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日蓮旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
日蓮旧跡
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'''日蓮'''(にちれん)(1222-1282)は、[[日蓮宗]]の開祖。忌日法要を'''御会式'''(おえしき)という。'''御命講'''(おめいこう)と呼ぶ寺院もある。 ==信仰== ===御影=== *水鏡の御影:波木井の御影 == 一覧 == ===修行時代=== *[[安房・誕生寺|誕生寺]]:千葉県鴨川市小湊。[[生誕地]] *[[安房・妙蓮寺|妙蓮寺]]:千葉県鴨川市小湊。両親の墓所。 *[[清澄寺]]:千葉県鴨川市清澄。修行の地。 *[[比叡山]]:滋賀県大津市。 **[[延暦寺定光院]]:滋賀県大津市。修行の地。 *[[蓮長寺]]:奈良県奈良市。南都遊学の旧跡という。 *[[実相寺]]:静岡県富士市。 *[[誓願の井戸]]:三重県伊勢市倭町。[[伊勢神宮]]参詣の時に[[常明寺]]の閼伽井で三大誓願を立てたという。 ===鎌倉=== *[[日蓮辻説法旧跡]] *[[日蓮祈雨旧跡]]:神奈川県鎌倉市 *[[霊光寺]]:神奈川県鎌倉市 *[[鎌倉・実相寺]] ===松葉谷の法難=== *[[松葉谷の草庵]]:松葉ケ谷の法難。 **[[鎌倉・妙法寺]]:神奈川県鎌倉市 **[[鎌倉・長勝寺]]:神奈川県鎌倉市 **[[安国論寺]]:神奈川県鎌倉市 ===伊豆法難=== *[[鎌倉・妙長寺]]:神奈川県鎌倉市。伊豆へ出航した地 *[[蓮着寺]]:静岡県伊東市。伊豆法難 *[[仏現寺]]:静岡県伊東市。伊豆法難 ===小松原法難=== *[[鏡忍寺]]:千葉県鴨川市。小松原法難の地 ===龍口法難=== *[[龍口寺]]:神奈川県藤沢市片瀬。龍の口法難の地。 === 佐渡 === *[[佐渡・本行寺]]:着船の地。 *[[根本寺]]:日蓮宗久遠寺派の霊跡本山。『開目抄』を記した地。 *[[妙照寺]]:日蓮宗久遠寺派の霊跡本山。『観心本尊抄』を記す *[[真浦霊跡]]:新潟県佐渡市。佐渡出航の地。 *[[日蓮堂]] *波題目碑 *[[日蓮洞窟]] *日蓮聖人佐渡銅像 *[[妙宣寺]]:日蓮宗久遠寺派の本山由緒寺院。日蓮を支援した直弟子の阿仏房日得が創建。 ===晩年=== *[[身延山]]:山梨県南巨摩郡身延町 **[[久遠寺]] **[[七面山]] *[[池上本門寺]]:東京都大田区。 **[[本行寺]]:没地。池上宗仲邸跡。 ===墓所=== [[ファイル:4390DDE7-290C-4A2C-9575-77B5DB5277A5.jpeg|京都妙伝寺の御真骨堂|thumb|300px]] *久遠寺 **祖廟:遺骨の一部が残される。 **御真骨堂:祖廟から奉遷。現在はこちらがメイン? *[[鎌倉・本覚寺]]:神奈川県鎌倉市。東身延。 *[[妙伝寺御真骨堂]]:京都府京都市左京区北門前町。[[妙伝寺]]。西身延。 *[[摂津・真如寺]]:大阪府豊能郡能勢町。関西身延。 *[[本仏寺]]: 福岡県うきは市。鎮西身延。 *[[陸奥・智恩寺]]:岩手県遠野市。北身延。 == 年表 == ===年譜=== {|class="wikitable" |+日蓮年譜 !style="width:15%;"|年 !style="width:10%;"|月日 !style="width:5%;"|年齢 !style="width:70%;"|事項 |- |1222年(貞応1年) |2月16日 |1 |安房国長狭郡東条郷小湊で誕生。現在の[[安房・誕生寺]]。 |- |1223年(貞応2年) | |2 | |- |1224年(元仁1年) | |3 | |- |1225年(嘉禄1年) | |4 | |- |1226年(嘉禄2年) | |5 | |- |1227年(安貞1年) | |6 | |- |1228年(安貞2年) | |7 | |- |1229年(寛喜1年) | |8 | |- |1230年(寛喜2年) | |9 | |- |1231年(寛喜3年) | |10 | |- |1232年(貞永1年) | |11 | |- |1233年(天福1年) | |12 |[[安房・清澄寺]]に入寺し道善に師事。[[虚空蔵菩薩]]に「日本第一の智者となさしめたまえ」と誓願。 |- |1234年(文暦1年) | |13 | |- |1235年(嘉禎1年) | |14 | |- |1236年(嘉禎2年) | |15 | |- |1237年(嘉禎3年) | |16 |出家得度。是聖房蓮長と名乗る。 |- |1238年(暦仁1年) | |17 | |- |1239年(延応1年) | |18 |この頃、[[鎌倉]]遊学。 |- |1240年(仁治1年) | |19 | |- |1241年(仁治2年) | |20 | |- |1242年(仁治3年) | |21 |この頃、[[比叡山]]に遊学。[[延暦寺定光院]]が旧跡という。[[南都]]や[[高野山]]でも修学し、[[叡福寺]]にも参詣したという。 |- |1243年(寛元1年) | |22 | |- |1244年(寛元2年) | |23 | |- |1245年(寛元3年) | |24 | |- |1246年(寛元4年) | |25 | |- |1247年(宝治1年) | |26 | |- |1248年(宝治2年) | |27 | |- |1249年(建長1年) | |28 | |- |1250年(建長2年) | |29 | |- |1251年(建長3年) | |30 | |- |1252年(建長4年) | |31 |この頃、清澄寺に戻る。 |- |1253年(建長5年) |4月28日 |32 |清澄寺で法華経弘通を誓う。これをもって日蓮宗の'''立教開宗'''とする。この頃から日蓮と名乗る。日蓮宗の寺院では毎年4月28日に立教開宗会が営まれる。 |- | | | |この頃、円智房・実城房2人により清澄寺を退去させられる。東条景信の圧力もあったという。 |- | | | |この頃、[[富木常忍]]が下総中山に法華堂を建てて日蓮を迎えたという。[[中山法華経寺]]の起源とされる。 |- | | | |この頃、鎌倉に[[松葉ケ谷の草庵]]を結ぶ。 |- |1254年(建長6年) | |33 | |- |1255年(建長7年) | |34 | |- |1256年(康元1年) | |35 | |- |1257年(正嘉1年) |8月23日 |36 |鎌倉大地震。この惨状が『立正安国論』執筆の契機となる。 |- | | | |『立正安国論』執筆のため、駿河[[実相寺]]の経蔵に籠もった(法華霊場縁起集)。 |- |1258年(正嘉2年) |2月14日 |37 |父の貫名重忠(妙日)(1172-1258)が死去。 |- |1259年(正元1年) | |38 | |- |1260年(文応1年) |7月16日 |39 |'''『立正安国論』幕府に提出'''。前執権の北条時頼に渡す。 |- | |8月27日 | |'''松葉谷法難'''。松葉谷の草庵を浄土教の信者に焼かれたという。 |- |1261年(弘長1年) |5月12日 |40 |'''伊豆法難'''。再び鎌倉に移ったが、伊豆の伊東に流罪となる。伊東八郎左衛門の下に預けられた。旧跡は[[仏現寺]]・[[蓮着寺]]とされる。滞在中、立像釈尊像を得る。この像は現在、京都[[本圀寺]]本師堂に祀られている。 |- |1262年(弘長2年) | |41 | |- |1263年(弘長3年) |2月22日 |42 |幕府、伊豆流罪を赦免する。鎌倉に戻る。 |- |1264年(文永1年) |8月 |43 |安房国小湊に帰郷。父の墓を詣でる([[安房・妙蓮寺]])。老母を見舞う。この時、母を蘇生させたという伝説がある。 |- | | | |西条郷華房の[[安房・蓮華寺]]に滞在。師の道善を招く。 |- | |11月11日 | |'''小松原法難'''。工藤吉隆の招きを受け天津に向かう途中、東条郷の小松原で、東条景信らの襲撃を受ける。弟子の鏡忍坊日暁が死亡し、弟子2人が負傷。迎えに来た工藤吉隆も戦死した。日蓮も負傷した。現在の[[鏡忍寺]]の地という。 |- |1265年(文永2年) | |44 | |- |1266年(文永3年) | |45 | |- |1267年(文永4年) |8月15日 |46 |母の梅菊(妙蓮)(1193-1267)が死去。 |- |1268年(文永5年) |閏1月 |47 |蒙古からの国書が鎌倉幕府に到着する。日蓮は『立正安国論』で予言した国難が到来したと主張する。 |- |1269年(文永6年) | |48 | |- |1270年(文永7年) | |49 | |- |1271年(文永8年) |6月 |50 |祈雨を行い、[[忍性]]は失敗し、日蓮は成功したという。 |- | |9月12日 | |'''龍口法難'''。平頼綱により逮捕される。龍の口の海岸で斬首されそうになる。[[龍口寺]]の地。減刑され、佐渡流罪と決まる。 |- | |9月14日 | |相模国愛甲郡依智の本間重連の代官屋敷に幽閉。 |- | |10月10日 | |佐渡に向かうため依智を出発。 |- | |10月28日 | |佐渡到着(日蓮遺文)。 |- | |11月1日 | |塚原三昧堂に入る(日蓮遺文)。現在の[[根本寺]].。 |- |1272年(文永9年) |2月 |51 |塚原三昧堂で『開目鈔』を著す。三大誓願をつづる。 |- | | | |一谷阿弥陀堂に移る。現在の[[妙照寺]]という。 |- | |4月25日 | |一谷阿弥陀堂で『観心本尊抄』を著す。 |- |1273年(文永10年) | |52 | |- |1274年(文永11年) |2月14日 |53 |幕府、日蓮を赦免。 |- | |3月14日 | |佐渡を出航。翌日柏崎に着岸。 |- | | | |鎌倉に戻り得宗家家臣平頼綱に謁見 |- | |5月12日 | |鎌倉を去り、[[身延山]]に赴く。 |- | |10月20日 | |(元寇。文永の役。蒙古軍、博多に上陸。翌日撤退。) |- |1275年(建治1年) | |54 |『撰時抄』を著す。 |- |1276年(建治2年) | |55 |『報恩抄』を著す。師の道善の訃報を聴いて記した。 |- |1277年(建治3年) | |56 | |- |1278年(弘安1年) | |57 | |- |1279年(弘安2年) |9月 |58 |'''熱原法難'''(加島法難)。農民3人が処刑された。 |- |1280年(弘安3年) | |59 |『諫暁八幡抄』を著す。念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊の四箇格言を記す。ただしこれが初出ではなく折に触れて同様のことを主張してきた。 |- |1281年(弘安4年) |6月 |60 |(元寇。弘安の役) |- | |11月 | |波木井実長の寄進で身延山に伽藍を建てた。[[久遠寺]]の開創。 |- |1282年(弘安5年) |秋 |61 |病を得る。常陸の湯治のため身延山を離れる。 |- | |9月19日 | |池上宗仲の館に入る。病状が重くなり滞在することとなる。 |- | |10月 | |[[六老僧]]を指名。 |- | |10月13日 | |池上で死去。現在の[[池上本門寺]]・[[江戸・本行寺|本行寺]]。 |} *1922年(大正11年):「立正大師」号宣下。 [[category:人物旧跡]]
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