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山城・浄妙寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2017年10月4日 (水)
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1004年(寛弘1年)、[[藤原道長]]、木幡に寺院建立を発願。既に藤原氏や藤原氏ゆかりの皇族らの多くの墓があった。道長はたびたび現場に通い、検分、指揮したという。同時期には[[法性寺]]の修復を行っていた。大江匡衡が梵鐘の銘文を撰して藤原行成が揮毫した。8カ月後に完成したという。 | 1004年(寛弘1年)、[[藤原道長]]、木幡に寺院建立を発願。既に藤原氏や藤原氏ゆかりの皇族らの多くの墓があった。道長はたびたび現場に通い、検分、指揮したという。同時期には[[法性寺]]の修復を行っていた。大江匡衡が梵鐘の銘文を撰して藤原行成が揮毫した。8カ月後に完成したという。 | ||
2017年10月4日 (水) 時点における最新版
浄妙寺(じょうみょうじ)は、平安京郊外の木幡にあった藤原氏ゆかりの寺院。廃絶。 木幡寺 。(参考:同名寺院浄妙寺)
歴史
1004年(寛弘1年)、藤原道長、木幡に寺院建立を発願。既に藤原氏や藤原氏ゆかりの皇族らの多くの墓があった。道長はたびたび現場に通い、検分、指揮したという。同時期には法性寺の修復を行っていた。大江匡衡が梵鐘の銘文を撰して藤原行成が揮毫した。8カ月後に完成したという。
跡地には宇治陵が点在する。