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京都・金蓮寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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金蓮寺(こんれんじ)は、京都府京都市北区鷹峯藤林町にある一遍旧跡の時宗寺院。元は四条京極にあった。祇陀林寺が前身と伝える。かつての時宗四条派の拠点寺院。一遍賦算の旧跡。錦綾山金蓮寺。四条道場。(参考:同名寺院金蓮寺)
遊行派の拠点であった七条道場とたびたび対立した。 時宗四条派の四本寺に浄信寺、熱田・円福寺、和泉・引接寺、尼崎摂津・善通寺があった。
目次 |
子院
- 元正院:
- 梅林院:
- 後松庵:
- 照月院:
- 知足院:
- 南涼院:
- 寿福庵:
- 永福院:
- 宝珠庵:
- 長春庵:
- 尋牛庵:
- 興徳庵:
- 松林院:
- 放光庵:
- 十住心院:空海の旧跡という。染殿院と改称。
- 真珠庵:
組織
歴代住職
- 1浄阿真観(1268-1341)<>:上総出身。鎌倉極楽寺で忍性に戒律を学び、紀伊興国寺の心地覚心に禅を学ぶ。心地覚心の勧めで熊野本宮、熊野新宮に参詣。新宮で夢告により「念仏の形木」を授けられ、賦算を命じられたという。この時、一阿弥陀仏の名を与えられた。心地覚心から印可を得て、諸国を遊行。越中野尻で日蓮宗信徒に迫害され、淵に沈められそうになったが、奇瑞により領主に助けられた。野尻の日蓮宗信徒はみな念仏に帰依したという。1300年、上野国で他阿真教に出会い、3日間の法談を経て浄阿と改めた。真教と共に遊行し、1304年1月、共に無量光寺に逗留。1309年、上洛して祇陀林寺釈迦堂に寓す。1311年2月には後伏見上皇の妃の広義門院寧子の出産に念仏札を授けたところ、無事に皇子(のちの光厳天皇)が生まれた。よって後伏見上皇から上人号を賜り、寺号を金蓮寺と改めた。無量光寺にいた真教は形木名号と印可状を送って相続。また浄阿は上奏して、綸旨で真教に「他阿上人」号が許可された。1314年9月、他阿真教が金蓮寺に立ち寄ると広義門院が聴聞に参詣。広義門院は浄阿に賦算の許可も与えるように請願し、洛中に限って賦算権を認めた。1341年6月2日死去。74歳。(時宗教団史)
- 2浄阿(1304-1360)<1341->:連歌師としても活躍。現在熱田神宮に残る熱田本日本書紀は浄阿が末寺の円福寺厳阿を介して熱田神宮権宮司田島仲宗に寄贈したもの。
- 3厳阿:
- 4重阿:
- 5慶阿:足利尊氏の伯父。
- 6釈阿:
- 7文阿:
- 8浄阿:
- 9浄阿:
- 10浄阿:
- 11浄阿:
- 12浄阿:
- 13浄阿:
- 14浄阿:
- 15浄阿:
- 16浄阿:
- 17浄阿:
資料
- 1892「元禄頃、嘉永頃、四条道場画巻抜萃模様二葉」『大日本窯業協会雑誌』1-9[1]
- 1892「四条道場一遍上人画巻、享保頃小袖紋様、英一蝶十二月画巻四図二葉」『大日本窯業協会雑誌』1-10[2]
- 河野憲善1960「四条道場の創建と浄阿真観」『印度学仏教学研究』8-1[3]
- 大橋俊雄1978『一遍と時宗教団』
- 有賀祥隆1978「金蓮寺(四条道場)の絵画」『時宗教学年報』6号
- 若杉準治1982「金蓮寺蔵浄阿上人絵伝について」『京都国立博物館学叢』4[4]
- 阿部征寛1982「京都四条道場金蓮寺文書―中世編」『庶民信仰の源流:時宗と遊行聖』
- 阿部征寛1982「四条道場(金蓮寺)と浄阿上人真観」『庶民信仰の源流:時宗と遊行聖』
- 小山正文1994「『西国巡礼三拾三処普陀落伝記』:四条道場金蓮寺浄阿真順法談本」『時宗教学年報』22号
- 藤原正義1996「金蓮寺蔵「頓阿書状」年次考」『時宗教学年報』24号
- 大槻洋二1998「京都・新京極の成立母胎としての寺町:伝統都市の近代における歓楽街形成に関する史的研究その1」[5]
- 古賀克彦2000「【新出史料紹介】時宗四条派本山金蓮寺歴代記(小倉山蓮台寺蔵)[付四条道場金蓮寺(浄阿)歴代]」『時衆文化』1
- 古賀克彦2005「時衆四条道場金蓮寺歴代浄阿の上人号について」『寺社と民衆』1
- 川端咲子2002「四条道場芝居考」『芸能史研究』159
- 2012「四条道場金蓮寺末寺宝福寺領地指図(堅紙)一三〇」『長楽寺蔵七条道場金光寺文書の研究』
- 本多康子2015「京都時衆教団における祖師伝絵巻制作:金蓮寺本を中心に」『鹿島美術財団年報』33
- 小林善仁2017「明治初期の境内地処分と旧境内地の開発:新京極を事例に」『佛教大学総合研究所共同研究成果報告論文集』3
- 津田徹英2018「詞書の筆跡からみた金蓮寺本『遊行上人縁起絵』の位相」『美術研究』423[6]
- 井並林太郎2020「六字名号・一遍上人僧尼踊躍念仏図(金蓮寺蔵)について」『文化学年報』69