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出雲大社教
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
出雲大社教
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'''出雲大社教'''(いずも・おおやしろ・きょう)は、島根県出雲市に本部を置く[[出雲大神]]を奉斎する[[教派神道]]教団。[[出雲大社]]を崇祠と仰ぎ、母体とする。'''千家尊福'''が設立した。[[出雲国造]][[千家家]]による教団。本部事務所を'''教務本庁'''と呼称する。別に国造北島家による教団として[[出雲教]]がある。[[出雲大社関連旧跡]]も参照。 ==一覧== ===本部関連=== *[[出雲大社]]:教団の「崇祠」。 *[[出雲大社教神楽殿]]: *[[出雲大社教祖霊社]]: ===教会・関連神社=== *[[出雲大社東京分祠]]: *[[出雲大社相模分祠]]: *[[出雲大社大阪分祠]]: *[[出雲大社福山分祠]]: *[[出雲大社石見分祠]]: *[[出雲大社与謝分祠]]: *[[出雲大社巌分祠]]: *[[出雲大社神戸分祠]]: *[[出雲大社広島分祠]]: *[[出雲大社池田分院]]: *[[出雲大社西郷分院]]: *[[出雲大社富士教会]]: *出雲大社常陸教会:出雲大社教から離脱して[[常陸国出雲大社]]となる。 *[[東京・野見宿禰神社]]: *[[コッホ北里神社]]: *[[樺太出雲神社]]:1907年(明治40年)7月、松崎禅魯が敬神愛国会を設立して社殿を造営し、出雲大社東京分祠の分霊を祀った。1917年(大正6年)出雲大社樺太分祠となるが、1923年(大正12年)10月20日に樺太庁公認の神社として樺太出雲神社となった。 *[[ハワイ出雲大社]]:ハワイ分院 *[[出雲大社土佐分祠]]: *[[出雲大社松山分祠]]: *[[出雲大社阪神分祠]]: *[[出雲大社近江分祠]]: *[[出雲大社高松分祠]]: *[[出雲大社沖縄分社]]: *[[出雲大社高津分祠]]: *[[出雲大社福山分祠]]: *[[出雲大社新十津川分院]]: *[[出雲大社教関東分院]]:廃絶。 *出雲大社山口分院 *出雲大社倉吉分院 *出雲大社京都分院 *出雲大社福井分院 *出雲大社埼玉分院 *出雲大社大阪分院 *出雲大社讃岐分院 *出雲大社長崎分院 *出雲大社福岡分院 *出雲大社米子分院 *出雲大社備後分院 *出雲大社鳥取分院 *出雲大社弘前分院 *出雲大社浜松分院 *出雲大社美作分院 *出雲大社岡山分院 *出雲大社上総分院 *出雲大社丹原分院 *[[出雲大社玉置教会]]:奈良県吉野郡十津川村玉置川。[[玉置神社]]境内。 ==組織== ===国造=== 教団の役職としては戦後新たに設置され、出雲大社宮司が兼務する。 === 歴代管長 === 戦後は出雲大社教統を兼務する。宗教法人の代表役員。 *1千家尊福(1845-1918)<1882-1888>:1845年(弘化2年)生。1872年(明治5年)1月、出雲大社宮司。1882年(明治15年)3月辞職して神道大社教管長。1888年(明治21年)管長辞任。東京府知事。1890年(明治23年)6月28日、大社教総裁。1918年(大正7年)死去。「たかとみ」。(略歴は[[出雲大社#組織]]を参照) *2千家尊愛(1866-1919)<1890-1918>:千家尊福の甥。1866年(慶応2年)生。1890年(明治23年)4月15日、副管長。1890年(明治23年)6月28日から1918年(大正7年)4月まで管長。1919年(大正8年)死去。「たかあき」。 *3千家尊有(1890-1954)<1918-1954>:1890年(明治23年)生。1918年(大正7年)4月10月、大社教管長。1951年(昭和26年)3月、新たな出雲大社教設立と出雲大社規則変更に伴い、出雲大社教統に就任。1954年(昭和29年)9月25日死去。「たかもち」。 *4千家尊宣(1898-1972)<1954-1963>:千家尊紀の子。1898年(明治31年)生。1920年(大正9年)[[国学院大学]]国史学科卒。大社教本院幹事、教義課長、大社教東京出張所幹事長、東京分祠長、名古屋分院長を歴任。1942年(昭和17年)[[皇典講究所]]神職養成部学監。同年、国学院大学教授。1945年(昭和20年)大社教総監。1946年(昭和21年)から1959年(昭和34年)までと、1970年(昭和45年)まで国学院大学理事。1951年(昭和26年)出雲大社権宮司。1954年(昭和29年)から1963年(昭和38年)まで出雲大社教管長。1954年(昭和29年)11月8日から1963年(昭和38年)8月12日まで出雲大社教統。1964年(昭和39年)大倉精神文化研究所理事。1971年(昭和46年)国学院大学栃木短期大学教授。神道学会を設立した。1972年(昭和47年)10月30日死去。「たかのぶ」。 *5千家達彦(1922-2015)<1963-2014>:千家尊統の子。1922年(大正11年)生。1946年(昭和21年)国学院大学史学科卒。1951年(昭和26年)出雲大社権禰宜。1963年(昭和38年)8月28日、出雲大社教統。同年、出雲大社教管長・[[大社国学館]]館長。1968年(昭和43年)9月18日から2008年(平成20年)11月30日まで[[熊野大社]]宮司を兼務。1967年(昭和42年)から1975年(昭和50年)まで島根県公安委員長。出雲大社文化事業団会長。著書『お世話になって六十年』。2015年(平成27年)死去。「みちひこ」。 *6千家隆比古()<2014->:2002年(平成14年)5月20日、出雲大社権宮司。2014年(平成26年)6月18日、管長。大社国学館館長。「ながひこ」。 ===副管長=== *本居豊穎(1834-1913)<1884-1894>:1884年(明治17年)9月(1885年(明治18年)5月とも。『出雲大神』)から1894年(明治27年)11月2日まで神道大社教副管長。(略歴は[[本居家#歴代]]を参照) *金子有卿(1845-1923)<1884-1890>:[[男爵]]。[[物部神社]]社家の出身。1845年(弘化2年)生。金子有久の次男。1864年(元治1年)7月、47代石見国造に就任。明治初年、川合国漢塾を開く。1875年(明治8年)9月、華族に列す。1884年(明治17年)7月8日、男爵。1884年(明治17年)(1885年(明治18年)5月とも。『出雲大神』)から1890年(明治23年)5月まで大社教副管長。1890年(明治23年)から1911年(明治44年)まで貴族院議員。1891年(明治24年)宮内省御歌所講頌。1902年(明治35年)皇典講究所礼典調査会委員。1923年(大正12年)1月死去。 *千家尊愛(1866-1919)<1890-1890>:1890年(明治23年)4月15日から6月28日まで副管長。 *千家尊弘()<1913->:1913年(大正2年)8月6日、副管長。 *千家尊建(1890-1945)<>: ===歴代総監=== *千家尊建(1890-1945)<>:『光は日本から』。東京出張所長。 *千家尊宣(1898-1972)<1945->:4代管長。 *千家尊祐(1943-)<1982->:84代出雲国造。出雲大社宮司。1982年(昭和57年)、出雲大社権宮司・出雲大社教総監。 *千家隆比古()<>:6代管長。 [[category:団体]]
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