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今宮神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
今宮神社
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[[file:Kokudo0069.jpg|thumb|300px|船岡山と大徳寺と今宮神社(国土地理院空中写真より)]] '''今宮神社'''(いまみや・じんじゃ)は、京都府京都市北区紫野にある[[牛頭天王信仰]]・[[御霊信仰]]の代表的な神社。主祭神は[[大己貴命]]などで、[[スサノオ]]は含まないが、本社と並ぶ摂社[[疫神社]]にスサノオを祀る。[[府社]]。[[神社本庁]]所属。聚楽第の守護神。[[大徳寺]]に近い。[[船岡山]]の東に[[今宮神社御旅所|御旅所]]がある。境内社に織姫社、大将軍社、加茂斎院社がある。本社例祭を'''今宮祭'''といい、平安時代の'''紫野御霊会'''に由来。また疫神社の祭礼を'''やすらい祭り'''といい、京の三奇祭の一つとされ、古代の'''鎮花祭'''に起源があるという。'''紫野社'''。(参考:同名神社[[今宮神社_(同名)]]) == 概要 == 祇園祭に代表されるように、平安時代に都の各地で疫神が恐れられ、御霊会が盛んに行われた。994年(正暦5年)、西方からの疫病が京都にはやり、『本朝世紀』には4月頃には病者の行き倒れを多く、6月には疫神が京内を動いているという流言から家々は門戸を閉じて通行人もいなかったと記されている。6月27日、朝廷は神輿2基を造り、疫神を祭り込めて、船岡山に奉安。人々は疫霊を幣帛に移して難波江(大阪湾)に流したという。これが紫野御霊会であり今宮祭りの起源という。また京内の老若男女が神輿に供奉して鉾を振って歌い踊って見守ったといい、これがやすらい祭りの起源という。 1001年(長保3年)にも疫病が流行。5月9日、このとき疫神を平安遷都以前からこの地にあったという別の疫神社がある現在地に遷し、新たに神殿を造営し、祭ったのが今宮神社の創建となったという。祭神は大己貴命、事代主命、奇稲田姫命とした。[[疫神社]]は摂社とされ、祭神は[[八坂神社]]と同じくスサノオとされた。 1279年(弘安2年)、従二位。1282年(弘安5年)正一位。その後は西陣などの地域の氏神・産土神としての信仰が高まり、武家の崇敬が篤く室町幕府による社殿造営があり、[[豊臣秀吉]]は[[聚楽第]]の産土神として1593年(文禄2年)に[[御旅所]]を再興した。さらに江戸時代には5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院が西陣出身であったことから篤く崇敬し、1694年(元禄7年)に社殿造営を行い、やすらい祭を復興したという。明治初年に郷社となり、1881年(明治14年)6月に[[府社]]となった。1896年(明治29年)に本殿を焼失。1902年(明治35年)に復興したのが現在の社殿である。楼門は1926年(昭和1年)に建立されたものである。 [[大徳寺]]に近く、1460年(寛正1年)8月、今宮神社と大徳寺無量寿院の間で敷地をめぐる争論があったという。 境内社として摂社疫神社がある。末社が多数あり、織物の祖神'''栲幡千々姫命'''(たくはたちぢひめのみこと)を祀る織姫社、八社、牛頭天王と八大王子を祀る[[紫野・大将軍社]]、日吉社、稲荷社、織田稲荷社(阿弥陀寺にあったという)、若宮社(愛宕神という)、[[加茂斎院社]]、食稲魂大神と猿田彦大神を祀る地主社、月読社、宗像社がある。織姫社は織物が盛んな西陣の守護神として江戸時代に創建され、1782年(天明2年)、御旅所内に遷座し、1788年(天明8年)の「西陣焼け」で焼失するが1792年(寛政4年)に本社内に遷った。 == 参考文献 == *平成24年「今宮神社由緒略記」 [[category:京都府]]
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