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四天王寺用明殿
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年4月17日 (月)
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+ | 1623年(元和9年)『天王寺御建立改渡帳』に記載がありそれ以前からあった。江戸時代には現在の聖霊院奥殿の位置にあった。極楽門、西重門、東重門の東西軸の延長線上にあたる位置で、重視されていたことが推測される。『天王寺誌』には「用明天皇宮」とあり、「[[欽明帝]]、[[敏達帝]]、[[崇峻帝]]、推古帝、[[間人皇后]]」とある。その後、[[徳川家康]]を合祀して[[四天王寺東照宮|東照宮]]と名前を変えたが、明治維新後は再び用明殿となった。1945年(昭和20年)の大阪大空襲で焼失。位牌は他で祀られていたが2019年(令和1年)12月に再建。 | ||
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File:摂津名所図会・四天王寺・部分・天皇宮.jpg|1798年(寛政10年)の『摂津名所図会』には「天皇宮」とある。 | File:摂津名所図会・四天王寺・部分・天皇宮.jpg|1798年(寛政10年)の『摂津名所図会』には「天皇宮」とある。 | ||
File:安永摂州四天王寺絵図・部分・用明殿・亀井堂.jpg|1775年(安永4年)の「摂州四天王寺絵図」には崇峻天皇、用明天皇、間人皇后、推古天皇、敏達天皇、欽明天皇の名がある。 | File:安永摂州四天王寺絵図・部分・用明殿・亀井堂.jpg|1775年(安永4年)の「摂州四天王寺絵図」には崇峻天皇、用明天皇、間人皇后、推古天皇、敏達天皇、欽明天皇の名がある。 | ||
+ | file:1933年(昭和8年)四天王寺誌・四天王寺・用明殿.jpg|用明殿(旧東照宮)(1933年(昭和8年)四天王寺誌) | ||
+ | file:1936年(昭和11年)四天王寺図録伽藍編・四天王寺・用明殿・航空写真・罹災前.jpg|用明殿(昭和初年撮影か) | ||
+ | file:1936年(昭和11年)四天王寺図録伽藍編・四天王寺・用明殿・1934年(昭和9年)9月21日撮影.jpg|室戸台風直後の用明殿(1934年(昭和9年)9月21日撮影) | ||
+ | ファイル:1935年(昭和10年)四天王寺図録伽藍編・四天王寺現境内実測図・用明殿・亀井堂.jpg|四天王寺現境内実測図(1935年(昭和10年)測量) | ||
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2023年4月17日 (月) 時点における最新版
四天王寺用明殿は大阪府大阪市天王寺区の四天王寺にある用明天皇の霊社。聖霊院の北にある。四天王寺関連旧跡。
1623年(元和9年)『天王寺御建立改渡帳』に記載がありそれ以前からあった。江戸時代には現在の聖霊院奥殿の位置にあった。極楽門、西重門、東重門の東西軸の延長線上にあたる位置で、重視されていたことが推測される。『天王寺誌』には「用明天皇宮」とあり、「欽明帝、敏達帝、崇峻帝、推古帝、間人皇后」とある。その後、徳川家康を合祀して東照宮と名前を変えたが、明治維新後は再び用明殿となった。1945年(昭和20年)の大阪大空襲で焼失。位牌は他で祀られていたが2019年(令和1年)12月に再建。