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崇峻天皇陵
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2014年12月7日 (日) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
崇峻天皇の陵墓。現在治定されている金福寺伝承地、考古学で推定される赤坂伝承地(赤坂天王山古墳)、明治初年に治定されたことがある雀塚伝承地の3カ所の候補地がある。
「元禄の修陵」では、『諸陵周垣成就記』[1][2]によると、赤坂伝承地と金福寺伝承地の双方を修復したらしい。「崇峻天皇御陵」の絵図に「御陵山 字岩屋山 又赤坂山トモ」とあり、赤坂伝承地と確認できる[3]。また次の頁に「字天皇屋敷」の地図を載せ、「金福寺」とともに「御陵の上に本堂」と記している[4]。「文化の修陵」では赤坂伝承地が修復されたようだが、幕末の「文久の修陵」では、比定地が不明として修復は実施されなかったらしく『文久山陵図』には記載がない。
1876年(明治9年)2月7日、大和国十市郡倉橋村の「スズメ塚」を「崇峻天皇梯岡上陵」に治定した(明治天皇紀)。のち1889年(明治22年)7月25日、所在を改めて、同村の「崇峻天皇御位牌所及び十二社神社境内」を治定し(同上)、明治34年に修復された(『磯城郡誌』)。位牌を祀ってきたのは金福寺で、聖徳太子の位牌もあったという。金福寺は倉梯柴垣宮跡とも言われる。『磯城郡誌』には「御位牌所たりし一小堂は今尚ほ御陵の中央に存在し」とあり、現在もある小祠がそれであると思われる。十二社神社は、道の反対側に遷座して倉橋神社となった。 考古学では、赤坂伝承地がその候補地とされる。(『磯城郡誌』では赤坂伝承地と雀塚を同一のものとして混同しており、明治9年に治定したのが、赤坂天王山古墳とする説は、ここから来ているのかもしれない)