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武蔵国分寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
武蔵国分寺
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'''武蔵国分寺'''は、武蔵国多摩郡にあった古代[[国分寺]]の一つで、敷地・伽藍とも全国でも最大の規模を誇った。跡地は、東京都国分寺市西元町にある寺院跡に確定している。域内に[[現・武蔵国分寺|現存寺]]もある。 武蔵国府跡にある武蔵[[総社]][[大国魂神社]]から北北西2.8kmのところに位置する。国府と東山道を結ぶ古代官道沿いにある。昭和31年(1956)からの発掘調査で確認されている寺域は1.5km四方。金堂、講堂、鐘楼、経蔵、僧坊を中門から伸びる築地が囲む遺構が発見されてい る。金堂は幅約36m、奥行約17m、講堂は幅29m、奥行17mと諸国国分寺の中で最大の規模であった。講堂はのち金堂と同じ規模で再建された。金堂か ら200m離れた東南には10m四方の二つの塔跡が見つかり、東側のものは礎石も現存する。高さ60mの七重塔があったと推定されているが、二つの塔跡の 関係は不詳。[[武蔵国分尼寺]]の跡地は、官道跡と現府中街道を挟んで南西440mにある。 調査結果によれば、8世紀末までに主要な建物が完成し、10世紀中頃から衰退したという。続日本紀に承和2年(835)には落雷で七重塔が焼失したことと10年後に再建許可の記事がみえる。治安3年(1023)に修造したという。現存寺の由緒によれば、南北朝時代に分倍河原の戦いで焼失したという。金堂跡から北200mにある現存寺の薬師堂に祀られている薬師如来像は、古代国分寺に祀られていたもので、兵火の際に独りでに飛び出し被災を免れたという。 == 参考文献 == *国分寺を歩く *武蔵国分寺跡資料館資料 [[category:東京都]]
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