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施福寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
施福寺
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'''施福寺'''(せふくじ)は、大阪府和泉市槇尾山町にある、[[弥勒信仰]]の[[天台宗]]寺院。和泉国和泉郡。本堂には、[[千手千眼観音]]を合祀し、[[西国三十三所観音霊場]]第4番札所となっている。[[葛城山]]の北麓にあり、その霊場の一つとされる。[[修験道]][[当山派]]の[[正大先達]]の一つ。[[空海]]が剃髪した旧跡とされ、元は[[真言宗]]だった。山号は'''槙尾山'''で、'''槙尾寺'''、'''巻尾寺'''、'''槙尾山寺'''とも言われる。南南東2.6kmの山中にある河内長野市の[[融通念仏宗]][[光滝寺]]は、当寺の奥の院とされる。鎮守は[[槙尾神社]]。(参考:同名[[槙尾山]]) == 歴史 == ===古代=== [[欽明天皇]]の勅願で行満が創建。[[役小角]]が『[[法華経]]』常不軽菩薩品を収めたという伝承もあり、葛城修験との関係が伺える。706年(慶雲3年)、[[行基]]が参拝して「懺悔秘法率都婆」を建立。771年(宝亀2年)、法海が千手観音を感得。『日本霊異記』に登場する「'''血渟山寺'''」「'''珍努上山寺'''」('''珍努山寺''')、『今昔物語集』に登場する「'''珍努ノ山寺'''」に比定される。 延暦年間、[[勤操]]が法華八講を勤めたとされ、さらに793年(延暦12年)、[[空海]]が勤操から受戒して出家したという。 また空海は唐から帰国した後の807年(大同2年)から809年(大同4年)まで施福寺に住したともいう。 916年(延喜16年)、[[定額寺]]に指定。 1034年(長元7年)地元出身の天台宗の高僧覚超(960-1034)の墓が築かれた。また中世には盛んに経塚が作られ、1139年(保延5年)に収められた経塚が1962年(昭和37年)に発掘されている。平安末から[[西国三十三所観音霊場]]が形成されつつあったが、その当初から施福寺は含まれていた。札所の順番は7番、8番と変動したがやがて4番に固定化された。 ===中世=== 仁治年間、[[四条天皇]]の勅願で行遍(1181-1264)が灌頂堂を建立。1250年(建長2年)から行遍を大阿闍梨として結縁潅頂を始めたという。行遍は[[仁和寺菩提院]]に住した真言宗僧侶で、[[東寺]]長者にもなった高僧。この頃から[[仁和寺]]の末寺となっていたとみられる。翌年には行遍に帰依した宣陽門院([[後白河天皇]]皇女)の御願で万灯会を始めた。さらに[[後嵯峨天皇]]は遺言で施福寺に分骨を収めたという。また後白河上皇が転読したという法華経を奉納され、現存する。 1335年(建武2年)、[[後醍醐天皇]]が安産祈願を寄せた西国霊場に含まれている。南北朝時代、[[和泉・松尾寺]]と共に[[南朝]]側に付き、僧兵が戦に出ることも少なくなかった。南朝の衰退と共に寺運も傾く。1375年(天授1年/永和1年)には伽藍が炎上した。一方では西国霊場として庶民の信仰を集めた。1581年(天正9年)、[[織田信長]]の命令に衆徒が抵抗したため破却された。1582年(天正10年)には[[根来寺]]と同盟して[[豊臣秀吉]]と敵対し、攻められた。 ===近世=== 1603年(慶長8年)には[[豊臣秀頼]]の寄進で伽藍を復興。[[徳川家]]の支援も受けた。寛永年間に真言宗から天台宗に改宗し、[[寛永寺]]末となった。1845年(弘化2年)の大火で伽藍焼失。現在の諸堂は安政以後に再建されたもの。 (国史大辞典、日本歴史地名大系) == 伽藍 == *本堂: *愛染堂: *[[弘法大師御髪堂]]: *護摩堂: *虚空堂: *大日堂: *西国三十三所観音堂: *仁王門: *後嵯峨天皇塔:不詳 *覚超墓:兜卒岳の近くにある。 *[[槙尾神社]]:[[国史見在社]]。 *東照宮:廃絶か。 *愛宕神社:廃絶か。 [[category:大阪府]]
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