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専修寺京都別院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年11月11日 (土)

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専修寺京都別院は、京都府京都市右京区鳴滝にある浄土真宗寺院。真宗高田派専修寺別院寺院御坊寺院。本尊は源信ゆかりの阿弥陀如来下野・専修寺の一光三尊仏(善光寺如来)の桜町天皇勅賜の模刻像も祀る。専修寺住職の京都での滞在所として使われた。高田御坊。寺号は本誓寺。山号は高田山。(参考:同名寺院本誓寺高田御坊

目次

歴史

創建

江戸時代の境内(『都名所図会』より)

専修寺11世応真(1490-1537)が親鸞の二条冷泉冨小路に居住した旧跡を偲んで天文年間(1532-1555)に創建。柳原坊と称した。その場所は不詳。一条柳原にあったとも。 火災で焼失し、1605年(慶長10年)、専修寺12世堯慧(1527-1609)が子の恵隆に命じ、間之町押小路高田町(京都市中京区高田町)に再建。高田坊と称した。 また焼失したので、1617年(元和3年)(1683年(天和3年)とも)、恵隆が河原町二条(京都市中京区清水町)に本山掛所として再建し、本誓寺と称した。高田御坊とも呼ばれた。本堂は高台院(豊臣秀吉正室)の化粧殿を移築したものだったという。 1708年(宝永5年)、1788年(天明8年)にも火災にあった。天明の大火の後は正面が夷川通から河原町通に移った。 子院として大仙寺、常楽寺、安立寺、龍源寺、誠心寺があった。

桜町天皇の帰依と一光三尊仏模刻の勅賜

1745年(延享2年)4月15日から5月15日まで、下野専修寺の一光三尊仏の京都出開帳が本誓寺で行われた。初の京都開帳だったが桜町天皇の要請で宮中でも開帳。桜町天皇は深く帰依して模刻を造立させた。1750年(寛延3年)4月23日天皇が崩御。翌1751年(宝暦1年)3月15日、桃園天皇は先帝の遺志により模刻像と翠簾を専修寺に寄進し、3月23日、本誓寺に迎え、26日から7日間、法会を営んだ。三尊堂が建てられた。合わせて桜町天皇の尊牌も祀り、毎年法要を営んだ。

桜町天皇33回忌(1782年(天明2年)か)にあたり女御青綺門院(1716-1790)は赤銅花瓶1基を下賜。 青綺門院の死後の1792年(寛政4年)、遺命により銅灯篭1対を寄進。

1799年(寛政11年)4月23日(22日とも)、後桜町上皇は桜町天皇50回忌にあたり、勅賜三尊の仏前に唐金花瓶1基を下賜。 善喜院(有栖川宮家の女性?)が水引並華鬘を、董子女王(有栖川宮職仁親王第四王女、円台院宮)が水引、戸帳、打敷を寄進。 1880年(明治13年)7月の明治天皇の伊勢専修寺行幸にあたっては勅賜模刻像が伊勢に移されており、天皇が拝礼したという。

近現代

1882年(明治15年)、専修寺別院に改称。1947年(昭和22年)、焼失。1961年(昭和36年)(1966年(昭和41年)とも)、現在地に移転して再建された。 (専修寺ウェブサイト、『日本歴史地名大系』、『専修寺史要』[1]

子院

  • 梅林房
  • 福昌房
  • 安立房
  • 安楽房
  • 大仏房

(政教中正論[2]

組織

歴代

  • 1慧隆()<1605->:専修寺12世堯慧(1527-1609)の子。至心院。恵隆。
  • 2慧雲(1613-1691)<>:近世専修寺末を代表する学僧の一人。恵隆の子。1613年(慶長18年)生。1691年(元禄4年)5月15日死去。著作に『教行信証抄』『善信聖人絵伝抄』『大祖聖人絵伝図説』『興御書抄』など。宝性院。恵雲。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E5%B0%82%E4%BF%AE%E5%AF%BA%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%88%A5%E9%99%A2」より作成

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