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毘沙門堂
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
毘沙門堂
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[[file:Kokudo0219.jpg|thumb|300px|毘沙門堂門跡(国土地理院空中写真より)]] '''毘沙門堂'''(びしゃもんどう)は、京都府京都市山科区安朱稲荷山町(山城国宇治郡)にある、[[毘沙門信仰]]の[[天台宗]][[門跡寺院]]。本尊は毘沙門天。[[天台宗延暦寺派]][[天台宗の本山寺院|門跡寺]]。護法寺、尊重寺、平等寺を合併して成立したという。江戸時代に[[天海]]、公海が[[輪王寺宮]]([[寛永寺]]・[[日光輪王寺]])の拠点として復興。'''毘沙門堂門跡'''。'''山科御殿'''。'''出雲寺'''。'''安国院'''。山号は護法山。 == 歴史 == [[file:Kokudo0220.jpg|thumb|300px|双林院と輪王寺宮毘沙門堂墓地(国土地理院空中写真より)]] 『宇治郡名勝誌』では、703年(大宝3年)4月21日に[[文武天皇]]の勅願で[[京都]]出雲路(現在の[[上御霊神社]]から[[相国寺]]一帯)に創建されたというが、鎌倉時代初期に[[平氏]]ゆかりの3寺を統合して成立したとみられる。また[[出雲寺]]という名称の古代寺院([[上御霊神社]]の[[神宮寺]])が出雲路の地にあったことが知られ、現在も出雲路山の山号を称する[[毫摂寺]](福井県越前市、[[真宗出雲路派]]本山)も出雲路の地にあった([[京都・毫摂寺]])。何らかの関係があったとみられるがはっきりしない。 ===前身寺院の起源=== *平安時代初期:[[葛原親王]]が[[太秦・平等寺]]を創建。[[広隆寺]]の西にあった。のち焼失した。(平親範置文) *平安時代初期:平親信、五辻に[[尊重寺]]が創建。廃絶して本尊のみが大原に移転した。(平親範置文) *平安時代:平範家、[[伏見・護法寺]]を創建。[[大日如来]]・[[釈迦如来]]・[[薬師如来]]の丈六仏3体があった。阿弥陀堂と毘沙門堂もあった。(平親範置文) *1161年(応保1年):護法寺、平治の乱で焼けたとみられ、本尊を北岩倉に移転。(平親範置文) *1162年(応保2年):護法寺、堂宇を建てた。(平親範置文) *1163年(長寛1年):護法寺は[[寺門派]]であったため、山門衆徒に焼かれた。(平親範置文) *1165年(永万1年):残った護法寺の多聞天像を大原[[来迎院]]近くに移し、後年、堂宇を建てて祀った。(平親範置文) *1195年(建久6年):護法寺、出雲路に移転した。(平親範置文) ===桜の名所として=== *1214年(建保2年)頃:平親範(円智)が平等寺・尊重寺・護法寺の3寺を統合。出雲路に五間の一宇を建てて3寺の本尊を祀り、西を平等寺、東を尊重寺、中を護法寺に擬した。(平親範置文) *1233年(天福1年)2月21日:『明月記』に「毘沙門堂花半開云々」とあり、桜の名所だった。謡曲『西行桜』にも「毘沙門堂の花盛り」と謳われた。 *1339年(延元4年/暦応2年)11月6日:毘沙門堂付近が焼失(師守記)。のち廃絶したらしい。 ===日光門跡の出張所として再興=== *1611年(慶長16年):[[後陽成天皇]]が[[天海]]に復興を命じる。 *1665年(寛文5年):天海の弟子の公海が[[輪王寺宮]]([[日光門跡]]、[[寛永寺]])の京都での拠点として現在地に復興(輪王寺宮年譜)。 *1682年(天和2年):公弁法親王が入り、門跡寺院に加えられた。 *1686年(貞享3年):[[後西天皇]]の旧殿を宸殿として移築。 寺領1070石。 == 伽藍 == *本堂 *霊殿:阿弥陀如来を本尊。歴代門主の位牌を祀る。1563年(永禄6年)京都御所から移築。 *宸殿:後西天皇の旧殿を1686年(貞享3年)移築。 *庫裏 *観音堂 *高台弁財天 *[[輪王寺宮毘沙門堂墓地]] <gallery widths="300" heights="300" perrow="3"> file:毘沙門堂門跡・参道01.jpeg| file:毘沙門堂門跡・参道02.jpeg| file:毘沙門堂門跡・参道03.jpeg| file:毘沙門堂門跡・参道04.jpeg| file:毘沙門堂門跡・本堂01.jpeg| file:毘沙門堂門跡・本堂02.jpeg| file:毘沙門堂門跡・本堂03.jpeg| file:毘沙門堂門跡・本堂04.jpeg| file:毘沙門堂門跡・本堂05.jpeg| file:毘沙門堂門跡・本堂06.jpeg| file:毘沙門堂門跡・本堂07.jpeg| file:毘沙門堂門跡・本堂08.jpeg| file:毘沙門堂門跡・本堂09.jpeg| file:毘沙門堂門跡・本堂10.jpeg| file:毘沙門堂門跡・本堂11.jpeg| file:毘沙門堂門跡・本堂12.jpeg| file:毘沙門堂門跡・本堂13.jpeg| file:毘沙門堂門跡・霊殿01.jpeg| file:毘沙門堂門跡・霊殿02.jpeg| file:毘沙門堂門跡・霊殿03.jpeg| file:毘沙門堂門跡・宸殿01.jpeg| file:毘沙門堂門跡・宸殿02.jpeg| file:毘沙門堂門跡・宸殿03.jpeg| ファイル:毘沙門堂門跡・玄関・扁額.jpeg| file:毘沙門堂門跡・その他01.jpeg| file:毘沙門堂門跡・その他02.jpeg| file:毘沙門堂門跡・その他03.jpeg| file:毘沙門堂門跡・その他04.jpeg| file:毘沙門堂門跡・鎮守01.jpeg| file:毘沙門堂門跡・鎮守02.jpeg| file:毘沙門堂門跡・鎮守03.jpeg| file:毘沙門堂門跡・鎮守04.jpeg| file:毘沙門堂門跡・鎮守05.jpeg| </gallery> ==子院== *[[養源院]]:毘沙門堂の脇門跡とされた(国史大辞典)。 *双林院: *龍華院: *妙光院: *江戸宿所:江戸時代初期、[[寛永寺]]のそばにあった。 ==組織== ===住職=== *公尊まで『日本仏家人名辞書』。「公海」~「玄航」は『望月仏教大辞典』。 *現在は毘沙門堂の住職を門主と称す。現在の任期は7年間。 *世数は要検討。資料によって人名が異なる。 *日本天台宗年表[https://dl.ndl.go.jp/pid/1257096/1/205]に今出川行全~杉谷義良、能久親王御遺蹟建碑志[https://dl.ndl.go.jp/pid/1688076/1/81]に今出川行全~渋谷慈鎧。 *中世は[[三条家]]とのつながりが強かった。近世には[[輪王寺宮]]の京都での拠点となった。 {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|世数 !style="width:10%;"|名前 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:40%;"|略歴 |- |1? |明禅 |1167-1242 | |1167年(仁安2年)生。葉室成頼の子。林泉坊にいた。天台密教毘沙門堂流の祖の智海の弟子。顕真に学ぶ。あるいは明禅が毘沙門堂流の祖ともいう。毘沙門堂初代別当仙雲に師事。晩年は[[浄土教]]に帰依し、[[法然]]門下の[[信空]]の弟子になったともいう。1242年(仁治3年)5月2日死去。76歳。萩焼法印、中納言法印、毘沙門堂法印と呼ばれた。(華頂要略諸門跡伝)(高橋秀栄「毘沙門堂流の学匠たち」[https://doi.org/10.4259/ibk.33.422]、「毘沙門堂と明禅」) |- | |顕瑜 |生没年不詳 | |林泉坊にいた。明禅の弟子。早世。 |- | |経海 |1207-1278 | |妙観院と号す。妙観院は毘沙門堂の山上の拠点で西塔東谷にあった。横川竹林寺探題。1266年(文永3年)3月6日権僧正。(華頂要略諸門跡伝) |- | |公豪 |1196-? | |天台座主。大僧正。左大臣三条実房の子。明禅の弟子。1248年(宝治2年)3月4日、権僧正。1278年(弘安1年)4月2日、天台座主。同年または1282年(弘安5年)座主を辞任。毘沙門堂法印、林泉坊と号す。(華頂要略諸門跡伝) |- | |実禅 |生没年不詳 | |法務。権僧正。内大臣三条公親の三男。(華頂要略諸門跡伝) |- | |実超 |生没年不詳 | |大僧正。内大臣三条公親の十四男。(華頂要略諸門跡伝) |- | |実尊 |生没年不詳 | |大僧正。内大臣三条公茂の三男。法務。実超の弟子。1332年(正慶1年)6月9日、法印権大僧都。24日権僧正・法務。(華頂要略諸門跡伝) |- | |実救 |生没年不詳 | |内大臣三条公茂の六男。法眼。実尊の弟子。(華頂要略諸門跡伝) |- | |実円 |生没年不詳 | |大僧正。公忠の子。林泉坊と号す。権僧正。実尊の弟子。1413年(応永20年)11月16日、天台座主。しかし拝堂に及ばず、大衆訴訟により追放される。1416年(応永23年)9月20日大講堂供養に出仕。(華頂要略諸門跡伝) |- | |実修 |生没年不詳 | |権中納言藤原伊実の子。太政大臣藤原伊通の孫。法印。年代が合わないか。(華頂要略諸門跡伝) |- | |公承 |1406-1485 | |三条実冬の子。天台座主。法務。1406年(応永13年)生。1440年(永享12年)3月4日、北野一切経会勤仕。1447年(文安4年)1月27日天台座主。1448年(文安5年)9月21日拝堂。1485年(文明17年)11月28日死去。80歳。(華頂要略諸門跡伝) |- | |明円 |生没年不詳 | |大僧正。内大臣正親町三条実継の子。公忠の子とも。(華頂要略諸門跡伝) |- | |忠承 |生没年不詳 | |[[九条家]]出身。関白内大臣九条政忠の子。1481年(文明13年)公承の室に入る[https://dl.ndl.go.jp/pid/1125869/1/245]。1506年(永正3年)9月23日、清涼殿で後土御門院七回忌の伴僧を勤仕。1528年(享禄1年)4月6日、清涼殿で後柏原院三回忌の導師。(華頂要略諸門跡伝) |- | |公意 |生没年不詳 | | |- | |覚真 |生没年不詳 | | |- | |観経 |生没年不詳 | | |- | |行然 |生没年不詳 | | |- | |仙雲 |生没年不詳 | | |- | |成尊 |生没年不詳 | | |- | |仙尊 |生没年不詳 | | |- | |遍豪 |生没年不詳 | | |- | |公厳 |生没年不詳 | |内大臣中院通為(1517-1565)の子。権僧正。還俗。以後、寺号のみが存続したという。(華頂要略諸門跡伝) |- | |[[天海]] |1536-1643 | |中興 |- | |公海 |1607-1695 | |花山院忠長の子。[[寛永寺]]2世。久遠寿院と号す。 |- | |守澄法親王 |1634-1680 | |[[輪王寺宮]]3代。『日本仏家人名辞書』になし。 |- | |天真法親王 |1664-1690 | |輪王寺宮。『日本仏家人名辞書』になし。 |- | |公弁法親王 |1669-1716 | |輪王寺宮。 |- | |童形 | | |『望月仏教大辞典』になし。 |- | |公尊法親王 | | |『望月仏教大辞典』になし |- | |公寛法親王 |1697-1738 | |輪王寺宮。 |- | |公遵法親王 |1722-1788 | |輪王寺宮。 |- | |公啓法親王 |1732-1772 | |輪王寺宮。 |- | |公顕法親王 |1760-1776 | |輪王寺宮。公璋(公顕)法親王 |- | |公延法親王 |1762-1803 | |輪王寺宮。 |- | |公澄法親王 |1776-1828 | |輪王寺宮。 |- | |舜仁法親王 |1789-1843 | |輪王寺宮。舜仁(公猷)法親王 |- | |公紹法親王 |1815-1846 | |輪王寺宮。公詔 |- | |慈性法親王 |1813-1867 | |輪王寺宮。 |- | |公現法親王 |1847-1895 | |輪王寺宮。[[能久親王]]。 |- | |今出川行全 | | |今出川尚季の猶子。分部家の典医の子。 |- | |赤松光映 |1819-1895 | |天台座主233世。公英。竹林坊曇覚。[[輪王寺]]執当。寛永寺等覚院住職。 |- | |中山玄航 |1828-1917 |1894-1917 |天台座主238世。自坊は[[延暦寺正覚院]]。播磨国多加野村出身。1828年(文政11年)生。9月で比叡山に登り、覚林坊扁典に師事。1837年(天保8年)得度。1859年(安政6年)5月、中山忠能の猶子となる。同年宮中御懺法講に参勤。1883年(明治16年)天台宗管長代理として上京し、宗務の課題の処理に当たる。天台宗宗制の立案に貢献する。1894年(明治27年)毘沙門堂門跡。1895年(明治28年)5月3日、内務省訓令第5号で天台宗事務取扱となる(1896年(明治29年)6月24日まで)。1899年(明治32年)1月、天台座主。翌年辞職か。1901年(明治34年)毘沙門堂に戻る。1917年(大正6年)3月29日死去。91歳。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1544018/1/131] |- | |稗貫亮算 |1852?-1925 |1917- |[[金峰山寺]]住職。[[廬山寺]]住職。[[浄蓮華院]]住職。[[京都方広寺]]住職。1915年(大正4年)4月から1917年(大正6年)8月1日まで金峰山寺住職。1917年(大正6年)8月、毘沙門堂門跡[https://dl.ndl.go.jp/pid/9537075/1/102]。1925年(大正14年)死去。 |- | |奥田公昭 |1870-1933 |1925- |長野市出身。1870年(明治3年)生。1883年(明治16年)得度。1911年(明治44年)比叡山円龍院住職。[[般舟院]]住職、[[越後国分寺]]住職、[[真正極楽寺]]住職など歴任。1923年(大正12年)僧正。[[妙法院]]執事長。1925年(大正14年)毘沙門堂門跡。1933年(昭和8年)死去。[https://dl.ndl.go.jp/pid/7942061/1/10][https://dl.ndl.go.jp/pid/943746/1/84] |- | |菊岡義哀 |1865-1936 |1929-1936 |自坊は仏乗院。福井県出身。1865年(慶応1年)生。生家は浅井家。滋賀県の菊岡家を継ぐ。比叡山大学林卒。1894年(明治27年)1月、延暦寺千光院住職。のち仏乗院に転じる。1916年(大正5年)5月、天台宗西部大学長兼中学長。1919年(大正8年)1月、[[滋賀院門跡]]。1923年(大正12年)5月、[[延暦寺]]執行。1927年(昭和2年)9月宗機顧問。1928年(昭和3年)4月、大僧正。同年9月、探題。1929年(昭和4年)2月、毘沙門堂門跡。比叡山大学長。1936年(昭和11年)2月18日死去。揚台光院と号す。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1071805/1/221][https://dl.ndl.go.jp/pid/2998145/1/141][https://dl.ndl.go.jp/pid/2998145/1/217](1937年(昭和12年)5月9日、水尾寂暁が毘沙門堂門跡に当選するが辞退[https://dl.ndl.go.jp/pid/9537075/1/122][https://dl.ndl.go.jp/pid/3018585/1/182]。) |- | |太田深澄 |1871-1953 |不詳 |岐阜県出身。1871年(明治4年)生。天台宗大学卒。11歳で[[宗休寺]]で修行。1906年(明治39年)[[犬上・西明寺|西明寺]]住職。天台宗務庁で総務、庶務部長、精査局長、専修院理事長、延暦寺安詳院住職など歴任。1946年(昭和21年)3月26日、[[青蓮院門跡]][https://dl.ndl.go.jp/pid/9537075/1/132]。1953年(昭和28年)3月24日死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/9537075/1/139]。82歳。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1071805/1/211][https://dl.ndl.go.jp/pid/1186291/1/257][https://dl.ndl.go.jp/pid/1029253/1/479] |- | |杉谷義良 |1870-1946 |1936-1939 |自坊は[[寛永寺円珠院]]。福井県南条郡出身。杉谷又助の次男。1870年(明治3年)生。1883年(明治16年)[[妙永寺]]三浦義千に師事。比叡山一号中学林に入学。[[桑実寺]]大多喜守英のもとで四度加行。大多喜守英に従い、寛永寺円珠院に移る。上野の天台宗大学林支校に入る。1891年(明治24年)3月、円珠院住職。1926年(昭和1年)3月から1934年(昭和9年)7月まで[[谷中天王寺]]住職[https://dl.ndl.go.jp/pid/2981759/1/402][https://dl.ndl.go.jp/pid/2981759/1/403]。寛永寺執事長。1936年(昭和11年)11月14日[https://dl.ndl.go.jp/pid/1257096/1/201]から1939年(昭和14年)6月8日まで毘沙門堂門跡[https://dl.ndl.go.jp/pid/9537075/1/125]。1946年(昭和21年)7月28日死去。77歳。慈昭心院と号す。[https://dl.ndl.go.jp/pid/2998145/1/159] |- | |渋谷慈鎧 |1876-1947 |1939-1941 |天台座主249世。1939年(昭和14年)8月1日毘沙門堂門跡。(略歴は[[延暦寺#組織]]を参照) |- | |中山玄秀 |1879-1959 |1941- |天台座主250世。自坊は比叡山真乗院。1879年(明治12年)生。1941年(昭和16年)6月28日、毘沙門堂門跡[https://dl.ndl.go.jp/pid/9537075/1/127]。1959年(昭和34年)11月9日死去。80歳。 |- | |山中忍海 |1888-1979 |1958- |宗務総長。1888年(明治21年)生。1912年(大正1年)早稲田大学哲学科卒。[[聖衆来迎寺]]住職。1958年(昭和33年)4月28日、毘沙門堂門跡門主。1979年(昭和54年)2月6日死去。[https://dl.ndl.go.jp/pid/9569754/1/347][https://dl.ndl.go.jp/pid/3044854/1/1231] |- | |梅山円了 |1903-1997 |1978-1991 |天台座主254世。1978年(昭和53年)から1991年(平成3年)まで毘沙門堂門跡門主。 |- | |誉田玄昭 |1915-1999 |1993-1999 |探題。延暦寺執行。自坊は[[延暦寺法曼院]]。天台声明の権威。兵庫県出身。1915年(大正4年)生。比叡山専修院([[叡山学院]]専修科)卒。延暦寺一山会議議長。叡山学院教授。大津市議会議員。1966年(昭和41年)から翌年まで市議会議長。比叡山中高校長、幼稚園長。1990年(平成2年)頃、延暦寺執行、在職。勧学。毘沙門堂門跡門主。1993年(平成5年)10月30日晋山式[https://dl.ndl.go.jp/pid/4414192/1/54]。1997年(平成9年)探題。1999年(平成11年)12月11日死去。84歳。 |- | |森川宏映 |1925-2021 |1999-2006 |天台座主256世。1999年(平成11年)11月19日から2006年(平成18年)11月19日まで毘沙門堂門跡門主。2015年(平成27年)12月14日天台座主・延暦寺住職に就任。(略歴は[[延暦寺#組織]]を参照) |- |61? |叡南覚範 |1926-2023 |2006-2020 |東京都日野市出身。1926年生。叡南祖賢に師事。1949年、比叡山専門学院卒業。1950年、延暦寺玉蓮院住職。延暦寺財務部長、法務部長、参拝部長、教化部長、管理部長を歴任。また叡山学院院長、叡山文庫長、宗議会議員、「一隅を照らす運動」会長、世界連邦日本仏教徒協議会会長など歴任。1988年、延暦寺執行。1992年、延暦寺建立院住職。1996年戸津説法。2014年探題。2006年から2020年まで毘沙門堂門跡。2023年7月26日死去。96歳。 |- |62? |今出川行雲 |1936- |2020-2027予定 |自坊は延暦寺大林院。滋賀県大津市出身。1937年(昭和12年)生。1960年(昭和35年)立命館大学文学部卒。1962年(昭和37年)叡山学院研究科卒。同年大林院住職。1983年(昭和58年)宗議会議員。1988年(昭和63年)延暦寺副執行・教化部長。2005年(平成17年)延暦寺執行。2008年(平成20年)比叡山居士林所長、延暦寺大霊園園長。2016年(平成28年)戸津説法。2020年(令和2年)11月19日、毘沙門堂門跡門主。 |} ==資料== *『華頂要略』「諸門跡伝」[http://www.archives.kyoto.jp/websearchpe/mediaDetail?cls=152_old_books_catalog&pkey=0000000402&lCls=150_media_old_books&lPkey=0000108694] *能久親王御遺蹟建碑志[https://dl.ndl.go.jp/pid/1688076/1/81] *日本天台宗年表[https://dl.ndl.go.jp/pid/1257096/1/204] *『地下家伝』[https://dl.ndl.go.jp/pid/1913021/1/58] [[category:京都府]]
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