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吉田松陰旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
吉田松陰旧跡
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'''吉田松陰'''(よしだ・しょういん)(1830-1859)は、山口藩出身の幕末の[[志士]]。 == 一覧 == {|class="wikitable" |+ !style="width:20%"|名称 !style="width:30%"|所在地 !style="width:50%"|概要 |- |[[小伝馬町牢屋敷]] |東京都中央区日本橋小伝馬町 |投獄処刑された場所。 |- |[[小塚原回向院墓地]]<br>[[ファイル:Minamisenju-ekouin 002.jpg|200px]] |東京都荒川区南千住。[[南千住・回向院]]内 |初葬地。処刑された直後に埋葬された。 |- |[[吉田松陰墓]]<br>[[ファイル:世田谷松陰神社・吉田松陰墓-03.jpg|200px]] |東京都世田谷区若林。[[東京・松陰神社]]内。 |- |[[護国山墓地]]<br>[[ファイル:萩・吉田松陰墓-07.jpg|200px]] |山口県萩市椿東 |吉田松陰の遺髪を葬る。萩松陰神社に比較的近い。生家の杉家や吉田家の代々の墓がある。 |- |桜山神社招魂墓<br>[[ファイル:桜山招魂社・招魂場・吉田松陰・高杉晋作・久坂玄瑞-01.jpg|200px]] |山口県下関市上新地町。[[桜山招魂社]]内 | |} *[[東京・松陰神社]]:東京都世田谷区。府社。墓所がある。 *[[萩・松陰神社]]:山口県萩市椿東。県社。 *[[正松神社]]([[乃木神社]]内) *[[尊攘堂]]? *[[長門尊攘堂]]? *[[小伝馬町牢屋敷]]:投獄された *[[小塚原回向院墓地]]:[[南千住・回向院]]。処刑されて埋葬された。 *[[護国山墓地]]:山口県萩市椿東。吉田松陰の遺髪を葬る。萩松陰神社近く。生家の杉家や吉田家の代々の墓がある。 *[[靖国神社]] *[[靖国神社元宮]] *[[桜山招魂社]] *[[山口県護国神社]] *泉福寺:山口県萩市浜崎町。吉田家の菩提寺。位牌がある。 ==年譜== ===略年譜=== {|class="wikitable" |+吉田松陰略年譜 !style="width:15%;"|年 !style="width:10%;"|月日 !style="width:5%;"|年齢 !style="width:70%;"|事項 |- |1830年 |8月4日 |1歳 |誕生。父は杉百合之助常道。母は滝。 |- |1831年 | |2歳 | |- |1832年 | |3歳 | |- |1833年 | |4歳 | |- |1834年 | |5歳 |叔父吉田大助賢良の仮養子となる。吉田家は山鹿流兵学師範を家職とした。 |- |1835年 |6月20日 |6歳 |養父死去。吉田家を継承。 |- |1836年 | |7歳 | |- |1837年 | |8歳 | |- |1838年 |1月 |9歳 |[[萩・明倫館]]の教授見習となる |- |1839年 |11月 |10歳 |山鹿流兵学を明倫館で講義 |- |1840年 | |11歳 |藩主毛利敬親に武教全書を講義 |- |1841年 | |12歳 | |- |1842年 | |13歳 |叔父玉木文之進の松下村塾に学ぶ |- |1843年 | |14歳 | |- |1844年 | |15歳 |藩主に再び講義して褒賞 |- |1845年 | |16歳 | |- |1846年 | |17歳 | |- |1847年 | |18歳 | |- |1848年 |1月 |19歳 |明倫館師範となる |- |1849年 | |20歳 |藩命により、沿岸部を巡視して海防についての建白書 |- |1850年 |8月25日 |21歳 |九州留学に出発。『西遊日記』を記す。 |- | |9月14日 | |平戸滞在。11月6日まで。葉山佐内邸に通い詰める。山鹿万助を訪問。 |- | |11月8 | |長崎滞在。12月1日まで。 |- | |12月9 | |熊本滞在。12月13日まで。11日に熊本の宮部鼎蔵に対面。12日夜に[[肥後・本妙寺]]の[[浄池廟]]([[加藤清正]]墓)に参詣。 |- | |12月29 | |萩に帰還 |- |1851年 |3月5日 |22歳 |藩主の参勤交代に合わせた江戸留学のため出発。3月20日山崎天王山を通過。 |- | |4月9日 | |江戸到着。安積艮斎に入門。5/14古賀茶渓に入門。5/24山鹿素水に入門。6/13宮部鼎蔵と浦賀視察。7/16藩に東北遊学願を提出(23日に許可)。7/20[[佐久間象山]]に入門。9月頃、京橋の蒼龍軒に出入りするようになる。 |- | |12月14日 | |東北遊学に出発。藩からの到来手形の発行を待たずに出発する。 |- | |12月9日 | |水戸滞在。12/24宮部鼎蔵・那珂通高(江幡五郎)と合流。会沢正志斎や豊田天功らに会う。 |- |1852年 | |23歳 |会津・新潟・佐渡・秋田・弘前・青森・盛岡・仙台・米沢・[[日光]]・足利などを巡る |- | |4月5日 | |江戸に戻る。藩から萩への帰還を命じられる。 |- | |12月9日 | |藩士の身分を剥奪される |- |1853年 |1月26日 |24歳 |10年間の諸国遊学の許可を与えられ、出発。大坂、大和、和泉、伊勢、桑名などで交流を深める。 |- | |5月24日 | |江戸到着。 |- | |5月25日 | |[[鎌倉瑞泉寺]]に叔父の竹院昌〓([[鎌倉円覚寺]]197世)を訪ねる。[[鎌倉大仏]]、[[江ノ島]]など訪問。 |- | |6月4日 | |ペリー来航にあたり、浦賀で黒船を実見 |- | |9月18日 | |海外視察のためロシア船密航を計画して長崎へ出発。佐久間象山から送別の詩を送られる。 |- | |10月1日 | |京都到着。梁川星巌訪問。 |- | |10月2日 | |[[京都御所]]を拝する。京都岡崎に「吉田松陰拝闕詩碑」がある。 |- | |10月19日 | |熊本到着。宮部鼎蔵と再会。横井小楠を紹介される。 |- | |10月27日 | |長崎到着。しかしロシア船は出航していた。 |- | |12月27日 | |江戸帰還 |- |1854年 |3月27日 |25歳 |下田で金子重之輔と共に米艦ポーハタン号に密航を図るが失敗。翌日自首。 |- | |9月 | |幕府から山口藩に引き渡される |- | |10月24日 | |萩に到着。野山獄に入る。研究と講義に専念するようになる |- |1855年 |12月15日 |26歳 |保釈され自宅謹慎を命じられる。 |- |1856年 |3月 |27歳 |謹慎の待遇のまま自宅で松下村塾を開く。 |- | |12月 | |梅田雲浜が萩に来て面談。 |- |1857年 |11月5日 |28歳 |杉家敷地の小屋を改修して塾舎とし、門人と共同生活を始める。 |- |1858年 |3月11日 |29歳 |塾舎増築 |- | |7月29日 | |家学教授の免許を得る |- | |11月6日 | |勅許なしで条約を結んだ幕府に反発し、老中間部詮勝の襲撃を計画。 |- | |12月26日 | |再び野山獄に投獄。 |- |1859年 |5月26日 |30歳 |幕府の取調べのため江戸へ出発 |- | |6月24日 | |江戸到着 |- | |7月9日 | |尋問開始。梅田雲浜との関係を問う。老中襲撃計画を自白。 |- | |10月27日 | |刑死 |} ===崇敬史=== *1858年10月27日:小伝馬町牢屋敷で獄死 *1862年10月17日:京都蹴上で吉田松陰祭。山口藩士らによる。久坂玄瑞が主宰し、青山清が斎主を務め、寺島忠三郎が補佐した。「吉田松陰慰霊祭関係文書綴」が山口県文書館に残る。(『靖国神社とは何だったのか』、未見「明治維新と長州神道界ー靖国神社成立の基層」) ==画像== <gallery widths="300" heights="300" perrow="3"> ファイル:世田谷松陰神社・社殿-03.jpg file:東京乃木神社-16.jpg| ファイル:世田谷松陰神社・吉田松陰墓-03.jpg ファイル:萩松陰神社・拝殿002.jpg ファイル:Minamisenju-ekouin 002.jpg ファイル:萩・吉田松陰墓-07.jpg ファイル:Yasukuni-jinja-motomiya (2).jpg ファイル:桜山招魂社・本殿-04.jpg ファイル:桜山招魂社・招魂場・吉田松陰・高杉晋作・久坂玄瑞-01.jpg ファイル:京都尊攘堂-01.jpeg ファイル:長門尊攘堂-02.jpg ファイル:象山神社-23.jpg ファイル:世田谷松陰神社・境内-05.jpg ファイル:萩松陰神社・松下村塾001.jpg </gallery> [[category:人物旧跡]]
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