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専修寺京都別院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
専修寺京都別院
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'''専修寺京都別院'''は、京都府京都市右京区鳴滝にある[[浄土真宗]]寺院。[[真宗高田派]][[専修寺]]の[[真宗高田派の別院寺院|別院寺院]]。[[御坊寺院]]。本尊は[[源信]]ゆかりの[[阿弥陀如来]]。[[下野・専修寺]]の一光三尊仏([[善光寺如来]])の勅賜模刻も祀る。専修寺住職の京都での滞在所として使われた。'''高田御坊'''。寺号は'''本誓寺'''。山号は高田山。(参考:同名寺院[[本誓寺]]・[[高田御坊]]) == 歴史 == ===創建=== 専修寺11世応真(1490-1537)が[[親鸞]]の旧跡を偲んで天文年間(1532-1555)に創建。'''柳原坊'''と称した。その場所は不詳。 火災で焼失し、1605年(慶長10年)、専修寺12世堯慧(1527-1609)が子の恵隆に命じ、間之町押小路高田町(京都市中京区高田町)に再建。'''高田坊'''と称した。当初の本堂は北政所の化粧殿を移築したものだった。 また焼失したので、1617年(元和3年)(1683年(天和3年)とも)、恵隆が河原町二条(京都市中京区清水町)に本山掛所として再建し、'''本誓寺'''と称した。'''高田御坊'''とも呼ばれた。 1708年(宝永5年)、1788年(天明8年)にも火災にあった。天明の大火の後は正面が夷川通から河原町通に移った。 末寺として大仙寺、常楽寺、安立寺、龍源寺、誠心寺があった。 ===桜町天皇の帰依と一光三尊仏模刻の勅賜=== 1745年(延享2年)4月15日から5月15日まで、一光三尊仏の京都出開帳が本誓寺で行われた。初の京都開帳だったが桜町天皇の要請で宮中でも開帳。桜町天皇は深く帰依して模刻を造立させた。1750年(寛延3年)4月23日天皇が崩御。翌1751年(宝暦1年)3月15日、桃園天皇は先帝の遺志により模刻像と翠簾を専修寺に寄進された。3月23日、本誓寺に迎え、26日から7日間、法会を営んだ。合わせて桜町天皇の尊牌も祀り、毎年法要を営んだ。 桜町天皇33回忌(1782年(天明2年)か)にあたり女御青綺門院(1716-1790)は赤銅花瓶1基を下賜。 青綺門院の死後の1792年(寛政4年)、遺命により銅灯篭1対を寄進。 1799年(寛政11年)4月23日(22日とも)、後桜町上皇、桜町天皇50回忌にあたり、勅賜三尊の仏前に唐金花瓶1基を下賜。 善喜院(有栖川宮家の女性?)が水引並華鬘を、董子女王(有栖川宮職仁親王第四王女、円台院宮)が水引、戸帳、打敷を寄進。 1880年(明治13年)7月の明治天皇の伊勢専修寺行幸にあたっては勅賜模刻像が伊勢に移されており、天皇が拝礼したという。 ===近現代=== 1882年(明治15年)、専修寺別院に改称。1947年(昭和22年)、焼失。1961年(昭和36年)(1966年(昭和41年)とも)、現在地に移転して再建された。 (専修寺ウェブサイト、『日本歴史地名大系』、『専修寺史要』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/822002/83]) ==組織== ===歴代=== *恵隆()<>:専修寺堯慧の子。 *慧雲(1613-1691)<>:宝性院。1613年(慶長18年)生。1691年(元禄4年)死去。 [[Category:京都府]]
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