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山田寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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2017年8月14日 (月) 時点における版
山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にある南都仏教の寺院。本尊は長谷寺式十一面観音。法相宗。山号は大化山。浄土寺、華厳寺。(参考:同名寺院浄土寺、華厳寺)
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歴史
古代
『上宮聖徳法王帝説』によると、641年、整地を始め、643年金堂を建立。648年から僧侶が使用し始めたが、649年3月25日、蘇我石川麻呂がここで政変に逢い自害した。その後、天智天皇2年、塔を建立。塔建立については舎利容器や埋納品の様子が詳しく記録されている。天武天皇6年、丈六仏像を鋳造。13年3月25日、これを開眼し、山田寺と名付けた。翌年8月12日、天武天皇が行幸とある。また『日本書紀』は石川麻呂の政変の経緯が詳しく述べる。『諸寺建立次第』によると金堂に三尊像と石川麻呂の御影を祀り講堂に十一面観音と薬師三尊を祀っていた。中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ四天王寺式に近い伽藍配置が確認されており、これを山田寺式という場合もある。瓦も山田寺式瓦と名付けられ、白鳳時代を代表する様式とされる。『扶桑略記』によると治安3年(1023)10月、藤原道長が高野山参詣の途中、山田寺の堂塔を見て感銘を受けたというのでこの頃はまだ伽藍が健在だった。長元7年(1034)、検校善妙が政変の忌日に法華八講を始めた。
中世以降
文治3年(1187)3月、講堂本尊の薬師像が、南都焼討後の復興を図る興福寺東金堂衆に奪取され(『玉葉』)、興福寺同堂の本尊とされたが、応永18年(1411)に興福寺火災で頭部のみが焼け残った。建久8年(1197)には山田寺の伽藍は廃滅していたことが同年編纂の多武峰略記に記されており、また当時は多武峰寺の末寺になっていたことが分かる。天保12年、石川麻呂の子孫を称する山田重貞という越前の人が雪冤碑を建立。
近代の調査・発掘
昭和12年10月、興福寺で旧山田寺講堂の薬師仏頭が発見された。 昭和51年から奈良国立文化財研究所が発掘調査している。
参考文献
- 国史大事典
- 日本歴史地名大系
- 志水正司『古代寺院の成立』六興出版