記している。

ちなみに日本武尊、仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇はいずれも応神天皇を中心とする系譜の天皇皇族であり、これはまた八幡信仰において祭られる神々でもある。関連は不詳。源氏の氏神という説によるものだろうか。

桓武天皇外戚祖神説

伴信友『蕃神考』(江戸時代後期)によれば、平野神社祭神は桓武天皇の外戚の祖神を祀るものという。

今木神については、ほかの三神と違い、今木大神と書かれることから、この今木神が平野神社の主神であると述べている。 桓武天皇生母の皇太后高野新笠(光仁天皇中宮)は和(やまと)氏の出身であるが、和氏は百済の武寧王およびその子の純陀太子に発する渡来系の氏族である。藤原清輔『袋草紙』(平安時代後期)所載の歌には皇太后新笠は、平野神のひ孫であることが歌われており、年代から考えると、今木神とはこの和氏の祖神として祭られた純陀太子つまり聖明王ではないかというのである(実は純陀太子を聖明王とするのは誤りである。聖明王即位前に純陀太子は死去している。)。 今木とは新来の意味で、新しく渡来したことを意味するものという。これは和氏の居住地の地名となり、欽明天皇紀に「倭国今来郡」とあるのがそれではないかという。 現在地以前に今木神が祭られていた田村後宮とは光仁天皇の御所であった。光仁天皇は高野新笠を中宮としたことから、和氏の氏神を祀ったのではないかとという。 一方、皇太后高野新笠の母方は土師氏であった。土師氏は、高野新笠の子である桓武天皇が即位したあとに、大江氏、菅原氏、秋篠氏の名を賜っている。『延喜式』には平野祭に桓武天皇の子孫、および大江氏と和氏が参加することが規定されているが、今木神が和氏の祖神であることを考えると、ほかの祭神が大江氏つまり土師氏の祖神であると考えられる。おそらく久度神がそれである。大和国に久度村があり、そこにある延喜式内の久度神社が元宮であるという。久度は竈の意味があるというが、土師氏は土師器製造を担った一族であり、関連があるように思われる。土師氏の祖神ということで野見宿禰だろうかとも述べている。 古開神については直接の手がかりはないが、久度と同様に古開も大和の地名であり、土師氏に関わるもので、おそらく高野新笠の祖父の大江氏(土師氏)であり、また比売神はその夫人の毛受氏だろうという。 この伴信友の説は、さまざまな批判があるものの、現在においても平野神社祭神研究の前提となっている。

東洋学者内藤湖南はこの説に独自の見解を加え、久度神を百済の仇首王、古開神を肖古王とした。比売神については、その他の神社でも見られる巫女神、つまり神社を祀る巫女が神格化されたものだと主張した。この説は、漢字の音から想像したものであって、それ以上に根拠があるものではない。

竈神説

宮中には、内膳司に平野の御竈忌火の御竈庭火の御竈、また大炊寮に大八島の御竈という竈があり、神饌の調進や天皇の御膳の調進が行われていた。これらの竈の神霊、すなわち竈神の祭祀も行われていた。このうちの「平野の御竈」の存在、および、ある種の竈を「くど」と呼び(『和名抄』)、祭神の久度神に通じることから、平野神社の祭神は竈神であるという説が江戸時代に登場した。 『平野神社祭神考』によると、今木神の「今木」を「いまけ」と訓じ、内膳司の用いる忌火の御竈の神霊だという。忌火の御竈は神今食や新嘗祭に用いる神饌を調進するための竈であり、数ある竈のなかで最も尊い竈だという。久度神は、大八島と呼ばれた竈の神霊だとする。大炊寮の用いる竈である。古開神は、庭火の御竈の神霊だという。庭火の御竈は、内膳司の用いる竈で、天皇の朝夕の食事の調進に使う竈であり、皇太子時代から譲位後に至るまで一貫して同じものが使われ、一代ごとに新造されることから、崩御後に「古い空き物」を御霊代にし、祀ったのではないかという。 また幕末明治の国学者近藤芳樹も竈神説を主張し、『大祓執中抄』(1864年(元治1年))によると、比売神を神話でいう竈神として大戸比売神であるとしている。また、『二十二社註式』、『廿二社本縁』などで仁徳天皇を祭神とする説は「古伝を失へる説」であるが、『日本書紀』「仁徳天皇紀」に、仁徳天皇が展望して、家々から竈の煙が立ち上るのを見て、国が豊かになったことを確認しているさまを描いていることから、仁徳天皇説は竈神の古伝がわずかに残ったものだとしている。竈神説を裏付けるものとして仁徳天皇説を位置づけているのであった。 竈神説は、詳細についての是非はあるが、現在も有力視されている説である。

歴史

古代

大和国での祭祀

平野神社は、もと大和国に鎮座していた今木神、久度神、古開神を桓武天皇による平安遷都に伴って、現在地に遷座合祀し、さらに比売神を合祀して、成立したものだと考えられている。その経緯には桓武天皇の意志が反映されていると考えられている。

今木神は「奉斎」の項目で詳しく述べたように、もと大和国の今木にて和(やまと)氏の氏神として祭られていた神社だと推定されている。これは久度神の例や祝詞の文言に基づいている。その場所については岡田荘司によると、高野新笠の父和乙継の牧野墓がある大和国広瀬郡ではないかとしている。牧野墓は奈良県北葛城郡広陵町の牧野古墳に擬せられており(実際には古墳時代の古墳である。)、その周辺ではないかとしている。あるいは高市郡にあったという説もあるようだ。 桓武天皇が即位すると、その生母高野新笠の御所であったと推定される田村後宮に今木神は祭られた。この「田村後宮今木大神」に782年(延暦1年)11月に従四位上が叙位されている。この年は桓武天皇の即位2年にあたり、桓武天皇即位との関連が伺われる。高野新笠に縁が深い神として神階叙位されたものと思われる。 田村後宮は平城京の左京二条四坊にあったという。宝亀年間に光仁天皇が宴を開いた田村旧宮は同一の場所と考えられており、藤原仲麻呂の田村第の跡地に当たると考えられている。 久度神土師氏の氏神と推定されている。土師氏は高野新笠の母方の氏族である。久度神社が土師氏の氏神であることについては、久度神社が大和国平群郡に所在するが(現在は北葛城郡)、高野新笠の母土師真妹の高野墓も平群郡に所在することから(現在は生駒郡)、平群郡が土師氏の居住地だったと推定してのことである。 桓武天皇の即位3年にあたる783年(延暦2年)12月には久度神社に従五位下が叙位され、さらに官社に列している。この年代は桓武天皇即位との関連が伺わせるものであるといえる。この神社は平野神社成立後も存続して、『延喜式』神名帳にも記載されている。

古開神については記録が全くないので不詳であるが、『延喜式』祝詞に「久度・古開二所乃宮」とあることから、久度神と同様に独立した神社に祭られていたと推定されている。 古開は地名との説があるがはっきりしない。

平安京遷座と平野神社の成立

今木神 久度神 古開神 比売神
782年(延暦1年)11月 従四位上
783年(延暦2年)12月 従五位下
836年(承和3年)11月 正四位上 従五位上 従五位上
848年(嘉祥1年)7月 従三位 正五位下 正五位下 従五位上
正三位 正五位上 正五位上
851年(仁寿1年)10月 従二位 従四位下 従四位下 正五位下
859年(貞観1年)1月 正二位 従四位上 従四位上 正五位上
859年(貞観1年)7月 従一位 従三位 従三位 従四位下
863年(貞観5年)5月 正三位 正三位 従四位上
864年(貞観6年)7月 正一位


現在地への遷座の年代ははっきりしない。『諸神記』の一本には785年(延暦4年)とあり、『一代要記』には794年(延暦13年)とある。現在地との関連でいえば、平安遷都に際して遷座したものと考えるのが自然であろうから、後者のほうが妥当といえるかもしれない。

平野神社社家の旧記によると、長岡京遷都のときに、長岡京に今木神以下三神が遷座合祀され、祭られたという。それが現在の樫本神社大原野神社元摂社)であるという。

836年(承和3年)、従四位上の今木神は正四位上を、従五位下の久度神と古開神は、従五位上を叙位されている。遷座前の神階が平野神社に継承されているのは興味深い。このときはまだ比売神は合祀されていなかったものと見られている。義江明子によると843年(承和10年)に梅宮大社の酒解子神とともに「平野社一前」が名神に加えられているがこれが比売神のことではないかとしており、従来の三神が既に名神となっているのに加えて、新たに祭られた比売神が名神に列せられたのではないかと推定している。比売神の合祀は春日大社の比売神の合祀に影響されたものではないかともいう。ここにおいて、平野神社が成立したと言える。848年(嘉祥1年)にはこの「無位合殿比〓神」に従五位下が叙位されている。

岡田荘司によると、二つの祝詞の存在や祭式の分析から、祭祀においては、二人の神主が今木神と久度神・古開神に対して並行して祭祀を執行する形態になっていたのではないかと指摘し、複数の神社が合祀された経緯と、和氏および大江氏のそれぞれの氏神として位置付けが反映されていたのではないかと述べている。このような特殊な例はほかに見られず、その理由を皇太子守護の神という性格に求めている。

天武系から皇統が代わって天智系から即位した桓武天皇は自らの出自に不安を持っていたとされる。自らの地位を正統付ける様々な政策を試みたが、外戚の祖神を祀る平野神社の創建もその一つであったのだろう。そして、自らの皇統が継続するように、皇太子の守護神として位置づけたのだろう。

天皇外戚祖神および皇太子守護神としての特殊の待遇は次のような点にも見られる。伊勢神宮に準ずるような待遇をされ、「平野神宮」とも称された。諸社のなかで、『延喜式』「祝詞」に天照大御神と並んで「皇大御神」と呼ばれたのは平野神社の今木大神のみであった。伊勢神宮と同様に私幣禁断であった。皇太子による親祭を中心とし、皇太子幣と中宮幣のみが奉られ、天皇幣は奉られなかった。

神位の昇叙については、表を参照。864年(貞観6年)に今木神が正一位となっている。

平野神社の氏人

平野祭においては、桓武天皇の後王(後裔の皇族)、大江氏と和氏が参加することが規定されていた。桓武天皇の後裔で発達したのは平氏であった。ほかに桓武天皇賜姓氏族としては長岡氏、良峰氏、久賀氏があったが衰退した。平氏との関わりをいえば、、1019年(寛仁3年)平理義が平野祭に氏人として参加している(『日本紀略』)。

のちには源氏、平氏、高階氏、大江氏の氏神とされるようになった。

平安時代前期、卜部氏の祖である卜部平麻呂が平野社預となり、以後、卜部氏が平野神社の祭祀を行うようになった。

平野祭の創始

平野祭(ひらのまつり)は、『延喜式』四時祭に記載されている祭祀である。小祀とされる。また公祭(おおやけまつり)の一つとされる。平野神社成立直後に創始されたと考えられている。国史上の初見は858年(天安2年)であるが、延暦年間には始められていたと考えられている。祭日は年二回で、四月と十一月の上申の日である。 公祭のなかでも春日祭、園韓神祭と並んで、初期に成立したものである。公祭に預かる神社は、天皇外戚の氏神がほとんどであるが、二氏(大江氏(土師氏)・和氏)の氏神を合祀した神社は他には見られない。 皇太子が親祭すること、天皇からの幣帛がなく、内侍派遣がないこと、皇太子幣・中宮幣のみであること、祝詞を奏上する神主が二人いることは、春日祭、園韓神祭と異なる特徴である。一方で神祇官や太政官の関与が強いことは春日、園韓と共通する特徴であり、のちの公祭とは異なる特徴である。

名神祭・奉幣・臨時祭

名神とは特に霊験の著しい神のことであるが、国家の大事の際に名神祭を実施して祈願・報賽する神社のことである。『延喜式』には203所283座または223所の名神が列記されているが、その初出は、811年(弘仁2年)とされる。平野神社については、843年(承和10年)に「平野社一前」の名神加列の記事があるが、「一前」を後から合祀された「比売神」のことと考えると、平野神社は、この843年(承和10年)以前に既に名神に加列していたと考えられる。この名神祭はさらに少数の畿内の特定の有力神社に対する奉幣へと変化し、さらには十六社奉幣となり、最終的に二十二社の成立に至った。平野神社も国家的な重要神社としてこの中に含まれている。

985年(寛和1年)4月10日、花山天皇の御願によって平野臨時祭が開始される。平野祭は皇太子の祭りであったのに対して、臨時祭は天皇の個人的御願による祭祀であった。臨時祭という名称であるが毎年行われる祭祀である。恒例祭(平野祭)と同日に執行されるというのは他の臨時祭実施神社と比べても異例であると言える。ほかに朝廷が臨時祭を実施する神社としては賀茂・石清水・祇園・北野があった。


神宮寺の創建

981年(天元4年)2月20日、円融天皇が平野神社に行幸した際、施無畏寺をもって神宮寺としたという(『日本紀略』)。施無畏寺は醍醐天皇皇子の兼明親王が生母の遺命によって北山に創建した寺院で、当初は観音寺と称したが同名の寺院が多いため、施無畏寺に改名したという(『本朝文粋』)。『拾芥抄』にも「施無畏寺 北山」という記述があるように北山にあったらしく、平野神社の鎮座地からは離れていた。 その後、施無畏寺は衰退したのか、関係が途絶したのか分からないが、1107年(嘉承2年)には、改めて源俊房が神宮寺を建立している。これは平野神社北隣に接していた。本尊は大日如来だったという。中世の戦乱で焼失か。

三十番神は天台宗に発する護法神思想で、のち日蓮宗に取り入れられた。『叡岳要記』(鎌倉時代)によると、円仁によって始められたという。真偽は不明であるが、867年(貞観9年)の記年のある記録(『門葉記』所収)によると、十二支に配列された神々が記されており、平野神社は七番午日となっている。現在の三十番神の配列は、1073年(延久5年)の良正『三十神勧請記』(『門葉記』所収)が元となっている。その神々の多くは二十二社から採用され、平野神社も三十番神の第十六日に加えられた。

中世

源氏との関係

「八姓の宗廟」と言われつつも、桓武天皇との関係から、平氏の氏神としての性格が濃かった平野神社であったが、源氏の隆盛に及んで源氏の氏神としての地位も築いた。源氏の氏神といえば一般的には八幡神であるが、一部には平野神社こそが本来の源氏の氏神であり、八幡宮ではないとする認識さえ持たれるようになった。 鎌倉時代の始めより、源氏長者の管轄に属し、正統(神主)は源氏長者の長者宣によって補任された。春日大社の神職が藤原氏の長者宣によって補任されたのと同様の制度が行われていた。室町時代末までこの関係は存続したという。中院通秀『通秀公記』(1481年(文明13年))ではそれこそ源氏の本来の氏神は平野神社であって、八幡宮は源義家以降のことであると述べている。 なぜ源氏の氏神になったのかという点に関して、伴信友はもとの由緒もよく調べないままに源氏が平氏と同等になろうと奏請した結果ではないかというが、宮地直一は平野祭の桓武天皇後裔の王氏の参加規定を拡大解釈して、源氏にも適応したのではないかという山田以文の説を支持している。 しかしながら、全体的に見て、源氏の氏神としては八幡神がその代表となり、その存在感は平野に比べるまでもなかったのは周知の通りである。

卜部氏の活躍

鎌倉時代前期の平野社預であった卜部兼文は、現存最古の『古事記』註釈である『古事記裏書』を記した人物として知られている。その子の卜部兼方『釈日本紀』を著している。これは卜部家に伝来する家説と奈良時代以来、『日本書紀』を講義した諸博士の私記を集大成したものであった。後世に与えた影響は大きい。

卜部氏の嫡流として存続してきた平野流卜部氏は卜部兼緒をもって断絶した。『吉田家系譜』には「遁世出家不知所在」とあり、行方をくらましたらしい。よって卜部兼倶(吉田兼倶)の次男の卜部兼永が跡を継いだ。卜部兼永は兼倶と対立した。天文法華の乱の戦死している。

近世

中世末、応仁の乱に始まる相次ぐ戦乱によって、社殿は荒廃した。 統合を取り戻しつつあった慶長年間、西洞院時慶が皇室に奏上して平野神社の窮状を訴えた。これが功を奏して、寛永年間に再建が行われた。これが現在の社殿である。西洞院家は平野神社執奏となった。

平野神社は代々、卜部氏が祭祀を司ってきたが、1709年(宝永6年)6月18日、卜部兼充は藤井を称した。以後、藤井家が平野神社の社家となった。

社領100石を領した(『大日本神祇史』1092頁)。

社家からは幾人かの国学者を輩出している。江戸時代初期の卜部兼古(猪熊千倉)は西洞院時慶の謀略により神職を辞した。水戸学の大日本史編纂に協力し資料を提供した。のち高松藩主松平頼重に招かれて讃岐の白鳥神社を再興し、同社神職となったらしい。子の卜部兼魚も学者であった。藤井家の祖藤井兼充は兼古の弟であった。兼古の孫の兼慶が讃岐猪熊家を継いだ。讃岐猪熊家は白峯神宮創建に尽力した猪熊夏樹(白峯神宮宮司・讃岐白鳥神社社司)を輩出している。

江戸時代後期の斎部富嗣(中西陸奥守・蓋山・大中臣氏・葛野敬殿)は中西富嗣とも称した。中西家は春日社系の社家であったと思われる。本居大平門人で、平野神社の研究や伊勢斎宮の研究を行った。1932年(昭和7年)の神宮皇学館『神道資料展覧会目録』では斎部富嗣の著作を忌部神道に分類しているが不詳である。


近代

特に目立った仏教施設もなかった平野神社では神仏分離の影響は受けなかったようである。復古主義的な神祇秩序が再構築されるなかで、1871年(明治4年)、官幣大社に列格された。二十二社に列せられた国家的に重要な神社として重視された結果と思われる。戦後は別表神社となった。

構成

比翼春日造 本殿

社地は大内裏の西北に位置し、紙屋川の辺りに位置している。本殿は東面している。100メートルほど東には北野天満宮がある。

この社地は平安京遷座以来、変わっていないが、面積は縮小しているようである。中世には北隣に神宮寺があり、本地堂、鐘楼、三重塔があった。このことは古図にも見える。

本社社殿は比翼春日造と呼ばれるもので、春日造の社殿を左右に二つ連結したものであり、これが二棟ある。合計四殿で、北から順番に第一殿から第四殿まであり、平野神社祭神の今木神、久度神、古開神、比売神が祭られている。現在の社殿は江戸時代初期に造営されたものである。さらにその南隣に摂社県社があり、天穂日命が祭られている。天穂日命は土師氏の祖神である。

境内社として、春日社、住吉社、蛭子社、鈿女社、八幡社、猿田彦社、稲荷社がある。境内は桜の名所となっている。

組織

『延喜式』には、平野神社を管理する職として、神殿守と物忌が記載されている。「凡平野神殿守者。以山城国徭丁一人充之。」(神祇三)とあり神殿守が置かれていたらしい。これは当社と園韓神社にのみ適応される規定であった(神殿守自体は春日と大原野にも見える)。天皇主導で創建された神社であり、神社を支える氏族勢力がなかったためだろうか。神殿守は正式な神職ではなく守衛のような者だろう。

祭祀に関わるものとしては、物忌が祭神三神について一人ずつ置かれていたらしい。物忌とは物忌は神前奉仕する童女(あるいは童男)である。『延喜式』には、当社のほかには伊勢神宮賀茂神社松尾神社鹿島神宮香取神宮に置かれたことが記されている。

平野神社の神職の長官を「預」という。神職を預と称するのは当社が代表例の一つであるが、ほかに春日大社でも見られ、春日大社では「正預」、「権預」などの諸職があったらしい。石清水八幡宮大原野神社吉田神社梅宮神社でも見られた。

平安時代前期、卜部平麿が「平野社預」となって以来、以後、卜部氏が平野神社の祭祀を行うようになった。のち卜部氏は平野流と吉田流(吉田家)にわかれたが、本来は平野流が嫡流であったらしい。

鎌倉時代には平野社預以下神職は源氏長者宣によって補任されるようになり、室町時代末まで続いたという。

江戸時代に入り、1709年(宝永6年)6月18日、卜部兼充は藤井を称した。 藤井家は東殿町南側にあった。菩提寺は浄福寺であった。明治以降、子爵となった。



古典籍

  • 1599年(慶長4年)『平野社再興記』[1]
  • 1627年(寛永4年)『平野神社縁起絵巻』
  • 1738年(元文3年)『荒見川祓平野社中記』
  • 卜部兼雄写 1748年(寛延1年)『平野社記』
  • 1815年(文化12年)『平野社正遷宮日時定陣儀交名』
  • 広橋光成 1815年(文化12年)『平野社並吉田社正遷宮申沙汰記』  
  • 1705年(宝永2年)『宝永二年十一月廿四日仙洞平野社御法楽』
  • 1705年(宝永2年)『宝永二年十月六日平野社御法楽』
  • 1706年(宝永3年)『宝永三年正月廿五日仙洞平野御法楽平野御法楽』
  • 1706年(宝永3年)『宝永三年十二月六日仙洞平野社御法楽』
  • 1707年(宝永4年)『宝永四年御会初并松尾平野御法楽』
  • 「平野神社社頭絵図」『神社古図集』
  • 『平野行幸次第』(『群書類従』所収)
  • 『安也春木 平野神社御鎮座次第』
  • 『石清水八幡宮平野神社正遷宮一会』
  • 『賀茂平野神拝次第』
  • 『賀茂平野両社記』
  • 『平野社旧記』
  • 『平野社記并儀式』 元文年間山本調茂写
  • 『平野社社頭儀次第』
  • 『平野社法楽短冊』
  • 『平野神社縁起絵詞』
  • 『平野祭類例』
  • 斎部富嗣『平野宮源家氏御神同氏子伝』
  • 斎部富嗣 天保年間『平野宮御瑞験記』
  • 斎部富嗣『平野宮略御伝記』
  • 斎部富嗣『平野宮記略』
  • 斎部富嗣『皇祖天神宮衣笠山大平野別宮宗像宮御伝記』
  • 斎部富嗣『大平野宮御伝記略』
  • 斎部富嗣 1831年(天保2年)『源氏御神平野宮次第』
  • 斎部富嗣『平野社源氏長者御管領次第』
  • 伴信友 『蕃神考』★
  • 鈴木重胤 1853年(嘉永6年)『延喜式祝詞講義 八之巻』

写真

参考文献

  • 「山城国葛野郡平野神社書類」『社寺取調類纂 第14冊』
  • 弓野俊夫 1910年(明治43年)『平野神社御伝記略』
  • 内藤湖南 1930年(昭和5年)「近畿地方に於ける神社」『日本文化史研究』弘文堂
  • 1936年(昭和11年)『官幣大社平野神社御鎮座地ノ変遷ニ就キテ 附・平野神社ヲ周クル名所旧跡,平野神社経営私見』★
  • 遠藤允信編 1937年(昭和12年)『平野集説』
  • 宮地直一 1942年(昭和17年)「源氏と平野神社との関係」『神道論攷』★
  • 西田長男「平野祭神新説」 1943年(昭和18年)『神道史の研究』雄山閣(『日本神道史研究 第9巻』再録)
  • 福山敏男 1943年(昭和18年)「年中行事絵巻の所謂平野祭図」『日本建築史の研究』桑名文星堂
  • 今井啓一 1957年(昭和32年)「桓武天皇御生母贈皇太后高野氏と平野神」『芸林』8-4
  • 林隆朗 1977年(昭和52年)「高野新笠をめぐって」『折口博士記念古代研究所紀要』3
  • 建部恭宣 1979年(昭和54年)「平野神社寛永度再興以前について」『学術講演梗概集 計画系』54★
  • 建部恭宣 1980年(昭和55年)「平野社殿私考 平安時代初・末期」『日本建築学会近畿支部研究報告集 計画系』20★
  • 1982年(昭和57年)「久度神社」『式内社調査報告 第二巻』
  • 義江明子 1984年(昭和59年)「平野社の成立と変質 外戚神説をめぐって」『日本歴史』4119(1986年(昭和61年)『日本古代の氏の構造』吉川弘文館)
  • 肥後和男 1985年(昭和60年)「久度神社祭神考」保井芳太郎編『大和王寺文化史論』
  • 上田正昭 1993年(平成5年)『平野神社史』
  • 岡田荘司 1994年(平成6年)「平安前期神社祭祀の「公祭」化」岡田荘司編『平安時代の国家と祭祀』続群書類従完成会★
  • 松前健 1995年(平成7年)「平野祭神論私見 神社祭祀の一形態の歴史的再構成」『宗教と社会 小口偉一教授古稀記念論集』
  • 稲田智宏 2003年(平成15年)「平野神社 謎の四柱の神を祀る平安京と皇太子守護の神社」『歴史読本』767
  • 榎村寛之 2004年(平成16年)「『斎宮年中行事新式』の著者、斎部富嗣について」『斎宮歴史博物館研究紀要』13
  • 中澤伸弘 2010年(平成22年)「平野神社御文庫講と平田篤胤」『書籍文化史』11
  • 平野神社ウェブサイト[2](2011年9月21日閲覧)
  • 「平野祭神」『神社史料集成』[3](2011年9月21日閲覧)
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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