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六条天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
(版間での差分)
(ページの作成:「1176年(安元2年)7月17日に崩御。清閑寺の御堂に葬られた。 江戸時代には、清閑寺は衰退し、御堂も消滅したが、文久の修陵の際...」) |
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1176年(安元2年)7月17日に崩御。清閑寺の御堂に葬られた。 | 1176年(安元2年)7月17日に崩御。清閑寺の御堂に葬られた。 | ||
江戸時代には、清閑寺は衰退し、御堂も消滅したが、文久の修陵の際には、境内北側に平坦地があり、「法華堂」と通称されていたことから、谷森はここを天皇陵だとして比定した。文久山陵図230 | 江戸時代には、清閑寺は衰退し、御堂も消滅したが、文久の修陵の際には、境内北側に平坦地があり、「法華堂」と通称されていたことから、谷森はここを天皇陵だとして比定した。文久山陵図230 | ||
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2014年8月24日 (日) 時点における版
1176年(安元2年)7月17日に崩御。清閑寺の御堂に葬られた。 江戸時代には、清閑寺は衰退し、御堂も消滅したが、文久の修陵の際には、境内北側に平坦地があり、「法華堂」と通称されていたことから、谷森はここを天皇陵だとして比定した。文久山陵図230