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六条天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年11月29日 (火)
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京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町にある[[六条天皇]]の[[陵墓]]。[[清閑寺]]および[[高倉天皇陵]]に隣接する。1176年(安元2年)7月17日に崩御し、清閑寺の御堂に葬られた。 | 京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町にある[[六条天皇]]の[[陵墓]]。[[清閑寺]]および[[高倉天皇陵]]に隣接する。1176年(安元2年)7月17日に崩御し、清閑寺の御堂に葬られた。 | ||
江戸時代には、清閑寺は衰退し、御堂も消滅したが、文久の修陵の際には、境内北側に平坦地があり、'''法華堂'''と通称されていたことから、谷森はここを天皇陵だとして比定した。文久山陵図230 | 江戸時代には、清閑寺は衰退し、御堂も消滅したが、文久の修陵の際には、境内北側に平坦地があり、'''法華堂'''と通称されていたことから、谷森はここを天皇陵だとして比定した。文久山陵図230 | ||
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file:清閑寺陵-05.jpg|五条通 | file:清閑寺陵-05.jpg|五条通 | ||
file:清閑寺陵-04.jpg|陵墓道標。左が清閑寺・六条天皇陵・高倉天皇陵方面。右が山科方面。 | file:清閑寺陵-04.jpg|陵墓道標。左が清閑寺・六条天皇陵・高倉天皇陵方面。右が山科方面。 | ||
- | file:清閑寺陵-02.jpg| | + | file:清閑寺陵-02.jpg|[[天智天皇陵]]と[[遍照墓]]の陵墓道標。 |
file:清閑寺陵-03.jpg|六条天皇陵・高倉天皇陵の陵墓道標。 | file:清閑寺陵-03.jpg|六条天皇陵・高倉天皇陵の陵墓道標。 | ||
file:清閑寺-00.jpg|六条天皇陵・高倉天皇陵および清閑寺の参道 | file:清閑寺-00.jpg|六条天皇陵・高倉天皇陵および清閑寺の参道 | ||
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file:清閑寺陵-11.jpg|制札 | file:清閑寺陵-11.jpg|制札 | ||
file:清閑寺陵-17.jpg|井戸 | file:清閑寺陵-17.jpg|井戸 | ||
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file:清閑寺陵-19.jpg|清閑寺門前からの高倉天皇陵。六条天皇陵は右奥。 | file:清閑寺陵-19.jpg|清閑寺門前からの高倉天皇陵。六条天皇陵は右奥。 | ||
file:清閑寺陵-16.jpg|六条天皇陵参道 | file:清閑寺陵-16.jpg|六条天皇陵参道 |
2022年11月29日 (火) 時点における最新版
京都府京都市東山区清閑寺歌ノ中山町にある六条天皇の陵墓。清閑寺および高倉天皇陵に隣接する。1176年(安元2年)7月17日に崩御し、清閑寺の御堂に葬られた。 江戸時代には、清閑寺は衰退し、御堂も消滅したが、文久の修陵の際には、境内北側に平坦地があり、法華堂と通称されていたことから、谷森はここを天皇陵だとして比定した。文久山陵図230