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多田神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
多田神社
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'''多田神社'''(ただ・じんじゃ)は、兵庫県川西市にある[[源氏]]の祖神[[源満仲]]を祀る神社。旧[[県社]]。[[別表神社]]。[[多田院]]があった。 *968年:源満仲、[[住吉大神]]の神託で多田に移住 *970年:源満仲、多田院を創建し、[[良源]]を招いて落慶法要を営んだ。子の源賢を開山とした。当時は[[天台宗]]寺院だった。 *986年:源満仲、出家 *997年:源満仲死去。多田院に埋葬された。 *平安時代末:[[源頼朝]]、多田行綱を追放したため、多田院は大内惟義に預けた。多田行綱の家臣は存続し、「多田院御家人」として幕府に仕えることとなる。 *鎌倉時代初期:承久の乱で朝廷側に付いた大内氏は失脚。幕府執権の北条泰時の支配下となり、後に得宗領となる。 *1272年頃:恒念が勧進聖が造営に着手 *1273年:北条家は「多田院造営条々一三条」を制定 *1275年:北条家、[[極楽寺]][[忍性]]を多田院長老および勧進職に任命。多田院は[[真言律宗]]となり[[西大寺]]の末寺となった。 *1281年:四方10町を殺生禁断とする *1281年3月22日:伽藍造営がなり、西大寺[[叡尊]]を導師として法要を営む。 *1298年:[[関東祈祷所]]となる *1316年10月13日:三重塔建立 *1331年頃:南大門建立。 *1334年:[[足利尊氏]]、天下泰平・子孫長久の願文を奉納 *1337年:足利尊氏、善源寺東方地頭職を寄進 *1358年:足利義詮、足利尊氏の遺骨を多田院に分骨。以後慣例となる。 *1363年頃:この頃から佐々木道誉が勢力下に置く *1386年:室町幕府、摂津国に段銭・棟別銭を課税した時、多田庄は免除した上で多田院に造営料として寄進。 *1415年:多田院鳴動の史料上の初見。17回が確認されている。 *1420年:火災 *1430年:火災 *1434年:6代将軍足利義教の時代、後継者(7代足利義勝)の誕生にあたり神馬を寄進。以後恒例となる。 *1472年:多田院鳴動にあたり、足利義政は[[吉田兼倶]]に命じて京都[[大元宮]]で祈祷させ、源満仲廟に祝詞を捧げた。[[後土御門天皇]]に働き掛け、源満仲に従二位を追贈。勅使が参向した。 *1480年:金堂再建 *1484年:9代足利義尚、「多田院廟前詠五十首和歌」を奉納 *1503年:仏塔がまだ再建されておらず「塔婆勧進疏」が作成されている *1578年:石山合戦に多田院御家人が[[本願寺]]側で参戦。そのため[[織田信長]]は多田院を焼き討ちした。 *1662年:別当智栄、江戸に出て幕府に伽藍修復を訴える *1663年:徳川家綱、幕府による再興を決める *1665年:幕府、500石を寄進 *1668年:正遷宮 *1680年:別当智栄、徳川家綱の石碑を建てる *1681年:大風被害からの修復完了 *1696年:700年忌にあたり、将軍徳川綱吉の寄進で修復。4月に正遷宮 *1696年8月:[[東山天皇]]、「多田権現社」の神号を贈る。[[神階]]正一位 *1697年:開帳 *明治初年:神仏分離で多田神社となる *1874年(明治7年)9月:[[県社]]に列格 [[category:兵庫県]]
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