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日蓮旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年2月11日 (木)
日蓮(にちれん)(1222-1282)は、日蓮宗の開祖。忌日法要を御会式(おえしき)という。御命講(おめいこう)と呼ぶ寺院もある。
目次 |
信仰
御影
- 水鏡の御影:波木井の御影
一覧
修行時代
- 誕生寺:千葉県鴨川市小湊。生誕地
- 妙蓮寺:千葉県鴨川市小湊。両親の墓所。
- 清澄寺:千葉県鴨川市清澄。修行の地。
- 比叡山:滋賀県大津市。
- 延暦寺定光院:滋賀県大津市。修行の地。
- 蓮長寺:奈良県奈良市。南都遊学の旧跡という。
- 実相寺:静岡県富士市。
- 誓願の井戸:三重県伊勢市倭町。伊勢神宮参詣の時に常明寺の閼伽井で三大誓願を立てたという。
鎌倉
松葉谷の法難
伊豆法難
小松原法難
- 鏡忍寺:千葉県鴨川市。小松原法難の地
龍口法難
- 龍口寺:神奈川県藤沢市片瀬。龍の口法難の地。
佐渡
- 佐渡・本行寺:着船の地。
- 根本寺:日蓮宗久遠寺派の霊跡本山。『開目抄』を記した地。
- 妙照寺:日蓮宗久遠寺派の霊跡本山。『観心本尊抄』を記す
- 真浦霊跡:新潟県佐渡市。佐渡出航の地。
- 日蓮堂
- 波題目碑
- 日蓮洞窟
- 日蓮聖人佐渡銅像
- 妙宣寺:日蓮宗久遠寺派の本山由緒寺院。日蓮を支援した直弟子の阿仏房日得が創建。
晩年
墓所
- 久遠寺
- 祖廟:遺骨の一部が残される。
- 御真骨堂:祖廟から奉遷。現在はこちらがメイン?
- 鎌倉・本覚寺:神奈川県鎌倉市。東身延。
- 妙伝寺御真骨堂:京都府京都市左京区北門前町。妙伝寺。西身延。
- 摂津・真如寺:大阪府豊能郡能勢町。関西身延。
- 本仏寺: 福岡県うきは市。鎮西身延。
- 陸奥・智恩寺:岩手県遠野市。北身延。
年表
年譜
年 | 月日 | 年齢 | 事項 |
---|---|---|---|
1222年(貞応1年) | 2月16日 | 1 | 安房国長狭郡東条郷小湊で誕生。現在の安房・誕生寺。 |
1223年(貞応2年) | 2 | ||
1224年(元仁1年) | 3 | ||
1225年(嘉禄1年) | 4 | ||
1226年(嘉禄2年) | 5 | ||
1227年(安貞1年) | 6 | ||
1228年(安貞2年) | 7 | ||
1229年(寛喜1年) | 8 | ||
1230年(寛喜2年) | 9 | ||
1231年(寛喜3年) | 10 | ||
1232年(貞永1年) | 11 | ||
1233年(天福1年) | 12 | 安房・清澄寺に入寺し道善に師事。虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となさしめたまえ」と誓願。 | |
1234年(文暦1年) | 13 | ||
1235年(嘉禎1年) | 14 | ||
1236年(嘉禎2年) | 15 | ||
1237年(嘉禎3年) | 16 | 出家得度。是聖房蓮長と名乗る。 | |
1238年(暦仁1年) | 17 | ||
1239年(延応1年) | 18 | この頃、鎌倉遊学。 | |
1240年(仁治1年) | 19 | ||
1241年(仁治2年) | 20 | ||
1242年(仁治3年) | 21 | この頃、比叡山に遊学。延暦寺定光院が旧跡という。南都や高野山でも修学し、叡福寺にも参詣したという。 | |
1243年(寛元1年) | 22 | ||
1244年(寛元2年) | 23 | ||
1245年(寛元3年) | 24 | ||
1246年(寛元4年) | 25 | ||
1247年(宝治1年) | 26 | ||
1248年(宝治2年) | 27 | ||
1249年(建長1年) | 28 | ||
1250年(建長2年) | 29 | ||
1251年(建長3年) | 30 | ||
1252年(建長4年) | 31 | この頃、清澄寺に戻る。 | |
1253年(建長5年) | 4月28日 | 32 | 清澄寺で法華経弘通を誓う。これをもって日蓮宗の立教開宗とする。この頃から日蓮と名乗る。日蓮宗の寺院では毎年4月28日に立教開宗会が営まれる。 |
この頃、円智房・実城房2人により清澄寺を退去させられる。東条景信の圧力もあったという。 | |||
この頃、富木常忍が下総中山に法華堂を建てて日蓮を迎えたという。中山法華経寺の起源とされる。 | |||
この頃、鎌倉に松葉ケ谷の草庵を結ぶ。 | |||
1254年(建長6年) | 33 | ||
1255年(建長7年) | 34 | ||
1256年(康元1年) | 35 | ||
1257年(正嘉1年) | 8月23日 | 36 | 鎌倉大地震。この惨状が『立正安国論』執筆の契機となる。 |
『立正安国論』執筆のため、駿河実相寺の経蔵に籠もった(法華霊場縁起集)。 | |||
1258年(正嘉2年) | 2月14日 | 37 | 父の貫名重忠(妙日)(1172-1258)が死去。 |
1259年(正元1年) | 38 | ||
1260年(文応1年) | 7月16日 | 39 | 『立正安国論』幕府に提出。前執権の北条時頼に渡す。 |
8月27日 | 松葉谷法難。松葉谷の草庵を浄土教の信者に焼かれたという。 | ||
1261年(弘長1年) | 5月12日 | 40 | 伊豆法難。再び鎌倉に移ったが、伊豆の伊東に流罪となる。伊東八郎左衛門の下に預けられた。旧跡は仏現寺・蓮着寺とされる。滞在中、立像釈尊像を得る。この像は現在、京都本圀寺本師堂に祀られている。 |
1262年(弘長2年) | 41 | ||
1263年(弘長3年) | 2月22日 | 42 | 幕府、伊豆流罪を赦免する。鎌倉に戻る。 |
1264年(文永1年) | 8月 | 43 | 安房国小湊に帰郷。父の墓を詣でる(安房・妙蓮寺)。老母を見舞う。この時、母を蘇生させたという伝説がある。 |
西条郷華房の安房・蓮華寺に滞在。師の道善を招く。 | |||
11月11日 | 小松原法難。工藤吉隆の招きを受け天津に向かう途中、東条郷の小松原で、東条景信らの襲撃を受ける。弟子の鏡忍坊日暁が死亡し、弟子2人が負傷。迎えに来た工藤吉隆も戦死した。日蓮も負傷した。現在の鏡忍寺の地という。 | ||
1265年(文永2年) | 44 | ||
1266年(文永3年) | 45 | ||
1267年(文永4年) | 8月15日 | 46 | 母の梅菊(妙蓮)(1193-1267)が死去。 |
1268年(文永5年) | 閏1月 | 47 | 蒙古からの国書が鎌倉幕府に到着する。日蓮は『立正安国論』で予言した国難が到来したと主張する。 |
1269年(文永6年) | 48 | ||
1270年(文永7年) | 49 | ||
1271年(文永8年) | 6月 | 50 | 祈雨を行い、忍性は失敗し、日蓮は成功したという。 |
9月12日 | 龍口法難。平頼綱により逮捕される。龍の口の海岸で斬首されそうになる。龍口寺の地。減刑され、佐渡流罪と決まる。 | ||
9月14日 | 相模国愛甲郡依智の本間重連の代官屋敷に幽閉。 | ||
10月10日 | 佐渡に向かうため依智を出発。 | ||
10月28日 | 佐渡到着(日蓮遺文)。 | ||
11月1日 | 塚原三昧堂に入る(日蓮遺文)。現在の根本寺.。 | ||
1272年(文永9年) | 2月 | 51 | 塚原三昧堂で『開目鈔』を著す。三大誓願をつづる。 |
一谷阿弥陀堂に移る。現在の妙照寺という。 | |||
4月25日 | 一谷阿弥陀堂で『観心本尊抄』を著す。 | ||
1273年(文永10年) | 52 | ||
1274年(文永11年) | 2月14日 | 53 | 幕府、日蓮を赦免。 |
3月14日 | 佐渡を出航。翌日柏崎に着岸。 | ||
鎌倉に戻り得宗家家臣平頼綱に謁見 | |||
5月12日 | 鎌倉を去り、身延山に赴く。 | ||
10月20日 | (元寇。文永の役。蒙古軍、博多に上陸。翌日撤退。) | ||
1275年(建治1年) | 54 | 『撰時抄』を著す。 | |
1276年(建治2年) | 55 | 『報恩抄』を著す。師の道善の訃報を聴いて記した。 | |
1277年(建治3年) | 56 | ||
1278年(弘安1年) | 57 | ||
1279年(弘安2年) | 9月 | 58 | 熱原法難(加島法難)。農民3人が処刑された。 |
1280年(弘安3年) | 59 | 『諫暁八幡抄』を著す。念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊の四箇格言を記す。ただしこれが初出ではなく折に触れて同様のことを主張してきた。 | |
1281年(弘安4年) | 6月 | 60 | (元寇。弘安の役) |
11月 | 波木井実長の寄進で身延山に伽藍を建てた。久遠寺の開創。 | ||
1282年(弘安5年) | 秋 | 61 | 病を得る。常陸の湯治のため身延山を離れる。 |
9月19日 | 池上宗仲の館に入る。病状が重くなり滞在することとなる。 | ||
10月 | 六老僧を指名。 | ||
10月13日 | 池上で死去。現在の池上本門寺・本行寺。 |
- 1922年(大正11年):「立正大師」号宣下。