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四天王寺東照宮
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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[[file:1936年(昭和11年)四天王寺図録伽藍編・四天王寺・用明殿・1934年(昭和9年)9月21日撮影.jpg|室戸台風直後の用明殿(旧東照宮社殿)(1934年(昭和9年)9月21日撮影)|thumb|500px]] | [[file:1936年(昭和11年)四天王寺図録伽藍編・四天王寺・用明殿・1934年(昭和9年)9月21日撮影.jpg|室戸台風直後の用明殿(旧東照宮社殿)(1934年(昭和9年)9月21日撮影)|thumb|500px]] | ||
- | '''四天王寺東照宮'''は大阪府大阪市天王寺区の[[四天王寺]]にあった[[東照宮]]。[[四天王寺聖霊院|聖霊院]]の裏に位置した。[[四天王寺用明殿|用明殿]] | + | '''四天王寺東照宮'''は大阪府大阪市天王寺区の[[四天王寺]]にあった[[東照宮]]。[[四天王寺聖霊院|聖霊院]]の裏に位置した。[[四天王寺用明殿|用明殿]]に徳川家康を合祀したものという。江戸時代が終わると用明殿に戻った。神霊の消息は不明。遺構として唐門が南脇門として現存する。[[四天王寺関連旧跡]]。 |
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+ | *1628年:日光東照宮の13回忌に四天王寺僧の通順が出仕。天海から「権現様御影」を五智光院に勧請するように命じられた。(1826年「御神影御尊号奉安置御由緒書」) | ||
+ | *1632年:徳川秀忠の死去を受けて、位牌を五智光院に設けて家康の神影と間仕切りを設けた。(1826年「御神影御尊号奉安置御由緒書」) | ||
+ | *1637年:毎月17日に「東照大権現御法楽法事」を行うように命じられた。(同年「御条制」) | ||
+ | *1651年:徳川家光の死去を受け、位牌を五智光院に設け、法要には大坂城代らが列席したが、その際、家康の神影を位牌と同所に祀るべきでなくいずれ別の場所に遷座するようにと命じられ、そこで用明天皇宮に合祀することにした(1826年「御神影御尊号奉安置御由緒書」)。あるいは大坂町奉行の命令で、将軍家の法事を行うようになり、この時、家康神影と秀忠家光の「院号」を厨子と共に制作した(1682年「口上覚」)。この年の銘記がある大坂定番奉納の燈籠が本坊内に現存する。 | ||
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2023年4月20日 (木) 時点における版
四天王寺東照宮は大阪府大阪市天王寺区の四天王寺にあった東照宮。聖霊院の裏に位置した。用明殿に徳川家康を合祀したものという。江戸時代が終わると用明殿に戻った。神霊の消息は不明。遺構として唐門が南脇門として現存する。四天王寺関連旧跡。
- 1628年:日光東照宮の13回忌に四天王寺僧の通順が出仕。天海から「権現様御影」を五智光院に勧請するように命じられた。(1826年「御神影御尊号奉安置御由緒書」)
- 1632年:徳川秀忠の死去を受けて、位牌を五智光院に設けて家康の神影と間仕切りを設けた。(1826年「御神影御尊号奉安置御由緒書」)
- 1637年:毎月17日に「東照大権現御法楽法事」を行うように命じられた。(同年「御条制」)
- 1651年:徳川家光の死去を受け、位牌を五智光院に設け、法要には大坂城代らが列席したが、その際、家康の神影を位牌と同所に祀るべきでなくいずれ別の場所に遷座するようにと命じられ、そこで用明天皇宮に合祀することにした(1826年「御神影御尊号奉安置御由緒書」)。あるいは大坂町奉行の命令で、将軍家の法事を行うようになり、この時、家康神影と秀忠家光の「院号」を厨子と共に制作した(1682年「口上覚」)。この年の銘記がある大坂定番奉納の燈籠が本坊内に現存する。