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恒性王墓

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2016年4月29日 (金)

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'''恒性王墓'''は、富山県高岡市二塚にある[[後醍醐天皇]]皇子の[[恒性王]]の墓。[[皇室治定墓]]。後醍醐天皇が隠岐に流されるとともに越中に流された。近くに皇子を祀る[[悪皇子宮]]と菩提寺の[[浄誓寺]]と[[恒性王火葬塚|火葬塚]]がある。東二塚地区には古くから皇子の伝承が伝わり、明治45年(1912)1月29日、宮内省告示第1号で治定が発表された。元々は'''太子墓'''と呼ばれていたという。
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'''恒性王墓'''は、富山県高岡市二塚にある[[後醍醐天皇]]皇子の[[大覚寺門跡]][[恒性王]](1305-1333)の墓。[[皇室治定墓]]。後醍醐天皇が隠岐に流されるとともに越中に流された。近くに皇子を祀る[[悪皇子宮]]と菩提寺の[[浄誓寺]]と[[恒性王火葬塚|火葬塚]]がある。東二塚地区には古くから皇子の伝承が伝わり、明治45年(1912)1月29日、宮内省告示第1号で治定が発表された。元々は'''太子墓'''と呼ばれていたという。
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2016年4月29日 (金) 時点における最新版

恒性王墓は、富山県高岡市二塚にある後醍醐天皇皇子の大覚寺門跡恒性王(1305-1333)の墓。皇室治定墓。後醍醐天皇が隠岐に流されるとともに越中に流された。近くに皇子を祀る悪皇子宮と菩提寺の浄誓寺火葬塚がある。東二塚地区には古くから皇子の伝承が伝わり、明治45年(1912)1月29日、宮内省告示第1号で治定が発表された。元々は太子墓と呼ばれていたという。

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%81%92%E6%80%A7%E7%8E%8B%E5%A2%93」より作成

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