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崇峻天皇陵

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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「元禄の修陵」では修復が実施されたが、どこが比定されていたのかは不詳。「文化の修陵」で[[崇峻天皇陵 赤坂伝承地|赤坂伝承地]](赤坂天王山古墳)が修復された。幕末の「文久の修陵」では、比定地が不明として修復は実施されなかった。
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「元禄の修陵」では修復が実施されたが、どこが比定されていたのかは不詳(『磯城郡誌』では赤坂伝承地とする)。「文化の修陵」で[[崇峻天皇陵 赤坂伝承地|赤坂伝承地]](赤坂天王山古墳)が修復された。幕末の「文久の修陵」では、比定地が不明として修復は実施されなかった。
1876年(明治9年)2月7日、大和国十市郡倉橋村の「[[崇峻天皇陵 雀塚伝承地|スズメ塚]]」を「崇峻天皇梯岡上陵」に治定した(明治天皇紀)。のち1889年(明治22年)7月25日、所在を改めて、同村の「崇峻天皇御位牌所及び十二社神社境内」を治定した(同上)。位牌を祀ってきたのは[[金福寺]]で、聖徳太子の位牌もあったという。金福寺は倉梯柴垣宮跡とも言われる。『磯城郡誌』には「御位牌所たりし一小堂は今尚ほ御陵の中央に存在し」とあり、現在もある小祠がそれであると思われる。明治34年にも修復された。
1876年(明治9年)2月7日、大和国十市郡倉橋村の「[[崇峻天皇陵 雀塚伝承地|スズメ塚]]」を「崇峻天皇梯岡上陵」に治定した(明治天皇紀)。のち1889年(明治22年)7月25日、所在を改めて、同村の「崇峻天皇御位牌所及び十二社神社境内」を治定した(同上)。位牌を祀ってきたのは[[金福寺]]で、聖徳太子の位牌もあったという。金福寺は倉梯柴垣宮跡とも言われる。『磯城郡誌』には「御位牌所たりし一小堂は今尚ほ御陵の中央に存在し」とあり、現在もある小祠がそれであると思われる。明治34年にも修復された。

2014年12月7日 (日) 時点における版

「元禄の修陵」では修復が実施されたが、どこが比定されていたのかは不詳(『磯城郡誌』では赤坂伝承地とする)。「文化の修陵」で赤坂伝承地(赤坂天王山古墳)が修復された。幕末の「文久の修陵」では、比定地が不明として修復は実施されなかった。

1876年(明治9年)2月7日、大和国十市郡倉橋村の「スズメ塚」を「崇峻天皇梯岡上陵」に治定した(明治天皇紀)。のち1889年(明治22年)7月25日、所在を改めて、同村の「崇峻天皇御位牌所及び十二社神社境内」を治定した(同上)。位牌を祀ってきたのは金福寺で、聖徳太子の位牌もあったという。金福寺は倉梯柴垣宮跡とも言われる。『磯城郡誌』には「御位牌所たりし一小堂は今尚ほ御陵の中央に存在し」とあり、現在もある小祠がそれであると思われる。明治34年にも修復された。 考古学では、赤坂伝承地がその候補地とされる。(『磯城郡誌』では赤坂伝承地を雀墓とし、最初の治定地とするが、関係は不詳)

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