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山田寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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2017年8月15日 (火) 時点における版
山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にある南都仏教の寺院。本尊は長谷寺式十一面観音。大和国飛鳥にある古代寺院。現在は法相宗。山号は大化山。なぜか聖徳太子建立四十六寺の一つに数えられているが理由は不明。別称に浄土寺、華厳寺。(参考:同名寺院浄土寺、華厳寺)
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歴史
古代
『上宮聖徳法王帝説』によると、641年、整地を始め、643年金堂を建立。648年から僧侶が使用し始めたが、649年3月25日、蘇我石川麻呂がここで政変に逢い自害した。その後、天智天皇2年、塔を建立。塔建立については舎利容器や埋納品の様子が詳しく記録されている。天武天皇6年、丈六仏像を鋳造。13年3月25日、これを開眼し、山田寺と名付けた。翌年8月12日、天武天皇が行幸とある。また『日本書紀』は石川麻呂の政変の経緯が詳しく述べる。『諸寺建立次第』によると金堂に三尊像と石川麻呂の御影を祀り講堂に十一面観音と薬師三尊を祀っていた。中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ四天王寺式に近い伽藍配置が確認されており、これを山田寺式という場合もある。瓦も山田寺式瓦と名付けられ、白鳳時代を代表する様式とされる。『扶桑略記』によると治安3年(1023)10月、藤原道長が高野山参詣の途中、山田寺の堂塔を見て感銘を受けたというのでこの頃はまだ伽藍が健在だった。長元7年(1034)、検校善妙が政変の忌日に法華八講を始めた。
中世以降
文治3年(1187)3月、講堂本尊の薬師像が、南都焼討後の復興を図る興福寺東金堂衆に奪取され(『玉葉』)、興福寺同堂の本尊とされた。当時の山田寺は仁和寺の支配下にあり、仁和寺宮と興福寺の間で返還交渉がもたれたが実現しなかった。なお興福寺東金堂に移された薬師像は応永18年(1411)に火災で頭部を残して焼失した。建久8年(1197)には山田寺の伽藍は廃滅していたことが同年編纂の多武峰略記に記されており、また当時は多武峰寺の末寺になっていたことが分かる。発掘調査では12世紀末の火災後が見つかっており、仏像奪取の時に焼討された可能性も指摘されている。 鎌倉時代以降の歴史はあきらかでないが、出土品などから講堂跡を中心に小堂が続いたとみられる。興福寺と銘のある瓦が出土しており、興福寺の末寺となっていたらしい。弘安2年には山田寺と多武峰寺との間で争論が起きている。鎌倉時代後期の梵鐘鋳造遺構が確認されている。
降って元禄15年(1702)、現在の観音堂が講堂跡に再建。本尊の長谷寺式観音は室町時代の造立という。 天保12年、石川麻呂の子孫を称する山田重貞という越前の人が雪冤碑を建立。
近代の調査・発掘
昭和12年10月、興福寺で旧山田寺講堂の薬師仏頭が発見された。 昭和51年から奈良国立文化財研究所が発掘調査している。 東回廊跡からほぼ完全な形で部材が出土。貴重な発見とされる。
参考文献
- 国史大事典
- 日本歴史地名大系
- 志水正司『古代寺院の成立』六興出版
- 2007『奇偉荘厳山田寺』[1]