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信濃・本誓寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
信濃・本誓寺
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'''本誓寺'''(ほんせいじ)は、長野県長野市松代(信濃国埴科郡)にある、[[親鸞]]高弟の[[二十四輩]]第10番[[是信房]]ゆかりの[[浄土真宗]]寺院。[[善光寺信仰]]の寺院。南朝武将[[新田家]]ゆかりの寺院。松代藩[[真田家]]の庇護を受け、'''松代城'''の東南800mにある。[[真宗大谷派]]。「'''平林山新田院真田園本誓寺'''」(へいりんざん・にったいん・さなだえん・ほんせいじ)といい、「'''園号'''」を持つ珍しい寺院。(参考:同名寺院[[本誓寺]]) '''是信房'''(ぜしんぼう)は、京都出身の[[藤原氏]]の公家で、俗名を'''吉田信明'''と言ったが、平氏の没落で流罪となって、越後柏崎(新潟県柏崎市)にいた。このとき、親鸞に出会い、弟子になった。親鸞の信濃[[善光寺]](長野県長野市)参詣に随従したとき、師は[[善光寺如来]]の夢告を受けて、[[阿弥陀像]]を刻んだ。この像を笈に入れて、旅立とうとすると、豪雨のため千曲川(ちくまがわ)を渡れなかった。するとどこからか'''童子'''が現れ、親鸞の手を引いて川を難なく渡り、西にある「本の誓いの御寺」が我が住処だと告げて、背中の笈の中に消えた。下ろして中を見ると、像がずぶ濡れになっていた。西に進むと童子の予言通り、埴科郡倉科(現・千曲市倉科?)に[[天台宗]]'''藤原寺'''(自證院?)という廃寺があり、像を奉安し、これが'''信濃本誓寺'''の始まりとされる。像は「'''瀬踏みの阿弥陀如来'''」と呼ばれ、善光寺如来と一体とされる。親鸞は是信に本誓寺を託した。のち是信は、常陸[[稲田の草庵]](現・茨城県笠間市)に赴き、親鸞より奥州布教の命令を受け、[[盛岡・本誓寺|陸奥本誓寺]](現・岩手県盛岡市)を建てた。 '''倉科'''(くらしな)の地が現在の千曲市倉科とすると千曲川右岸(東方)、大峯山(標高841m)西北麓に当たる。藤原寺のあった藤原山とは大峯山だろうか(童子が述べた「西の寺」との言葉と親鸞らが川を渡った位置との関係が問題になるが)。 南北朝時代の正平元年(1346)、当寺は倉科より北2kmの同郡'''生萱'''(いきがや)(千曲市生萱)に移転。現在も「本誓寺橋」が同地にある。このころ、南朝武将[[新田義貞]]の子、'''新田貞重'''がこの寺に匿われ、のち第4代住職'''宗信房'''となったという。慶長15年(1610)、川中島藩(松代藩)主の松平忠輝の命令で山を越えて生萱の東北4kmに位置する同郡'''松代城'''(現・長野市松代)下に移転した(松代に移る前に倉科村方額に移されたともいう)。 親鸞の臨終を知らせるために涙を流したという「'''落涙の[[聖徳太子]]'''」像や親鸞が感得した「'''[[日の丸名号]]'''」があるという。 ==参考文献== *今井雅晴監修 2011『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』本願寺出版社 [[category:長野県]]
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