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後嵯峨天皇陵

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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後嵯峨天皇陵

京都府京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町にある後嵯峨天皇陵墓亀山天皇陵と共に天龍寺内にある。大覚寺統および南朝の淵源となる二帝を祀る法華堂形式の陵墓。当初は浄金剛院に設けられたが、同寺と共に廃滅したため、幕末に旧地を調査して復興したのが現在の陵墓である。幕末の時点で旧法華堂の痕跡は完全に消滅していたことから遺骨は現存しないと思われる。嵯峨南陵

歴史

天龍寺内にある亀山天皇陵(西)と後嵯峨天皇陵(東)。(国土地理院空中写真より)

後嵯峨天皇(1220-1272)<1242-1246>は、譲位後の1272年(文永9年)2月17日に崩御。亀山殿の別院薬草院で火葬され、亀山殿付属の浄金剛院に法華堂が建立されて納骨された。亀山天皇(1249-1305)<1260-1274>は1305年(嘉元3年)9月15日に上皇として崩御し、亀山殿の裏山で火葬され、同法華堂に納骨された。亀山天皇は兄の後深草天皇より父の後嵯峨天皇の寵愛を受け、後継者とみなされており、同一の堂に納骨されたのもその親密さを物語る証左といえる。浄金剛院の古図には法華堂が記されている(天龍寺蔵『山城国嵯峨亀山殿近辺屋敷地指図』)。しかし、足利尊氏による天龍寺創建により、亀山殿跡地周辺は大幅に区画整理をされ、浄金剛院も廃絶し、陵墓は所在不明となった。

幕末、文久の修陵に際して、谷森善臣は地名から考証して、陵墓旧地を確定した。同地にあった舎利殿と経蔵を撤去し、新たに法華堂2堂を建立し、浄金剛院法華堂と称した。1906年(明治39年)3月23日、従来、嵯峨殿法華堂亀山殿法華堂と称してきたが、それぞれ嵯峨陵亀山陵と改称した(明治天皇紀)。嵯峨陵はのち嵯峨南陵と改称された。

後嵯峨天皇・亀山天皇の火葬塚が天龍寺の西側の地に治定されている。文久の修陵で区画化され、周堀と外堤が造営された。しかし、両天皇が火葬された場所は本来は別の場所であったはずであるという(文久山陵図227)。


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