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伏見稲荷大社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年11月8日 (金)
伏見稲荷大社 ふしみ いなり たいしゃ | |
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概要 | 稲荷神社の総本社。 |
奉斎 | 倉稲魂命、猿田彦命、大宮女命 (土岐昌訓論文) |
所在地 | 京都府京都市伏見区深草藪之内町68 |
所在地(旧国郡) | 山城国紀伊郡 |
所属(現在) | (単立) |
格式など | 式内社・名神大社・従三位・二十二社・朱印地拝領神社・官幣大社 |
関連記事 | 稲荷信仰・伏見稲荷大社関連旧跡 |
伏見稲荷大社(ふしみ・いなり・たいしゃ)は、京都府京都市伏見区にある稲荷信仰の総本社。おびただしい数の稲荷塚がある稲荷山がある。官社(式内社)・名神大社・従三位・二十二社・朱印地拝領神社・官幣大社。伏見稲荷大社関連旧跡も参照。神宮寺としては本願所の真言宗愛染寺をはじめ、社家菩提寺の浄土宗西光寺、神人・住民菩提寺の浄土宗浄安寺があった。
目次 |
歴史
境内
伏見稲荷大社の管轄下にあると思われるものだけを挙げる。稲荷山や伏見稲荷大社関連旧跡も参照。
エリア | 名称 | 社格など | 祭神 | 概要 |
---|---|---|---|---|
本社周辺 | 本社・下社 | 本社 | 宇迦之御魂大神 | 現在の社殿は1468年(応仁2年)の兵火で焼失後、1499年(明応8年)11月23日に再建されたもの。中央座に下社を祀る。1589年(天正17年)の豊臣秀吉奉加による大修理と、1694年(元禄7年)の徳川幕府による大修理を経ている。元禄の修理で正面に大型の唐破風を増設したが、1960年(昭和35年)の修理で分離し、新たに建てた内拝殿の正面に唐破風を移して取り付けた。五間社流造の社殿は類例が少なく、御香宮神社本殿、与杼神社本殿(焼失)、雄山神社前立社壇本殿しか知られていない。外観から想定される構造と、実際の内部構造が一致せず、三間社から五間社に移行した際に入れ子状にしたからとの説もある。明応以前は「西御前」と呼ばれた。 |
本社周辺 | 本社・中社 | 本社 | 佐田彦大神 | 北座 |
本社周辺 | 本社・上社 | 本社 | 大宮能売大神 | 南座 |
本社周辺 | 田中社 | 摂社 | 田中大神 | 下社の摂社。本社に合祀。最北座 |
本社周辺 | 四大神 | 摂社 | 四大神 | 中社の摂社。本社に合祀。最南座 |
本社周辺 | 権殿 | その他 | 本社や境内社の修理に際して仮に御神体を奉安する殿社。1635年(寛永12年)の再建。1959年(昭和34年)に北東に約1.8m後退させた。権殿とはいいながら本社本殿に相似した本格的な神社建築となっている。かつては若宮、若宮社と呼ばれていたので権殿ではなく神社であったのかもしれない。 | |
本社周辺 | 遙拝所 | その他 | 本社の後ろにある。稲荷山を遥拝する。 | |
本社周辺 | 東丸神社 | 府社(摂社) | 荷田春満 | 1890年(明治23年)、伏見稲荷大社摂社として創建され、1913年(大正2年)12月、独立した神社となり府社となった。荷田春満旧宅が隣接。社家旧宅にはそれぞれに神事屋があり、完全な形で唯一現存している。 |
表参道 | 霊魂社![]() | その他 | 神社関係者を合祀する祖霊社。『千三百年史』には祭神340柱とある。後醍醐天皇に仕えた大江景繁(?-1352)も含む。1874年(明治7年)9月に教部省に申請し、1875年(明治8年)8月に仮殿で創始。1884年(明治17年)4月に正式な社殿が建てられた。ただ現在の社殿からは1866年(慶応2年)の棟札が見つかっており、他の神社社殿を転用した可能性がある。 | |
表参道 | 藤尾社![]() | 末社 | 舎人親王 | 藤森神社の元宮といわれることが多い。舎人親王を葬った塚があったという。1589年(天正17年)の社頭図に「藤尾天皇再興西向」とあるのが、初見。1680年(延宝8年)、天皇塚の崩れた跡地に社殿を建てたという。塚は豊臣秀吉による天正の修理の馬場(表参道)造営で壊されたか。 |
表参道 | 熊野社![]() | 末社 | 伊邪那美大神 | 平安時代から本社の南隣にあったことが分かっている。『明応遷宮記録』には表参道南側にあったと記す。たびたび移転し、1959年(昭和34年)に現在地に遷座。熊野詣に赴く際に参拝する習慣があったという。 |
奥宮周辺 | 奥宮 | その他 | 稲荷大神 | 三社殿、上御殿、命婦、命婦御前社などと呼ばれた。北隣の白狐社と混同されることも多かった。天明頃に「上御殿」の名称に統一。1588年(天正16年)の豊臣秀吉による修理で回廊を再興したというが現在はない。1879年(明治12年)から奥宮と呼ばれる。近年の解体修理調査・発掘調査でこの場所に中世から社殿があったことが分かり、現在の本社が成立する以前の旧本社本殿である可能性も指摘されている。 |
奥宮周辺 | 奥社奉拝所 | その他 | 「奥の院」とも呼ばれる。奥宮や奥社奉拝所の周辺は「奥山」と呼ばれる。「稲荷山を拝む遙拝所」と説明されることもあるが神殿がある。『明応遷宮記録』に記述があるのが史料上の初見。江戸時代には「封戸所」とも「供物所」ともいった。1794年(寛政6年)焼失後に再建したのが現在の社殿で1975年(昭和50年)に後方に移築し、前方に拝所を設けた。現在は拝所で参拝するが、元々は直接供物を投入する特異な形式を持っている。 | |
奥宮周辺 | 遙拝所 | その他 | 奥社奉拝所の後ろにある。 | |
奥宮周辺 | 大八島社 | 摂社 | 大八島大神 | 大八嶋社 |
奥宮周辺 | 玉山稲荷社 | 末社 | 玉山稲荷大神 | 玉山稲荷周辺を「中壇」と呼んでいる。東山天皇が宮中に祀っていたものを明治に伏見稲荷大社に遷座。1692年(元禄5年)9月、島津命婦にお告げがあり稲荷大明神の分霊を東山天皇自ら祀ったという。1709年(宝永6年)の天皇崩御で、松室重興が預かり、室町一条の私邸に祀った。この時、地面をならしたところ大石が出現し、清浄な水が湧き出したので、その大石の上に祭り、「玉山」の神号を奉ったという。ついで洛北高野の別邸に遷座。宮中から毎年祭祀料が下付され、社殿修復の費用も出ていたが東京奠都で断絶。末裔の松室重勧が1874年(明治7年)に伏見稲荷大社への遷座を申請。同年11月6日に伏見稲荷大社権殿に仮遷座。1875年(明治8年)4月2日、島弁天堂跡地に建てられた新社殿に遷座した。1883年(明治16年)2月19日、弘法大師堂跡地の現在地に遷座。 |
奥宮周辺 | 新供物所 | その他 | 玉山稲荷の北隣にある。稲荷山のお塚参りの際の祈祷所という。1859年(安政6年)造営。開口部から直接供物を投入する特異な形式を持っている。 | |
奥宮周辺 | 白狐社 | 末社 | 命婦専女神 | 奥宮の北隣にある。「奥命婦社」とも呼ばれた。奥宮と混同されることも多かった。元は現在地より一段低い中壇にあったが、1694年(元禄7年)の境内大整備で11月3日に現在地に遷座した。床下土間には数個の割石が置かれ、土台下の亀腹中央付近には床下への出入り口のようなものがある。天正の社頭図に「奥命婦」「ホラ」と書かれ、白狐信仰に関わるものとみられている。 |
奥宮周辺 | 両宮社 | 末社 | 天照皇大神、豊受皇大神 | 天正年間以前の創建。1694年(元禄7年)の境内大整備で現在地に再建か。 |
奥宮周辺 | 八幡宮社 | 末社 | 応神天皇 | 「五社相殿」。それぞれが早くから境内社として存在したが、1694年(元禄7年)の境内大整備で現在地に相殿として再建された。 |
奥宮周辺 | 日吉社 | 末社 | 大山咋神 | |
奥宮周辺 | 若王子社 | 末社 | 若王子大神 | |
奥宮周辺 | 猛尾社 | 末社 | 須佐之男命 | |
奥宮周辺 | 蛭子社 | 末社 | 事代主神 | |
奥宮周辺 | 荷田社 | 末社 | 荷田氏祖神 | 諸説あり。荷田社神蹟と関連するか。1176年(安元2年)に亡くなった荷田氏の祖先を、命婦社の南に祀ったのが始まりという。『明応遷宮記録』には「荷大夫明神」とある。1694年(元禄7年)の境内大整備で現在地に遷座。 |
奥宮周辺 | 長者社 | 末社 | 秦氏祖神 | 諸説あり。長者社神蹟と関連するか。『明応遷宮記録』に記載。1694年(元禄7年)の境内大整備で現在地に遷座。 |
奥宮周辺 | 神苑斎場 | その他 | ||
稲荷山 | 御膳谷奉拝所・御膳谷神蹟 | 神蹟 | 稲荷山の三つの峰の祭神に神饌を供えるところ。伊勢神宮の御饌殿のようなところだろうか。大山祭の祭場。御饌石がある。神饗殿(みあえどの)、御竈殿(みかまどの)などがあった。御前谷とも。 | |
稲荷山 | 一ノ峰・上之社神蹟 | 神蹟 | 末広大神 | 稲荷山の最高峰標高233m。1877年(明治10年)6月に碑を建立。 |
稲荷山 | 二ノ峰・中之社神蹟 | 神蹟 | 青木大神 | |
稲荷山 | 三ノ峰・下之社神蹟 | 神蹟 | 白菊大神 | |
稲荷山 | 荒神峰・田中社神蹟 | 神蹟 | 権太夫大神 | 後方に展望所がある。 |
稲荷山 | 間ノ峰・荷田社神蹟 | 神蹟 | 伊勢大神 | |
稲荷山 | 劔石・長者社神蹟 | 神蹟 | 加茂玉依姫 | 焼刃の水という井戸がある。剣石(雷石)がある。御剣社とも。 |
稲荷山 | 熊鷹社 | その他 | ||
稲荷山 | 清明舎 | その他 | 川面凡児の影響を受けた高山昇が創設。 | |
稲荷山 | 清滝 | その他 | ||
稲荷山 | 御幸奉拝所 | その他 | 1963年(昭和38年)に開設。横山大観の筆塚がある | |
境外 | 田中神社 | 境外摂社 | 田中社、四大社 | 明細図書では「田中大神」のみ。東福寺との境にあり、伏見稲荷大社の境内の北端を示していたという。広大な社地があったと伝える。現在の社殿は1645年(正保2年)の再建。 |
境外 | 松明殿稲荷神社 | 境外末社? | 天照大神、大己貴命、伊弉諾命、伊弉冊命、猿田彦命、倉稲魂命 | 日本歴史地名大系より |
境外 | 天満宮 | 境外末社? | 松明殿稲荷神社境内。 | |
境外 | 奉安殿![]() | その他 | 御旅所内。稲荷祭で神輿を奉安する。 | |
境外 | 御旅殿![]() | 境外末社? | 稲荷大神 | 御旅所内。 |
境外 | 下命婦社![]() | 境外末社 | 下之命婦 | 御旅所内。(明細図書など) |
境外 | 上命婦社![]() | 境外末社 | 上之命婦 | 御旅所内。(明細図書など) |
境外 | 大神宮![]() | 境外末社 | 天照皇大神、豊受皇大神 | 御旅所内。(明細図書など) |
- 多宝塔
- 本地堂
- 弁天堂
- 弘法大師堂:1642年(寛永19年)、毛利公麿が再建。
- 文殊堂
- 大黒堂
- 島弁天堂
- 愛染寺:愛染寺の名の初出は1633年(寛永10年)という。
- 聖天堂
- 広田社
- 祇園社
- 太田社
- 影向社
- 瀧尾社
組織
江戸時代には下社神主、中社神主、上社神主、御殿預、目代の正官5人を中心に運営された。その下に禰宜、祝、権御殿預、権目代など12人がおり、さらに下に神人5人がいた。また他に本願所として愛染寺があった。下社神主、中社神主、上社神主は秦氏の安田家、大西家、松本家、毛利家などが交代で務めた。御殿預は荷田氏の東羽倉家が、目代は荷田氏の西羽倉家が務めた。神主は「社務」とも呼ばれ、現在の宮司に相当した。御殿預と目代は神社の財政や社殿管理を管轄した。荷田氏は秦氏の下位に位置付けられ、位階昇進などにも差があった。
大西家
松本家
森家
東羽倉家
御殿預(正御殿預、正預)を世襲し、稲荷社五社のうち田中社に奉仕した。荷田氏。権御殿預(御殿権預、権預)を経て御殿預となる場合も少なくない。竈(へっつい)家とも呼ばれた。配下に田中社祝(秦氏)がいた他、神人を管轄した。東羽倉家出身の国学者として荷田春満が知られる。
歴代 | 名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 荷田殷 | 雄略天皇皇子の磐城王の末裔という。稲荷山の地主。711年(和銅4年)の鎮座の後、祠官となる。荷田社祭神という。 | ||
2 | 荷田嗣 | 天平年間。荷田社祭神。 | ||
3 | 荷田早 | 延暦年間。荷田社祭神。 | ||
4 | 荷田龍 | 弘仁年間。荷田大夫(荷田太夫)を称す。俗に龍頭太に呼ばれる。817年(弘仁8年)12月13日死去という。荷田社祭神 | ||
38 | 羽倉延秀 | ?-1500 | 1485- | 伝38世。修理亮。1485年(文明17年)9月御殿預(明応年間とも)。1500年(明応9年)8月死去。 |
39 | 羽倉延俊 | 生没年不詳 | 1501- | 羽倉延秀の子。修理亮。1501年(文亀1年)9月5日、御殿預。 |
40 | 羽倉延胤 | 1492?-1538 | 1505- | 羽倉延俊の子。修理亮。1505年(永正2年)7月28日、御殿預。1538年(天文7年)6月10日死去。47歳または48歳。 |
41 | 羽倉延範 | ?-1559 | 1539- | 羽倉延胤の子。主膳正。1539年(天文8年)7月23日、御殿預。1559年(永禄2年)8月死去。30歳または33歳。 |
42 | 羽倉範次 | 1547-1593 | 1560- | 実兄羽倉延範の養子。羽倉延胤の次男。1547年(天文16年)生。1560年(永禄3年)9月8日御殿預。1593年(文禄2年)9月6日死去(7日とも)。47歳。子に羽倉信次、羽倉重利の他、江戸に分家を立て幕府に仕えた羽倉重範(羽倉秘救や羽倉簡堂の先祖)がいる。 |
43 | 羽倉信次 | 1576?-1605 | 1594- | 羽倉範次の子。木工頭。1594年(文禄3年)10月7日、19歳で御殿預。1605年(慶長10年)3月4日死去(8日とも)。25歳または30歳。 |
44 | 羽倉重利 | 1581?-1613 | 1605- | 実兄羽倉信次の養子。羽倉範次の次男。主膳正。1605年(慶長10年)7月4日、25歳で御殿預。1613年(慶長18年)5月17日死去。27歳または33歳。 |
45 | 羽倉信当 | 1608-1648 | 1625- | 羽倉重利の子。主膳正。1618年(元和4年)1月、11歳で権御殿預。1625年(寛永2年)3月16日御殿預(10年以上の空白期間があるが年少だったためか)。1648年(慶安1年)2月13日死去。41歳。 |
46 | 羽倉信吉 | 1610?-1687 | 1648- | 羽倉信当の養子。羽倉重利の次男。主馬。1623年(元和9年)1月、非蔵人を兼ねる。1663年(寛文3年)1月26日、上北面となる。1648年(慶安1年)6月25日、39歳で御殿預。1663年(寛文3年)従五位下・摂津守。1687年(貞享4年)7月4日死去。78歳または79歳。子に羽倉信詮の他、安田幸親(祓川親賢の子。上久我安田家祖。親民。非蔵人)がいる。 |
47 | 羽倉信詮 | 1643-1696 | 1657- | 羽倉信吉の養子。秦氏系の祓川親賢の長男。荷田春満の父。1643年(寛永20年)生。父方の祖母が羽倉重利の元妻で羽倉信当の生母に当たる縁で、古例を破り、秦氏から養子に入ったという。1657年(明暦3年)12月26日、16歳で御殿預。日蓮宗の元政と深い交流があった。主膳正。従五位下。のち正五位下。1696年(元禄9年)3月13日死去。54歳。「羽倉信詮日記」が伝わる。 |
48 | 羽倉信友 | 1660-1717 | 1697-1717 | 羽倉信詮の長男。荷田春満の兄。1660年(万治3年)生。正五位上。非蔵人。1669年(寛文9年)11月28日権御殿預。1697年(元禄10年)4月9日御殿預(10月4日とも)。1703年(元禄16年)主膳正。1717年(享保2年)8月7日死去(1716年(享保1年)8月9日とも)。58歳(57歳とも)。「荷田信友日記」が伝わる。 |
49 | 羽倉信名 | 1685-1751 | 1717- | 実兄羽倉信友の養子。羽倉信詮の八男。荷田春満の弟。主馬。1685年(貞享2年)生。1705年(宝永2年)6月5日、21歳で権御殿預。同年従五位下(従四位下とも)。養父(実兄)の死で1717年(享保2年)10月5日御殿預(11月5日とも)。同年従五位上。1723年(享保8年)2月13日河内守。1725年(享保10年)正五位下。1728年(享保13年)10月4日摂津守(14日とも)。1735年(享保20年)4月から1740年(元文5年)3月まで愛染寺との訴訟のため江戸に滞在。在府中、信名・在満を頼って賀茂真淵が出府して来訪。1740年(元文5年)従四位下。1751年(宝暦1年)4月24日死去。67歳。「正預信名家記」「荷田信名日記」が伝わる。『著書に『稲荷社五社合祭神号并摂社神号等抜書』『稲荷社本縁鎮座奥秘家伝之抜粋』『山城国紀伊郡稲荷本山正官御殿預竈家由来之略記』。 |
(羽倉信章) | 1707-1735 | 羽倉信名の子。1707年(宝永4年)生。初名は信理。1718年(享保3年)5月8日、12歳で権御殿預(9月5日とも)。1730年(享保15年)6月26日、石見守・従五位上。1735年(享保20年)11月17日死去。29歳。 | ||
(羽倉延武) | 1708-1746 | 羽倉信名の養子。羽倉信元(西羽倉家、1662-1735)と勢子(羽倉信詮の娘)の子。1708年(宝永5年)生。1736年(元文1年)6月17日、29歳で権御殿預。同年2月19日豊前守・従五位上。1746年(延享3年)6月19日死去。39歳。 | ||
50 | 羽倉信郷 | 1739-1800 | 1751- | 羽倉信名の養子。羽倉信満(羽倉信詮の子の羽倉宗武の子。1708-?)の子。靫負。1739年(元文4年)生。1751年(宝暦1年)4月24日権御殿預。同年6月23日御殿預。同年10月1日摂津守・正四位下。1800年(寛政12年)閏4月29日死去。羽倉子晟。 |
51 | 羽倉信邦 | 1746-1809 | 1778- | 羽倉信郷の養子。羽倉延武の子。靫負。1746年(延享3年)生。1756年(宝暦6年)11月7日、11歳で権御殿預。1777年(安永6年)6月29日、摂津守。1778年(安永7年)12月26日御殿預。1790年(寛政2年)10月7日正四位下。1809年(文化6年)2月21日死去(1月13日とも)。64歳。実弟の羽倉信寿(1754-1808、非蔵人)が分家北羽倉家を興す。 |
(羽倉延年) | 1777-1799 | 羽倉信邦の養子。羽倉信郷の子。1777年(安永6年)生。1786年(天明6年)閏10月18日、10歳で権御殿預。同年12月19日石見守。1799年(寛政11年)7月21日死去。23歳。 | ||
52 | 羽倉信純 | 1799-1860 | 1809- | 羽倉信邦の子。1799年(寛政11年)生。1809年(文化6年)2月18日、11歳で権御殿預となり2日後の2月20日御殿預。同年6月8日従五位下(正四位下とも)・摂津守。1838年(天保9年)12月22日正四位下。1860年(万延1年)4月19日死去。62歳。 |
53 | 羽倉信義 | 1856-1917 | 1860- | 羽倉信純の次男。1856年(安政3年)生。1860年(万延1年)3月27日に5歳で権御殿預となり、直後の閏3月7日に御殿預となる。1861年(文久1年)10月10日摂津守・従五位上。1871年(明治4年)廃官。1890年(明治23年)5月東丸神社社掌。1903年(明治36年)12月、東丸神社社司。1917年(大正6年)2月25日死去。61歳。 |
54 | 羽倉信真 | 羽倉信義次男。 |
西羽倉家
歴代宮司
歴代 | 名 | 生没年 | 在職年 | 略歴 |
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梅渓通善 | 1821-1899 | 御改革御用掛 | ||
1 | 梅渓通治 | 1831-1916 | (略歴は、石清水八幡宮#組織を参照) | |
2 | 安江静 | 生没年不詳 | 1873- | 『新撰葬祭考』など。(『神道人名辞典』) |
3 | 近藤芳介 | 1822-1898 | 1879- | 国学者、歌人。山口藩の佐甲家出身。1822年(文政5年)生。国学者の近藤芳樹の養子となる。足代弘訓に師事。京都から七卿落ちに同行。明倫館助教。宣教使に出仕し、宣教少博士。1873年4月27日平野神社少宮司。8月4日、平野神社大宮司に昇進。1875年10月31日退任。1875年(明治8年)松尾大社大宮司。1879年(明治12年)伏見稲荷大社宮司。京都で源氏物語を講義。雄弁家だったという。1898年(明治31年)死去。著書『静居遺稿』『寄居文集』。また『雪のしらゆふ 近藤芳介追吊歌集』もある。(『神道人名辞典』ほか) |
4 | 国重正文 | 1840-1901 | 1898- | 社寺局長を務めた内務官僚。山口藩出身。1840年(天保11年)生。1871年(明治4年)京都府少参事、大書記官。1883年(明治16年)富山県令(初代、のち知事)。1888年(明治21年)内務省社寺局長。山田顕義に重用され1893年(明治26年)から1896年(明治29年)まで国学院院長。帝国奈良博物館理事。1898年(明治31年)伏見稲荷大社宮司(叙位裁可書には1899年(明治32年)とある)。1901年(明治34年)10月27日死去。(『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』『神道人名辞典』、叙位裁可書「稲荷神社宮司従七位勲五等国重正文特旨ヲ以テ位一級被進ノ件」、国学者伝記集成) |
5 | 大貫真浦 | 1850-1916 | 1901-1916 | 平田派の国学者。下野国の鹿沼・今宮神社社家の出身。1850年(嘉永3年)生。1873年(明治6年)日光東照宮権禰宜兼訓導。1875年(明治8年)1月28日、札幌神社宮司兼大講義兼開拓使御用掛となる。1880年(明治13年)8月9日、函館八幡宮宮司。1882年(明治15年)正八位。1893年(明治26年)11月4日、伊勢神宮禰宜。1894年(明治27年)6月9日南宮大社宮司。7月20日正七位。1894年(明治27年)10月27日、石清水八幡宮宮司。1895年(明治28年)従六位。1901年(明治34年)5月20日、正六位。同年10月31日、伏見稲荷大社宮司となる。1908年(明治41年)京都府皇典講究分所長。1916年(大正5年)12月、在職で死去。従四位。著書『稲荷神社史料』。都賀廼舎。 |
6 | 岡部譲 | 1849-1937 | 1917-1922 | 国学者。賀茂真淵の子孫。伊場村出身。1849年(嘉永2年)生。権田直助に師事。1873年(明治6年)、神社教法を上申し、少講義となり、大教院編集に従事。同年、出雲神社権宮司(少宮司?)兼中講義となる。1874年(明治7年)、井伊谷宮宮司兼権大講義。1878年(明治11年)、秋葉神社祠官を兼務。1890年(明治23年)、依願退職し、翌年、浅場村村長。1893年(明治26年)、大神神社宮司。翌年、伊勢神宮権宮司。御園の復活、皇学館拡張、『古事類苑』編纂などに功績を挙げたが、内宮炎上の責任を感じ、辞職。1899年(明治32年)、多賀大社宮司となり、官幣大社昇格を実現。1914年(大正3年)、熱田神宮宮司となり、愛知県皇典講究分所所長兼任。1917年(大正6年)、伏見稲荷大社宮司となる。1922年(大正11年)退職。浜名湖湖畔に隠居し、県居神社の興隆に尽力。蔵書1万2000冊を寄贈して県居文庫・県居会を創設。1937年(昭和12年)死去。(『神道人名辞典』) |
7 | 今井清彦 | 1857-1922 | 1922-1922 | 神宮少宮司を務めた神職。伊勢国の香良洲神社社家の出身。神宮本教館で学び、1882年(明治15年)神宮宮掌。1884年(明治17年)神宮教院に転出し、二等録事大講義、宇都宮本部副長、大阪本部長、岡山本部長を歴任。神宮に戻り、1888年(明治21年)神宮主典。1890年(明治23年)式年遷宮に奉仕。1891年(明治24年)気比神宮宮司、翌年金崎宮宮司兼務となり1896年(明治29年)藤島神社宮司を兼務。1906年(明治39年)現場を退き、皇典講究所幹事兼国学院大学主事。1914年(大正3年)神宮少宮司。1918年(大正7年)神宮皇学館館長事務取扱。1922年(大正11年)伏見稲荷大社宮司。同年死去。日本人名大辞典では1860年(万延1年)生まれ。(『神道人名辞典』、『日本人名大辞典』) |
8 | 山田新一郎 | 1864-1946 | 1922-1924 | 内務官僚。北野天満宮宮司を本務として兼任。略歴は北野天満宮の項目を参照。 |
9 | 高山昇 | 1864-1950 | 1924-1937 | 神社界の要職を歴任した神職。群馬県の巌鼓神社社家の出身。1864年(元治1年)生。皇典講究所卒。1890年(明治23年)長崎県皇典講究分所教授となり、東山学院などで教える。1893年(明治26年)帰郷して私塾開設。1895年(明治28年)6月、浅間大社宮司となり、富士山八合目以上を境内だと政府に認めさせる。1896年(明治29年)実家の神社を継ぐ。1899年(明治32年)塩竈神社宮司。1900年(明治33年)神宮神部署署長(初代)。1902年(明治35年)、皇典講究所主事となり、全焼した国学院大学の復興に努める。1913年(大正2年)厳島神社宮司。1924年(大正13年)伏見稲荷大社宮司となる。稲荷信仰の「浄化」に努め、附属稲荷講社設立。東京に東伏見稲荷神社を創建し、鵠沼海岸に禊練成道場、鵠沼伏見稲荷神社を建設した。1929年(昭和4年)内務省神社制度調査会特別委員。1937年(昭和12年)宮司を退任し、同年、皇典講究所専務理事。1950年(昭和25年)死去。乃木神社社司兼務(1945年(昭和20年)まで)、神社局(神祇院)参与。神社本庁顧問。著書『神代記読本』など。(『神道人名辞典』、『日本人名大辞典』) |
10 | 鈴木松太郎 | 1872-1955 | 1936-1955 | 愛知県出身。1872年(明治5年)生。内藤兼蔵の子。国学院大学卒。水戸中学校教諭。熊野本宮大社宮司、砥鹿神社宮司、熱田神宮権宮司、明治神宮権宮司、宇都宮二荒山神社宮司、浅間大社宮司を歴任。1936年(昭和11年)伏見稲荷大社宮司となる。1955年(昭和30年)7月24日、在職で死去。 |
11 | 藤巻正之 | 1877-1968 | 1956-1964 | 岡山県出身。1877年(明治10年)生。1956年(昭和31年)伏見稲荷大社宮司。1964年(昭和39年)退任。1968年(昭和43年)死去。 |
12 | 守屋光春 | 1904- | 1964-1982 | 四条畷神社宮司。伏見稲荷大社講務本庁管長。葉山町長。1904年(明治37年)生。1964年(昭和39年)伏見稲荷大社宮司。1982年(昭和57年)退任。 |
13 | 坪原喜三郎 | 1922-2009 | 1982-2005 | 伏見稲荷大社講務本庁管長。石川県出身。1922年(大正11年)生。国学院大学卒。宮崎神宮、湊川神社を経て伏見稲荷大社に奉職。1982年(昭和57年)宮司。2005年(平成17年)退任。2009年(平成21年)死去。 |
14 | 中村陽 | 1935- | 2005-2021 | 伏見稲荷大社附属講務本庁管長。1935年(昭和10年)生。2005年(平成17年)から2021年9月30日まで伏見稲荷大社宮司。 |
15 | 舟橋雅美 | 1943- | 2021- | 1943年生。国学院大学卒。2021年10月1日伏見稲荷大社宮司。 |
少宮司・権宮司
- 野間正綱()<1873-1877>:少宮司。1873年2月27日就任。1877年12月12日、制度改正で少宮司廃止となり禰宜となる。
- 中村義次()<>:
- 中村陽()<>:
「稲荷神社志料」[15]
画像
資料
史料集
脚注
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