ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

宇多天皇陵

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
1行: 1行:
-
宇多天皇の[[陵墓]]。承平元年(931)、[[仁和寺]]にて崩御。仁和寺裏山の大内山で火葬されたが、遺詔により山陵は設けられなかったという。文久の修陵では、大内山内の「'''宇多冢'''」と呼ばれていた場所を陵墓として、整備した。(文久山陵図228)
+
京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷にある[[宇多天皇]]の[[陵墓]]。'''大内山陵'''。[[仁和寺関連旧跡]]。
 +
 
 +
== 歴史 ==
 +
『日本紀略』によると承平元年(931)7月19日、宇多天皇は自らが建てた[[仁和寺]]にて65歳で崩御。『帝王編年記』によると8月5日、仁和寺裏山の大内山で火葬されたが、遺詔により山陵と国忌は設けられなかったという。しかし日本紀略の9月5日条に「大内山陵」に「改葬」したとある。
 +
長年、所在不明だったが幕末の文久の修陵で、1863年、大内山内の「'''宇多冢'''」と呼ばれていた場所を陵墓として、整備した。(文久山陵図228)

2019年11月1日 (金) 時点における版

京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷にある宇多天皇陵墓大内山陵仁和寺関連旧跡

歴史

『日本紀略』によると承平元年(931)7月19日、宇多天皇は自らが建てた仁和寺にて65歳で崩御。『帝王編年記』によると8月5日、仁和寺裏山の大内山で火葬されたが、遺詔により山陵と国忌は設けられなかったという。しかし日本紀略の9月5日条に「大内山陵」に「改葬」したとある。 長年、所在不明だったが幕末の文久の修陵で、1863年、大内山内の「宇多冢」と呼ばれていた場所を陵墓として、整備した。(文久山陵図228)


http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%B5」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール