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信濃・本誓寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年9月18日 (水)
本誓寺(ほんせいじ)は、長野県長野市松代(信濃国埴科郡)にある、親鸞高弟の二十四輩第10番是信房ゆかりの浄土真宗寺院。善光寺信仰の寺院。南朝武将新田家ゆかりの寺院。松代藩真田家の庇護を受け、松代城の東南800mにある。真宗大谷派。「平林山新田院真田園本誓寺」(へいりんざん・にったいん・さなだえん・ほんせいじ)といい、「園号」を持つ珍しい寺院。(参考:同名寺院本誓寺)
是信房(ぜしんぼう)は、京都出身の藤原氏の公家で、俗名を吉田信明と言ったが、平氏の没落で流罪となって、越後柏崎(新潟県柏崎市)にいた。このとき、親鸞に出会い、弟子になった。親鸞の信濃善光寺(長野県長野市)参詣に随従したとき、師は善光寺如来の夢告を受けて、阿弥陀像を刻んだ。この像を笈に入れて、旅立とうとすると、豪雨のため千曲川(ちくまがわ)を渡れなかった。するとどこからか童子が現れ、親鸞の手を引いて川を難なく渡り、西にある「本の誓いの御寺」が我が住処だと告げて、背中の笈の中に消えた。下ろして中を見ると、像がずぶ濡れになっていた。西に進むと童子の予言通り、埴科郡倉科(現・千曲市倉科?)に天台宗藤原寺(自證院?)という廃寺があり、像を奉安し、これが信濃本誓寺の始まりとされる。像は「瀬踏みの阿弥陀如来」と呼ばれ、善光寺如来と一体とされる。親鸞は是信に本誓寺を託した。のち是信は、常陸稲田の草庵(現・茨城県笠間市)に赴き、親鸞より奥州布教の命令を受け、陸奥本誓寺(現・岩手県盛岡市)を建てた。
倉科(くらしな)の地が現在の千曲市倉科とすると千曲川右岸(東方)、大峯山(標高841m)西北麓に当たる。藤原寺のあった藤原山とは大峯山だろうか(童子が述べた「西の寺」との言葉と親鸞らが川を渡った位置との関係が問題になるが)。
南北朝時代の正平元年(1346)、当寺は倉科より北2kmの同郡生萱(いきがや)(千曲市生萱)に移転。現在も「本誓寺橋」が同地にある。このころ、南朝武将新田義貞の子、新田貞重がこの寺に匿われ、のち第4代住職宗信房となったという。慶長15年(1610)、川中島藩(松代藩)主の松平忠輝の命令で山を越えて生萱の東北4kmに位置する同郡松代城(現・長野市松代)下に移転した(松代に移る前に倉科村方額に移されたともいう)。
親鸞の臨終を知らせるために涙を流したという「落涙の聖徳太子」像や親鸞が感得した「日の丸名号」があるという。
参考文献
- 今井雅晴監修 2011『親鸞聖人 関東ご旧跡ガイド』本願寺出版社