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延暦寺安楽律院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年4月29日 (木)

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'''安楽律院'''(あんらくりついん)は、滋賀県大津市の[[比叡山]][[延暦寺]]の横川地区飯室谷にある[[浄土教]]と[[律]]を修する[[天台宗]]寺院。'''[[安楽律院流]]'''の拠点だった。旧本尊は源信作の阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩(焼失)。[[天台宗延暦寺派]]。'''安楽院'''。(参考:同名寺院[[安楽院]])
'''安楽律院'''(あんらくりついん)は、滋賀県大津市の[[比叡山]][[延暦寺]]の横川地区飯室谷にある[[浄土教]]と[[律]]を修する[[天台宗]]寺院。'''[[安楽律院流]]'''の拠点だった。旧本尊は源信作の阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩(焼失)。[[天台宗延暦寺派]]。'''安楽院'''。(参考:同名寺院[[安楽院]])
== 歴史 ==
== 歴史 ==
===浄土教の道場===
===浄土教の道場===
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寛和元年(985)10月、叡桓が範好・忠正・延久・惟慶と共に建てた念仏道場が起源。翌年夏、[[源信]]を招き、念仏行法を始めた。この時、慶滋保胤が縁起文を記した。ついで長徳2年(996)8月、叡桓らは「首楞厳院安楽谷起請文」を定めた。[[織田信長]]の焼き討ちを免れる。
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985年(寛和1年)10月、叡桓が範好・忠正・延久・惟慶と共に建てた念仏道場が起源。翌年夏、[[源信]]を招き、念仏行法を始めた。この時、慶滋保胤が縁起文を記した。ついで996年(長徳2年)8月、叡桓らは「首楞厳院安楽谷起請文」を定めた。[[織田信長]]の焼き討ちを免れる。
===安楽律院流の興隆===
===安楽律院流の興隆===
-
元禄6年(1693)、公弁法親王が霊空光謙に与え、四分律を兼学する天台律の道場となる。霊空は師の妙立慈山を中興開山とした。元禄10年、幕府から100石を与えられる。
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1693年(元禄6年)、公弁法親王が霊空光謙に与え、四分律を兼学する天台律の道場となる。霊空は師の妙立慈山を中興開山とした。1697年(元禄10年)、幕府から100石を与えられる。
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宝永3年(1706)、玄門智幽が跡を継ぎ、享保3年(1718)、伝法灌頂を始める。寛保3年(1743)、一年輪番制とした。
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1706年(宝永3年)、玄門智幽(1666-1752)が跡を継いだ。霊空は密教を脇に置いたが、智幽は密教に高い見識を持ち、1716年(享保1年)に伝法灌頂を受ける。1718年(享保3年)、伝法灌頂を始め、1736年(元文1年)安楽律院に灌室を整備し、顕密戒兼学の律院となった。智幽は1743年(寛保3年)住職を退任し、一年輪番制とした。
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末寺として享保8年(1723)、江戸[[寛永寺]]には[[浄名律院]]、享保14年(1729)、日光[[日光・輪王寺|満願寺]]には[[興雲律院]]が開かれた。
 
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しかし、大乗戒を主張する守旧派と対立。顕道敬光や円耳真流が批判。安楽騒動となる。宝暦2年(1752)、公啓法親王が輪王寺宮に就任すると、円耳真流が進言。宝暦8年(1758)、公啓法親王は兼学律廃止を命じた。安楽院には円耳真流が住した。しかし安永元年(1772)、公遵法親王が輪王寺宮に就任すると、安楽律復興が宣言され、円耳真流は追放された。
 
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昭和24年、焼失。叡桓墓、藤原定家墓、妙立慈山墓、霊空光謙墓、玄門智幽墓がある。
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しかし、大乗戒を主張する守旧派と対立。顕道敬光や円耳真流が批判。安楽騒動となる。1752年(宝暦2年)、公啓法親王が輪王寺宮に就任すると、円耳真流が進言。1758年(宝暦8年)、公啓法親王は兼学律廃止を命じた。安楽院には円耳真流が住した。しかし1772年(安永1年)、公遵法親王が輪王寺宮に就任すると、安楽律復興が宣言され、円耳真流は追放された。
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1949年(昭和24年)、焼失。叡桓墓、藤原定家墓、妙立慈山墓、霊空光謙墓、玄門智幽墓がある。
(国史大事典、日本歴史地名大系)
(国史大事典、日本歴史地名大系)
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File:安楽律院_(1).jpg|「摂僧大界并摂衣界」の結界碑
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==組織==
==組織==
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===中興以降===
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===住職===
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*1妙立慈山(1637-1690):天台律宗安楽律院流の開祖。美作出身。和田氏。最初、山城花山寺で禅を学ぶが、天台宗に転派。比叡山で修行するが、日本天台宗伝統の大乗戒を否定し、南山律を主張したため、異議として追放された。泉涌寺や西明寺でも律を学ぶ。のち輪王寺宮公弁法親王が安楽律院流として認め、延暦寺安楽律院の中興の祖とみなされた。唯忍子。 弟子に霊空光謙、玄門智幽、義瑞性慶、義天ら。
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*2霊空光謙(1652-1739):天台律宗安楽律院流の第二祖。筑前出身。岡村氏。慈山妙立に師事。安楽律院流を興隆し、安楽律院住職となった。江戸の寛永寺浄名律院や日光の輪王寺興雲律院も開いた。光舜。幻々庵。有門庵。 弟子に守篤本純。
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*3玄門智幽(1666-1752):天台律宗安楽院派の第三祖。伊勢出身。茨木氏。慈山妙立、霊空光謙に学ぶ。50ほどの寺院を開いたという。
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*円耳真流(1711-?):安楽律院流を批判。宝暦8年(1758)頃、安楽律院住職となる。安永元年(1772)、安楽律復興の令旨で引退。
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*慧澄痴空(1780-1862):粉河寺十禅院を創建。1830年(天保1年)8月、浄名律院住職。1839年(天保10年)安楽律院住職。(日本仏家人名辞書)
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*岩佐普潤(1829-1901):1875年(明治8年)12月24日安楽律院住職。1887年(明治20年)粉河寺十禅院住職。1890年(明治23年)興雲律院住職。1892年(明治25年)坂本世尊寺住職。(日本仏家人名辞書)
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|天台律宗安楽律院流の開祖。美作出身。1637年(寛永14年)生。和田氏。最初、山城花山寺で雷峰に師事し禅を学ぶが、1664年(寛文4年)坂本に庵を結ぶ。自誓受戒。1668年(寛文8年)泉涌寺で大蔵経を読むこと3年、天台宗に転派。円頓戒、伝法灌頂を受ける。日本天台宗伝統の大乗戒を否定し、南山律を主張したため、異議として追放された。泉涌寺や西明寺でも律を学ぶ。1678年(延宝6年)比叡山を去る。1682年(天和2年)聖護院近くに有門庵を開く。即心念仏を説き、聖護院宮、三千院宮、毘沙門堂宮の帰依を受けた。1690年(元禄3年)7月3日死去。54歳。のち輪王寺宮公弁法親王が安楽律院流として認め、延暦寺安楽律院の中興の祖とみなされた。唯忍子。 弟子に霊空光謙、玄門智幽、義瑞性慶、義天ら。
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|天台律宗安楽律院流の第二祖。筑前出身。1652年(承応1年)生。岡村氏。慈山妙立に師事。安楽律院流を興隆し、1694年(元禄7年)安楽律院住職となった。江戸の寛永寺浄名律院や日光の輪王寺興雲律院も開いた。1706年(宝永3年)住職退任。1739年(元文4年)死去。光舜。幻々庵。有門庵。 弟子に守篤本純。
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|1706-1743
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|天台律宗安楽院派の第三祖。伊勢出身。1666年(寛文6年)生。茨木氏。1678年(延宝6年)松阪一乗寺に入る。翌年得度。1684年(貞享1年)に妙立慈山から八斎戒を受けたのが転機となった。1685年(貞享2年)菩薩戒を受戒。1688年(元禄1年)一乗寺住職となるが、出奔。妙立慈山に随従するが、師はまもなく1690年(元禄3年)死去。以後は兄弟子の霊空光謙に師事する。1692年(元禄5年)に安楽院が律院と認められ、活動が本格化すると霊空光謙を支えた。1701年(元禄14年)一乗寺を律院にすると共に諸国を巡教。1706年(宝永3年)安楽律院住職就任。1716年(享保1年)延暦寺正覚院慧潤から伝法灌頂を受け、安楽律に密教を導入する。50ほどの寺院を開いたという。1743年(寛保3年)安楽律院に一年輪番制を定める。1752年(宝暦2年)死去。
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*慧澄痴空(1780-1862)<1839->:1780年(安永9年)生。粉河寺十禅院を創建。1830年(天保1年)8月、浄名律院住職。1839年(天保10年)安楽律院住職。1862年(文久2年)3月2日死去。(日本仏家人名辞書)
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*性憲()<>:1853年(嘉永6年)在職。
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*忍達()<>:1869年(明治2年)在職。1873年(明治6年)死去。
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===住職(近代)===
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戦前の規定では「貫首」と呼称。
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*岩佐普潤(1829-1901)<1875->:1875年(明治8年)12月24日安楽律院住職。1887年(明治20年)粉河寺十禅院住職。1890年(明治23年)興雲律院住職。1892年(明治25年)坂本世尊寺住職。(日本仏家人名辞書)
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*貴宝良順()<>:1890年(明治23年)9月在職。
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*宝珠山慈照()<1940->:福岡宝聚寺(元は盲僧派)住職。1940年(昭和15年)1月20日、安楽律院貫首就任。
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*柴田霊潭()<>:1964年(昭和39年)頃在職。[[摩尼寺]]住職。
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*叡南祖賢(1903-1971)<1949->:1949年(昭和24年)就任。
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*中川光熹(1937-)<>:天台宗安楽律法流貫首。興雲律院住職。安楽律院住職。日光修験の再興を試みている。
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[[category:滋賀県]]
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2021年4月29日 (木) 時点における最新版

安楽律院 (12).jpg

安楽律院(あんらくりついん)は、滋賀県大津市の比叡山延暦寺の横川地区飯室谷にある浄土教を修する天台宗寺院。安楽律院流の拠点だった。旧本尊は源信作の阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩(焼失)。天台宗延暦寺派安楽院。(参考:同名寺院安楽院

目次

歴史

浄土教の道場

985年(寛和1年)10月、叡桓が範好・忠正・延久・惟慶と共に建てた念仏道場が起源。翌年夏、源信を招き、念仏行法を始めた。この時、慶滋保胤が縁起文を記した。ついで996年(長徳2年)8月、叡桓らは「首楞厳院安楽谷起請文」を定めた。織田信長の焼き討ちを免れる。

安楽律院流の興隆

1693年(元禄6年)、公弁法親王が霊空光謙に与え、四分律を兼学する天台律の道場となる。霊空は師の妙立慈山を中興開山とした。1697年(元禄10年)、幕府から100石を与えられる。 1706年(宝永3年)、玄門智幽(1666-1752)が跡を継いだ。霊空は密教を脇に置いたが、智幽は密教に高い見識を持ち、1716年(享保1年)に伝法灌頂を受ける。1718年(享保3年)、伝法灌頂を始め、1736年(元文1年)安楽律院に灌室を整備し、顕密戒兼学の律院となった。智幽は1743年(寛保3年)住職を退任し、一年輪番制とした。


末寺として1723年(享保8年)、江戸寛永寺には浄名律院、1729年(享保14年)、日光満願寺には興雲律院が開かれた。 しかし、大乗戒を主張する守旧派と対立。顕道敬光や円耳真流が批判。安楽騒動となる。1752年(宝暦2年)、公啓法親王が輪王寺宮に就任すると、円耳真流が進言。1758年(宝暦8年)、公啓法親王は兼学律廃止を命じた。安楽院には円耳真流が住した。しかし1772年(安永1年)、公遵法親王が輪王寺宮に就任すると、安楽律復興が宣言され、円耳真流は追放された。

1949年(昭和24年)、焼失。叡桓墓、藤原定家墓、妙立慈山墓、霊空光謙墓、玄門智幽墓がある。

(国史大事典、日本歴史地名大系)

組織

住職

世数 生没年 在職年 略歴
叡桓 生没年不詳 平安時代の僧侶。985年(寛和1年)安楽院を開いたという。
1 妙立慈山 1637-1690 天台律宗安楽律院流の開祖。美作出身。1637年(寛永14年)生。和田氏。最初、山城花山寺で雷峰に師事し禅を学ぶが、1664年(寛文4年)坂本に庵を結ぶ。自誓受戒。1668年(寛文8年)泉涌寺で大蔵経を読むこと3年、天台宗に転派。円頓戒、伝法灌頂を受ける。日本天台宗伝統の大乗戒を否定し、南山律を主張したため、異議として追放された。泉涌寺や西明寺でも律を学ぶ。1678年(延宝6年)比叡山を去る。1682年(天和2年)聖護院近くに有門庵を開く。即心念仏を説き、聖護院宮、三千院宮、毘沙門堂宮の帰依を受けた。1690年(元禄3年)7月3日死去。54歳。のち輪王寺宮公弁法親王が安楽律院流として認め、延暦寺安楽律院の中興の祖とみなされた。唯忍子。 弟子に霊空光謙、玄門智幽、義瑞性慶、義天ら。
2 霊空光謙 1652-1739 1694-1706 天台律宗安楽律院流の第二祖。筑前出身。1652年(承応1年)生。岡村氏。慈山妙立に師事。安楽律院流を興隆し、1694年(元禄7年)安楽律院住職となった。江戸の寛永寺浄名律院や日光の輪王寺興雲律院も開いた。1706年(宝永3年)住職退任。1739年(元文4年)死去。光舜。幻々庵。有門庵。 弟子に守篤本純。
3 玄門智幽 1666-1752 1706-1743 天台律宗安楽院派の第三祖。伊勢出身。1666年(寛文6年)生。茨木氏。1678年(延宝6年)松阪一乗寺に入る。翌年得度。1684年(貞享1年)に妙立慈山から八斎戒を受けたのが転機となった。1685年(貞享2年)菩薩戒を受戒。1688年(元禄1年)一乗寺住職となるが、出奔。妙立慈山に随従するが、師はまもなく1690年(元禄3年)死去。以後は兄弟子の霊空光謙に師事する。1692年(元禄5年)に安楽院が律院と認められ、活動が本格化すると霊空光謙を支えた。1701年(元禄14年)一乗寺を律院にすると共に諸国を巡教。1706年(宝永3年)安楽律院住職就任。1716年(享保1年)延暦寺正覚院慧潤から伝法灌頂を受け、安楽律に密教を導入する。50ほどの寺院を開いたという。1743年(寛保3年)安楽律院に一年輪番制を定める。1752年(宝暦2年)死去。
4 円耳真流 1711-? 1758?-1772 伊勢出身。1711年(正徳1年)生。延暦寺禅定院9世の智濤に師事。1724年(享保9年)6月、禅定院看坊。1730年(享保15年)3月禅定院住職10世。1735年(享保20年)9月8日、受戒籠山。1747年(延享4年)9月8日満行。1758年(宝暦8年)頃、安楽律院住職となる。安楽律院流を批判。1771年(明和8年)3月10日退任して南禅寺の近くの草庵に隠居。6月21日、座主の命令で住職に復帰。1772年(安永1年)12月、安楽律復興の令旨で引退。まもなく死去という。

輪番

  • 真咬()<>:
  • 知雄()<>:
  • 楚善()<>:
  • 匿嶺()<>:
  • 性貫()<>:
  • 義价()<>:
  • 同空()<>:
  • 忠谷()<>:
  • 普育()<>:
  • 智堂()<>:
  • 現脱()<>:1757年(宝暦7年)輪番就任。
  • 実道()<>:
  • 覚道()<>:
  • 珍州()<>:1758年(宝暦8年)輪番就任。追放される。
  • 寂進()<-1778>:1778年(安永7年)9月4日退任。1791年(寛政3年)死去。
  • 寂音()<1778->:1778年(安永7年)9月4日輪番就任。
  • 智厳()<-1784>:1784年(天明4年)退任。
  • 性潭()<1784-1787>:1784年(天明4年)輪番就任。1787年(天明7年)浄名律院輪番に転任。1790年(寛政2年)8月、再び安楽律院輪番。1808年(文化5年)死去。
  • 性潭()<1790->:
  • 大空()<>:
  • 大超()<>:
  • 真境()<>:
  • 寂玄()<>:
  • 省我()<>:
  • 仁海()<>:
  • 覚忍()<>:
  • 慧澄痴空(1780-1862)<1839->:1780年(安永9年)生。粉河寺十禅院を創建。1830年(天保1年)8月、浄名律院住職。1839年(天保10年)安楽律院住職。1862年(文久2年)3月2日死去。(日本仏家人名辞書)
  • 性憲()<>:1853年(嘉永6年)在職。
  • 忍達()<>:1869年(明治2年)在職。1873年(明治6年)死去。

住職(近代)

戦前の規定では「貫首」と呼称。

  • 岩佐普潤(1829-1901)<1875->:1875年(明治8年)12月24日安楽律院住職。1887年(明治20年)粉河寺十禅院住職。1890年(明治23年)興雲律院住職。1892年(明治25年)坂本世尊寺住職。(日本仏家人名辞書)
  • 貴宝良順()<>:1890年(明治23年)9月在職。
  • 宝珠山慈照()<1940->:福岡宝聚寺(元は盲僧派)住職。1940年(昭和15年)1月20日、安楽律院貫首就任。
  • 柴田霊潭()<>:1964年(昭和39年)頃在職。摩尼寺住職。
  • 叡南祖賢(1903-1971)<1949->:1949年(昭和24年)就任。
  • 中川光熹(1937-)<>:天台宗安楽律法流貫首。興雲律院住職。安楽律院住職。日光修験の再興を試みている。
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