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拝上帝会
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''拝上帝会'''は中国で起こった[[キリスト教]]系教団。太平天国という国家を建てた。洪秀全(1814-1864)は[[ヤハウェ]]を天父・上帝とし、[[イエス]]を天兄と呼び、自らを天弟としてイエスの弟と名乗った。清朝を支える[[儒教]]思想を排撃、弾圧した。'''上帝教'''。'''上帝会'''。 ==歴史== *1814年1月:官禄〓村で、洪秀全誕生。 *1833年:科挙落第。この時、中国人初の[[プロテスタント]]宣教師梁阿発の布教書『勧世良言』を入手。しかし気に留めなかった。 *1837年3月:3度目の科挙に落第。熱病にかかる。この間、老人の夢を見る。 *1843年:4度目の科挙に失敗。李敬芳に勧められ『勧世良言』を読み、かつての夢との符合を悟る。 *1843年7月:拝上帝会を創始 *1847年3月:[[広州]]でアメリカ人宣教師ロバーツのもとで学ぶ。しかし洗礼を受けることは拒否された。 *1847年8月:広西桂平県紫荊山で2000人の信者を獲得していた馮雲山と再会。 *1847年10月:広西桂平県で神殿神像破壊運動を始める。象州三江口の甘王廟、ついで紫荊山蒙冲の三聖宮を打ち壊した。 *1847年:馮雲山が投獄される。 *1848年4月:投獄で動揺が走る中、楊秀清が天父下凡の降霊儀礼。ヤハウェは洪秀全こそ「天下万国の真の主」と託宣した。 *1848年10月24日:鵬隘山で蕭朝貴が天兄下凡の降霊儀礼を行う。 *1850年7月:全会員に金田に集まるように密かに命じる。 *1851年1月11日:金田蜂起。天王を称して、太平天国の建国を宣言。のちこの年を太平天国元年とした。 *1851年9月25日:永安州城を陥落。10月1日、洪秀全入城。 *1851年12月17日:五王制度の詔。 *1851年12月21日:周錫能事件。楊秀清に天父下凡(託宣)があり、内通者を暴いて処刑した。 *1852年4月4日:永安州脱出の詔 *1852年6月10日:馮雲山戦死。 *1852年:蕭朝貴戦死。 *1853年1月:清朝の曽国藩、湘軍を組織。 *1853年3月:[[南京]]占領。3月29日、洪秀全入城。南京を首都として天京と改称した。年内に『欽定旧遺詔聖書』『欽定新遺詔聖書』を刊行。 *1854年:北伐軍敗退 *1854年:対儒教政策を緩和 *1856年9月2日:天京事変。内乱で楊秀清を粛正。 *1864年6月1日:洪秀全、崩御。 *1864年7月:天京陥落。 *1864年8月8日:李秀成処刑 *1864年11月18日:幼天王の洪天貴福、南昌で処刑 *1868年8月:残党も鎮圧される。 *1930年7月24日:国民党中央本部、太平天国について「粤賊」との表記を禁じる。 ==一覧== *[[天王府]]:[[南京]]を占領して首都とし、天京と名付けた。天王の宮殿である天龍殿の奥に、イエスを祀る天兄殿、さらに奥にヤハウェを祀る天父殿があった。 **天龍殿:洪秀全の宮殿。その死後、宮殿の下に埋葬された。 **[[天父真神殿]]: **[[天兄真神殿]]: **[[天父台]]:天王府の南端にあった露天の円形祭壇。中国歴代王朝の[[天壇]]を彷彿とさせる。天台。 *[[曽水源墓]]:南京 *永安:最初の拠点 *[[蘇州]] **[[忠王府]]:現存する数少ない太平天国の遺構。礼拝堂も付属。 *護王府:江蘇省常州市天寧区。礼拝堂はない? *金華 **侍王府:壁画が残る。礼拝堂はない? *[[上海]] **[[太平天国烈士墓]] *[[武漢]] **[[九女墩]] *千人塚:湖北省黄石市陽新県。半壁山 *洪㳂三墓:洪秀全の祖先の墓。 *洪全福墓:香港墓地にある。 *[[南京・曽公祠]]:太平天国と戦った清朝の曽国荃を祀る霊廟 [[category:団体]]
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