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光孝天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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- | + | 光孝天皇は887年8月26日に58歳で崩御し、9月2日に埋葬された。8日に陵域を定め、域内にあった8寺を廃した(日本紀略)。小松山陵の名から光孝天皇の通称を小松帝という。後田邑陵の名は近くの[[文徳天皇陵|文徳天皇田邑陵]]の名に対するものである。『江家次第』では仁和寺の西、大教院の東北にあったと記す。『中右記』では仁和寺喜多院の西にあったように書く。 | |
- | + | 長年、所在不明で諸説あったため文久の修陵でも定まらなかったが、明治22年6月3日、この地にあった'''天王塚'''と呼ばれる円丘に治定された。9月21日に正辰祭が行われている。(『日本歴史地名大系』『国史大辞典』) | |
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2019年11月1日 (金) 時点における版
京都府京都市右京区宇多野馬場町にある第58代光孝天皇の陵墓。後田邑陵。小松山陵とも呼ばれた。仁和寺関連旧跡。
歴史
光孝天皇は887年8月26日に58歳で崩御し、9月2日に埋葬された。8日に陵域を定め、域内にあった8寺を廃した(日本紀略)。小松山陵の名から光孝天皇の通称を小松帝という。後田邑陵の名は近くの文徳天皇田邑陵の名に対するものである。『江家次第』では仁和寺の西、大教院の東北にあったと記す。『中右記』では仁和寺喜多院の西にあったように書く。 長年、所在不明で諸説あったため文久の修陵でも定まらなかったが、明治22年6月3日、この地にあった天王塚と呼ばれる円丘に治定された。9月21日に正辰祭が行われている。(『日本歴史地名大系』『国史大辞典』)