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和泉・松尾寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''松尾寺'''(まつおでら)は、[[葛城山]]系の、大阪府和泉市松尾寺町にある[[天台宗]]寺院。本尊は[[如意輪観音]]。[[関東祈祷所]]。[[天台宗延暦寺派]]。松尾観音。山号は阿弥陀山。(参考:同名寺院[[松尾寺]]) == 歴史 == ===古代=== 672年(弘文1年/天武1年)、[[役小角]]が創建。穀聚三天尊を感得した。さらに如意輪観音を刻んで祀った。[[泰澄]]が中興して三所権現を祀った。白鳳時代の瓦が出土している。 『日本往生極楽記』『今昔物語集』では尋祐という僧が住んで、往生の時に全身が輝いたという説話を載せる。修験道の霊場として発展したとみられる。 ===鎌倉時代・南北朝時代=== 鎌倉時代には幕府や朝廷の祈願所となる。南北朝時代には南朝に付き、[[後醍醐天皇]]の祈願所となっている。 1392年(明徳3年)、[[足利義満]]の祈願所となり、以後は歴代将軍の祈願所となる。 室町時代には[[延暦寺]]東塔院西谷千手堂の末寺となった。 一方で和泉国惣講師職という職を[[穴師堂]]とたびたび争った。 現存最古の役小角画像。鎌倉時代作がある。 ===戦国時代=== 1513年(永正10年)の観心寺合戦では畠山尚順に味方した。 1581年(天正9年)、[[織田信長]]は[[高野山]]攻めに際して松尾寺も攻撃した。 長瑜という寺僧が堺念仏寺に逃げている。 1602年(慶長7年)[[豊臣秀頼]]が[[四天王寺]]阿弥陀堂を移築して金堂とし復興した。 (日本歴史地名大系、国史大辞典) ==伽藍== *金堂: *山門:左右に持国天と増長天、楼上に文殊菩薩を祀る。1705年(宝永2年)造営。 *念仏堂:本尊は空海・阿弥陀如来・不動明王。 *寿老人堂: *不動堂: *地蔵堂: *首堂:こうべどう。源義経が一ノ谷の戦いの戦死者の首級を船で送り弔った。 *春日神社: *三天堂:祭神は穀聚三天尊・松尾明神・三所権現など。 *宝物殿: *本坊: *長瑜碑: ==子院== 1702年(元禄15年)頃には次の子院があった。 *万蔵院: *南昌院: *明王院:現存。 *宝光院: *宝乗院: *福成院: *福生院: *杉本院: *蓮華院: *金剛院: *成就院: *中院: *宝積院: *多聞院: *願王院: *住心院: *円覚院: *宝瓶院:現存。 ==資料== ===古典籍=== *「泉州松尾寺記」:1731年(享保16年)。『大日本仏教全書』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952823/33] ===文献=== *魚澄惣五郎1931「和泉松尾寺文書に就いて」『古社寺の研究』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1921019/257] [[Category:大阪府]]
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