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勝授寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
勝授寺
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'''勝授寺'''(しょうじゅじ)は福井県坂井市三国町南本町にある[[浄土真宗]]寺院。[[大町門徒]]の拠点[[大町・専修寺|専修寺]]の後身とされる。[[西本願寺]]の[[院家]]となる。[[浄土真宗本願寺派]]。山号は進学山。 大町専修寺の唯受(賢会)は鉢伏山に籠もったが[[織田信長]]軍の攻撃で1575年(天正3年)8月17日に戦死した。子の唯賢らは越前を脱出し、加賀[[諸江坊]]に避難。越中五箇山に潜んだ。1582年(天正10年)織田信長が討たれると、活動を再開。1589年(天正17年)ごろ、越前国に帰還し、本願寺顕如に帰依して勝授寺として再興した。1579年(天正7年)に越前中野村に戻り、本願寺顕如から寺号を下付され、1589年(天正17年)に現在地に移転したともいう。1622年(元和8年)西本願寺から永代院家の寺格を与えられた。旧末寺の多くが[[京都・興正寺]]に属したためその帰属をめぐって興正寺と争った。 ==組織== ===歴代住職=== (真宗年表より。准賢(唯賢)、准昭、准順、准炻、寂清とも。) *1:蓮慶(?-1504)<>:[[大町専修寺]]5世。[[蓮如]]の甥。[[勝鬘寺]]9世了通高珍の婿。1504年(永正1年)11月8日死去。 *2:顕誓(?-1522)<>:大町専修寺6世。蓮慶の次男。 1522年(大永2年)死去。 *3:興予(?-1538)<>:大町専修寺7世。勝鬘寺了顕の三男。顕誓の甥。顕誓娘の妙忍尼と結婚。諸江坊賢了の兄。誓玄。1538年(天文7年)死去。興預とも。 *4:大弐(?-1546)<>:大町専修寺8世。[[諸江坊]]賢了。1546年(天文15年)死去。 *5:唯受(1535-1575)<>:大町専修寺の最後の住職。賢会。興預の甥。賢了の子。鉢伏山に一向一揆の一員として籠城したが、[[織田信長]]軍の攻撃で1575年(天正3年)8月17日、戦死。41歳。 *6:唯賢(1562-1621)<>:唯受の子。越前を脱出し、加賀[[諸江坊]]に避難。越中五箇山に潜んだ。1582年(天正10年)織田信長が討たれると、活動を再開。1589年(天正17年)ごろ、越前国に帰還し、[[本願寺]]顕如に帰依して勝授寺として再興した。1579年(天正7年)に越前中野村に戻り、顕如から寺号を下付されたともいう。以後、代々、宰相・中将を称した。准如から准賢の名を与えられたとも。1621年(元和7年)6月19日死去。60歳。 *7:唯炻(1597-1673)<>:1673年(延宝1年)7月9日死去。77歳。 *8:寂炻(1649-1673)<>:1673年(延宝1年)7月30日死去。25歳。 *9:寂清(1664-1721)<>:福井本覚寺良秀の子。1664年(寛文4年)生。1673年(延宝1年)入寺。知空に学び、寂如の命で『紫柏語録』に訓点をほどこす。1721年(享保6年)1月5日死去。真宗年表では1722年(享保7年)1月5日死去。峻諦。著書『無量寿経会疏』。 *10:寂称(?-1749)<>:1749年(寛延2年)6月15日死去。 *11:住清(?-1759)<>:1759年(宝暦9年)10月15日死去。 *12:法縁(?-1795)<>:1795年(寛政7年)5月死去。 *13:文〓(?-1806)<>:1806年(文化3年)2月7日死去。(〓は日義) *14:本縁(1839-1860)<>:1860年(万延1年)4月25日死去。22歳。 *15:広定(1832-1869)<>:1869年(明治2年)10月5日死去。38歳。 *16:広開(1819-1872)<>:1872年(明治5年)5月24日死去。54歳。 *17:乗瑞(1818-1899)<>:1899年(明治32年)3月25日死去。82歳。 *18:照流(?-1952)<>:1952年(昭和27年)12月2日死去。 *19:昭重()<>: [[Category:福井県]]
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