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寛永寺大仏堂
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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<Gallery widths="300" heights="300" perrow="2" align=right> File:寛永寺・上野大仏02.jpg|第二次大戦の金属供出で胴体が失われ面部だけ残された上野大仏 ファイル:東叡山絵図地割・寛永寺・上野大仏.jpg|失われた大仏殿の側面図(「東叡山絵図地割」) </Gallery> '''寛永寺大仏堂'''は東京都台東区上野公園の[[寛永寺]]にあった[[大仏堂]]。[[寛永寺関連旧跡]]。 *1631年(寛永8年):越後村上藩主堀直寄が自邸内のこの地に丈六[[釈迦如来]]像を建立。粘土を漆喰で固めたものだった。 *1647年(正保4年):地震で倒壊。 *明暦万治頃(1655-1660):木食僧の浄雲が勧進して青銅像で再建。 *1698年(元禄11年):[[輪王寺宮]]公弁法親王、大仏殿を建立。 *1841年(天保12年):火災で被災。 *1843年(天保14年):堀直央が大仏を再鋳。幕府が大仏殿を再建。 *1855年(安政2年):地震で頭部損傷。堀家が修復。 *1873年(明治6年):上野公園の開設で仏殿を解体。1876年(明治9年)説、1877年(明治10年)説もある。 *1923年(大正12年):関東大震災で面部(頭部とも)が落下し寛永寺で保管。 *昭和前期:金属供出。面部だけ残された。 *1967年(昭和42年)7月:上野観光連盟が発願し、大成建設の寄進でパゴダを建立。旧[[上野東照宮]]本地堂の薬師三尊像を祀った。 *1972年(昭和47年)春:面部をレリーフ状に奉安。 <gallery widths="300" heights="300" perrow="3"> File:寛永寺・上野大仏01.jpg| File:寛永寺・上野大仏02.jpg| File:寛永寺・上野大仏03.jpg| File:寛永寺・上野大仏04.jpg| File:寛永寺・上野大仏05.jpg| File:寛永寺・上野大仏06.jpg| File:寛永寺・上野大仏07.jpg| File:寛永寺・上野大仏08.jpg| File:寛永寺・上野大仏09.jpg| File:寛永寺・上野大仏10.jpg| File:寛永寺・上野大仏11.jpg| File:寛永寺・上野大仏12.jpg| File:寛永寺・上野大仏13.jpg| ファイル:東叡山絵図地割・寛永寺・上野大仏.jpg| ファイル:慈眼大師全集・東叡山開山慈眼大師縁起・東叡山寛永寺絵図・上野大仏.jpg|「東叡山寛永寺絵図」に描かれた上野大仏。初代のものか。 ファイル:寛永寺惣絵図・文殊楼・上野大仏.jpg|「寛永寺惣絵図」 </gallery> [[category:東京都]]
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