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修武台航空神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''修武台航空神社'''(しゅうぶだい こうくう じんじゃ)は修武台・陸軍航空士官学校の[[営内神社]]である。祭神は、天照大神と「陸軍航空関係戦死陣没殉職者」の3661柱(終戦時)である(あるいは1960年(昭和35年)時点で3186柱であったともいう。)。 | '''修武台航空神社'''(しゅうぶだい こうくう じんじゃ)は修武台・陸軍航空士官学校の[[営内神社]]である。祭神は、天照大神と「陸軍航空関係戦死陣没殉職者」の3661柱(終戦時)である(あるいは1960年(昭和35年)時点で3186柱であったともいう。)。 | ||
- | 1937年(昭和12年)9月、陸軍所沢飛行場内の所沢陸軍飛行学校に創建された。主唱したのは日本初の飛行機操縦士である8代校長'''徳川好敏'''(清水徳川家8代当主)で、10代校長木下敏によって創建された。天照大神とともに、'''木村鈴四郎'''砲兵中尉・'''徳田金一'''歩兵中尉(日本発の航空事故殉職者)を始めとする陸軍航空殉職者が祭られた。平時の殉職者は靖国神社合祀の対象とならなかったのが創建の理由だという。これは[[弥生神社]] | + | 1937年(昭和12年)9月、陸軍所沢飛行場内の所沢陸軍飛行学校に創建された。主唱したのは日本初の飛行機操縦士である8代校長'''徳川好敏'''(清水徳川家8代当主)で、10代校長木下敏によって創建された。天照大神とともに、'''木村鈴四郎'''砲兵中尉・'''徳田金一'''歩兵中尉(日本発の航空事故殉職者)を始めとする陸軍航空殉職者が祭られた。平時の殉職者は靖国神社合祀の対象とならなかったのが創建の理由だという。これは[[弥生神社]]創建の理由に似ている。 |
創建の翌月には所沢陸軍飛行学校は閉校となり、変わって設置された陸軍航空士官学校(当初は陸軍士官学校所沢分校)に継承された。翌年、陸軍航空士官学校の豊岡移転とともに遷座した。現在の入間基地の地である。 | 創建の翌月には所沢陸軍飛行学校は閉校となり、変わって設置された陸軍航空士官学校(当初は陸軍士官学校所沢分校)に継承された。翌年、陸軍航空士官学校の豊岡移転とともに遷座した。現在の入間基地の地である。 | ||
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1945年(昭和20年)8月の敗戦時には、ポツダム宣言の受諾に反対してクーデター(宮城事件)を起こした上原重太郎大尉が8月19日に当社神前で自決している。 | 1945年(昭和20年)8月の敗戦時には、ポツダム宣言の受諾に反対してクーデター(宮城事件)を起こした上原重太郎大尉が8月19日に当社神前で自決している。 | ||
- | 同年9月3日、占領軍の進駐に備えて、所沢の[[北野天神社]]に奉遷し、11月3日改めて遷座祭を執行した。その後は航空神社奉賛会により維持され、毎年の祭典では航空自衛隊の殉職者も合祀された。1962年(昭和37年)に市ケ谷に自衛隊殉職者慰霊碑が建立されると、当社から殉職者が分霊されたという。しかし、1965年(昭和40年) | + | 同年9月3日、占領軍の進駐に備えて、所沢の[[北野天神社]]に奉遷し、11月3日改めて遷座祭を執行した。その後は航空神社奉賛会により維持され、毎年の祭典では航空自衛隊の殉職者も合祀された。1962年(昭和37年)に市ケ谷に自衛隊殉職者慰霊碑が建立されると、当社から殉職者が分霊されたという。しかし、1965年(昭和40年)に廃絶となり、11月7日、御神体であった霊名簿4冊・霊名牌三座は航空自衛隊に譲渡された。旧社殿は小手指神社として当地の招魂社に供用された(現在、小手指神社そばに「建空神社」の碑があるが関連があるのだろうか。)。旧御神体は奈良の航空自衛隊幹部候補生学校の資料館に奉安されたのち、1988年(昭和63年)2月に旧地である入間基地の修武台記念館・航空神社資料室の奉安庫に遷された。現在、入間基地に航空神社跡の記念碑がある。 |
==参考文献== | ==参考文献== | ||
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File:Shubudai-otakebi-jinja_001.jpg|航空神社 | File:Shubudai-otakebi-jinja_001.jpg|航空神社 | ||
+ | File:Shubudai-otakebi-jinja_005.jpg|入間基地(陸軍航空士官学校跡地) | ||
+ | File:Shubudai-otakebi-jinja_003.jpg|小手指神社(航空神社旧社殿) | ||
+ | File:Shubudai-otakebi-jinja_004.jpg|小手指神社(航空神社旧社殿) | ||
+ | File:Shubudai-otakebi-jinja_002.jpg|「建空神社」碑 関係あり? | ||
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2011年9月6日 (火) 時点における版
修武台航空神社(しゅうぶだい こうくう じんじゃ)は修武台・陸軍航空士官学校の営内神社である。祭神は、天照大神と「陸軍航空関係戦死陣没殉職者」の3661柱(終戦時)である(あるいは1960年(昭和35年)時点で3186柱であったともいう。)。
1937年(昭和12年)9月、陸軍所沢飛行場内の所沢陸軍飛行学校に創建された。主唱したのは日本初の飛行機操縦士である8代校長徳川好敏(清水徳川家8代当主)で、10代校長木下敏によって創建された。天照大神とともに、木村鈴四郎砲兵中尉・徳田金一歩兵中尉(日本発の航空事故殉職者)を始めとする陸軍航空殉職者が祭られた。平時の殉職者は靖国神社合祀の対象とならなかったのが創建の理由だという。これは弥生神社創建の理由に似ている。
創建の翌月には所沢陸軍飛行学校は閉校となり、変わって設置された陸軍航空士官学校(当初は陸軍士官学校所沢分校)に継承された。翌年、陸軍航空士官学校の豊岡移転とともに遷座した。現在の入間基地の地である。
1945年(昭和20年)8月の敗戦時には、ポツダム宣言の受諾に反対してクーデター(宮城事件)を起こした上原重太郎大尉が8月19日に当社神前で自決している。
同年9月3日、占領軍の進駐に備えて、所沢の北野天神社に奉遷し、11月3日改めて遷座祭を執行した。その後は航空神社奉賛会により維持され、毎年の祭典では航空自衛隊の殉職者も合祀された。1962年(昭和37年)に市ケ谷に自衛隊殉職者慰霊碑が建立されると、当社から殉職者が分霊されたという。しかし、1965年(昭和40年)に廃絶となり、11月7日、御神体であった霊名簿4冊・霊名牌三座は航空自衛隊に譲渡された。旧社殿は小手指神社として当地の招魂社に供用された(現在、小手指神社そばに「建空神社」の碑があるが関連があるのだろうか。)。旧御神体は奈良の航空自衛隊幹部候補生学校の資料館に奉安されたのち、1988年(昭和63年)2月に旧地である入間基地の修武台記念館・航空神社資料室の奉安庫に遷された。現在、入間基地に航空神社跡の記念碑がある。
参考文献
- 春日恒男「航空神社小史」第10回文化資源学研究会、『陸軍士官学校』
- 坂井久能「営内神社等の創建」