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大教院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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大教院(だいきょういん)は、明治初年の大教宣布の中枢を担った半官半民の教育・布教・研究機関。のち神道仏教各派に設けられて、近現代の教団制度の原型の一つとなった(各宗大教院)。増上寺が大教院神殿となった。府県ごとに中教院が設置された。

機関紙として『教会新聞』を発行していた。准官報とされた。この新聞はのちに『明教新誌』に受け継がれた。

目次

歴史

  • 1872年(明治5年)3月14日:<神祇省(および宣教使)を廃して、教部省を設置。(太政官御布告第82号)>
  • 1872年(明治5年)4月10日頃:仏教各宗、諸宗同徳会盟をつくり京都南禅寺金地院で会合。教師を育成する機関設置の請願。(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)4月12日:諸宗同徳会盟、東京浅草東本願寺浅草別院で会合。
  • 1872年(明治5年)4月25日:<教導職設置。(太政官御布告第132号)>
  • 1872年(明治5年)4月28日:<三条の教則、発布。(教部省無号達)>
  • 1872年(明治5年)5月13日:仏教各宗、教部省へ大教院設立を建白。即日、教部省は正院へ許可願を提出。(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)5月28日:大教院設置許可。教部省、正院へ二度目の大教院設立許可願を出して認められる。即日、各宗へ伝える。(『大教院の研究』)30日とも。
  • 1872年(明治5年)6月:芝の承教寺で、講義を開始(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)6月2日:教部省、「神仏混同の教院」とする。教部省の大教院への介入始まる。(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)6月4日:教部省の方針を神道仏教が承諾。(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)6月10日:教院取調掛を任命。いずれも神道・国学関係者だった(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)6月26日:この頃には増上寺が候補地に上がっていた。浄土宗善学寺、増上寺が大教院となっても従来通り法要説教できるように嘆願する。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1872年(明治5年)7月10日:教部省、元和歌山藩邸を大教院の設立地とする。設置掛に興正寺華園摂信、総持寺諸嶽、浄国寺鵜飼徹定、無量寿院密道応ら8人が任命される。(『大教院の研究』、「大教院問題に関する一考察」)
  • 1872年(明治5年)8月2日:仏教各宗、芝金地院を仮教院とすることを届け出る。元和歌山藩邸案が難航していたため。(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)8月8日:<神官教導職兼補。太政官達220>
  • 1872年(明治5年)8月25日:仏教各宗、神道両部、正式な大教院設置を求める。(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)8月27日:芝金地院で大教院開講(『大教院の研究』)。教頭に華園と鵜飼。福田行誡が教鞭をとる。議事課を置き、公務通達掛、接待学事掛(行光坊唯我しょう舜)、説教掛(明王院高岡増隆)、建築会計掛、監寮典籍掛を設置。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1872年(明治5年)9月3日:教部省社務課・寺務課、元和歌山藩邸の貸渡を申請(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)9月14日:大教院のため元和歌山藩邸貸渡の許可が出る(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)9月18日:教部省、各宗へ元和歌山藩邸の貸渡許可を布達(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)9月19日:元和歌山藩邸を仏教側に引渡し。(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)9月20日:教院取調掛を廃止。教院掛を設置(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)9月29日:旧八神殿附属建造物の教導職への払い下げを決定(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)10月:大教院に各宗代理掛、講究、諸宗訓導取締、講究者溜掛、会計掛、生徒取締などを設置。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1872年(明治5年)10月5日:八神殿の教院への設置を決定(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)10月25日:<文部省・教部省合併。(教化運動の教育への参入)(太政官御布告第322号)>
  • 1872年(明治5年)10月27日:仏教各宗、大教院建設を申請(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)10月28日:教部省、大教院建設を許可(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)11月:華園摂信、教頭を辞任し、相国寺萩野独園が就任。副教頭に西本願寺大谷光尊が就任。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1872年(明治5年)11月24日:社寺を小教院とする旨を布達。(教部省達第29)
  • 1872年(明治5年)11月26日:元和歌山藩邸への移転を完了。神道側が主導した(?)。(『大教院の研究』)
  • 1872年(明治5年)12月:フランス滞在中の島地黙雷、政府に建白して三条の教則を批判。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1873年(明治6年)1月10日:大教院開講祭典。(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)1月14日:教部省、増上寺に大教院とすることを要請。増上寺は拒否。(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)1月24日:増上寺、教部省の要請を受諾(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)2月:十一兼題発布(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)2月5日:教部省、正院へ大教院の増上寺移転と、現・大教院を中教院とすることを届出(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)2月7日:増上寺源流院に仮事務所が置かれる(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)2月23日:増上寺、台徳院御霊屋拝殿を増上寺新本堂とすることを通達(『大教院の研究』)。
  • 1873年(明治6年)3月:<社寺内に学校を開くことを認める。(『大教院の研究』)>
  • 1873年(明治6年)3月:<神官僧侶学校制度。講説を学科時間にしてよい(『大教院の研究』)>
  • 1873年(明治6年)3月14日:「大教院事務章程」制定。(教部省無号達)
  • 1873年(明治6年)3月17日、本尊遷座(東京市史稿)。20日、旧本堂を教部省に引き渡す(東京市史稿)。
  • 1873年(明治6年)5月15日:大教院神殿、工事開始。(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)6月2日:増上寺三門の十六羅漢を撤去して、鳥居を立てる(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)6月3日:大教院神殿、上棟式(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)6月14日:<キリスト教宣教師は教師になれないとする。文部省達87(『大教院の研究』)>
  • 1873年(明治6年)6月17日:神殿に四柱大神を鎮祭。開講式。19日まで。(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)8月24日:<「教会大意」を発布(教部省番外達)>
  • 1873年(明治6年)8月28日:<学校教師と教導職を分離。文部省105(『大教院の研究』)>
  • 1873年(明治6年)9月:<文部大少輔・教部大少輔の兼務を解消。(宗教と教育の分離)(『大教院の研究』)>
  • 1873年(明治6年)10月:大教院講究科、「十七兼題」を発布。(『大教院の研究』)
  • 1873年(明治6年)10月頃:浄土真宗から神仏合同布教への異論が出始める。島地黙雷、この頃「大教院分離建白書」提出し、同年、門主に真宗単独離脱を進言する。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1873年(明治6年)10月20日:「大教院規則」を制定。教部省番外達(教部省番外達)
  • 1873年(明治6年)12月:真宗四派(東西本願寺、専修寺、錦織寺)の管長代理藤枝沢依、島地黙雷の影響を受けて、教部省に「分離伺」を提出。仏教各宗は真宗の慰留を促すが応じず。大教院提唱者の一人である興正寺華園摂信は反発し、仏光寺も同調しなかった。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1873年(明治6年)12月31日:大教院、放火により焼失。神仏合同布教に反発する神道信奉者の犯行という。
  • 1874年(明治7年)2月:大教院新聞課、『教会新聞』創刊。
  • 1874年(明治7年)4月:僧侶の説教は、教導職試補以上のみに限るとされる(教部省達乙9)。島地黙雷はこれに激しく反発。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1874年(明治7年)5月10日:教院へは「学校の余暇」に通うことを達す。教部省乙22。(『大教院の研究』)
  • 1874年(明治7年)5月:大教院、6項目を挙げて真宗を批難。(国史大辞典)
  • 1874年(明治7年)5月14日:講説は課外で行なう。宗教学校への公金支出禁止。(『大教院の研究』)
  • 1874年(明治7年)7月:<寺院住職は教導職試補以上に限るとされる。教部省達31(『大教院の研究』)>
  • 1874年(明治7年)7月12日:教院・講社の設置方法制定の命令。
  • 1874年(明治7年)8月:真宗側、大教院改革の10カ条の意見書を提出。
  • 1874年(明治7年)9月:諸宗総代萩野独園と神道総代田中頼庸の名で真宗大教院離脱を認める上申。(「大教院問題に関する一考察」)
  • 1874年(明治7年)9月:<神官僧侶学校、廃止。(『大教院の研究』)>
  • 1874年(明治7年)10月:教部省から太政官へ、真宗離脱許可を上申。
  • 1875年(明治8年)1月29日:太政官、真宗四派大教院離脱を許可。島地黙雷は伊藤博文に礼状を送っており、伊藤博文の関与があったと伺える。
  • 1875年(明治8年)3月28日:<神道事務局、設置>
  • 1875年(明治8年)4月5日:<真福寺に真言宗大教院を設置。各宗の大教院の設置が続く。>
  • 1875年(明治8年)4月30日:大教院、解散。(5月3日教部省達書乙第4号別紙)
  • 1875年(明治8年)5月3日:神仏合同布教廃止。(教部省達書乙第4号)
  • 1877年(明治10年)1月11日:<教部省廃止。内務省へ移管。(太政官布告第4号)>
  • 1882年(明治15年)1月24日:<神官教導職分離。内務省達乙第7号>
  • 1884年(明治17年)8月11日:<教導職廃止。(太政官布達第19号)>

資料

史料

出版物

文献

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