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射水神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年11月9日 (水)

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射水神社
いみず じんじゃ
Imizu-jinja 001.jpg
概要 二上山の神を奉斎する神社。
奉斎 二上神
(土岐昌訓論文)
所在地 富山県高岡市古城1-1
所在地(旧国郡) 越中国射水郡
所属(現在) 神社本庁
格式など 式内社名神大社正三位越中国一宮国幣中社別表神社
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目次

概要

歴史

境内

組織

宮司

  • 関守一(1830-1882)<>:高岡出身の神職。上京して六人部是香に師事。越中社家触頭となる。関野神社祠官。1872年(明治5年)5月、射水神社権宮司に就任。宮司が空席のため、事実上のトップだった。高岡遷座を実施。1877年(明治10年)12月退職。1882年(明治15年)3月4日死去。
  • 1青山悳次(1832-1893)<1873-1874>:金沢藩家老。歌人。1873年(明治6年)7月、射水神社宮司に就任。翌年12月まで務めた。1893年(明治26年)4月27日死去。
  • 2加藤里路(1840-1911)<1875-1880>:金沢藩出身の国学者。1840年(天保11年)生。狩谷竹鞆に師事。維新後、金沢藩宣教掛を経て、政府の神祇官・教部省に出仕。1875年(明治8年)1月に射水神社宮司に就任。1880年(明治13年)2月まで務めた。尾山神社祠官。白山比咩神社宮司や気多大社宮司も務めた。石川県内の各神社で説教。晩年は金沢で興道社を起こす。1911年(明治44年)2月死去。72歳。著書に『神風余響』『志北能屋集(志比能屋集?)』『椎の屋集』『神木記』『羽咋海備考』『平安奠都紀念唱歌』『尾山神社編年要誌』。
  • 3加藤里衡()<1880-1901>:1880年(明治13年)2月、射水神社宮司に就任。1901年(明治34年)6月まで20年あまり務めた。加藤里路の実弟。子に化学者の飯盛里安。
  • 4保科保(1845-?)<1901-1905>:磐城平藩の典医の家の出身。1845年(弘化2年)生。1901年(明治34年)6月、射水神社宮司に就任。1905年(明治38年)9月、八坂神社宮司に転任。(略歴は八坂神社#組織を参照)
  • 5園田弘(生没年不詳)<1905-1907>:生没年不詳。日光二荒山神社宮司を経て1903年(明治36年)1月9日、八坂神社宮司。1905年(明治38年)9月7日、射水神社宮司に就任。1907年(明治40年)3月、玉前神社宮司に転任。編書に『日本神字考』。
  • 6三河彦治()<1907-1909>:1907年(明治40年)3月6日、射水神社宮司に就任。1909年(明治42年)11月、白峰神宮に転任。
  • 7金子吉祇(1861-1924)<1909-1915>:越後出身の神職。1909年(明治42年)11月に射水神社宮司に就任。1915年(大正4年)3月に豊国神社宮司に転任。西寒多神社宮司、気比神宮宮司、賀茂御祖神社宮司などを歴任。著書は『上宮聖徳法王帝説新注』。
  • 8長尾常良()<1915-1919>:1915年(大正4年)3月に射水神社宮司に就任。1919年(大正8年)6月に竈山神社宮司に転任。
  • 9松永常彦()<1919-1921>:1919年(大正8年)6月に射水神社宮司に就任。1921年(大正10年)4月に壱岐住吉神社に転任。
  • 10高野義太郎()<1921->:1921年(大正10年)4月に射水神社宮司に就任。
  • 平尾三郞()<>:
  • 松本正昭()<>:

(高野義太郎『国幣中社射水神社志』)

画像

資料

  • 『国幣中社射水神社志』[1]

脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%B0%84%E6%B0%B4%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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