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毫摂寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
毫摂寺
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'''毫摂寺'''(ごうしょうじ)は、福井県越前市にある[[浄土真宗]]の[[浄土真宗の本山寺院|本山寺院]]。[[大町門徒]](三門徒)系統の[[真宗出雲路派]]の本山で、越前四本山([[証誠寺]]・[[毫摂寺]]・[[誠照寺]]・[[専照寺]])の一つ。[[京都・毫摂寺]]の後身であるとともに、[[証誠寺]]から分裂した寺院とも言える。江戸時代は[[天台宗]][[青蓮院門跡]]の[[院家]]だった。越前国今立郡。'''五分市本山'''。(参考:同名寺院[[毫摂寺_(同名)]]) == 歴史 == ===起源=== 毫摂寺の成立と変遷にははっきりしない点が多い。矛盾した記述も少なくない。 天福元年(1233)に親鸞が京都出雲路に設けた庵が起源とされる。 実質的には乗専が師の覚如の号の「毫摂」を与えられ、創建したのが[[京都・毫摂寺]]の起源。丹後に建てた同名寺院([[丹後・毫摂寺]])を京都に移したともいう。 ===越前移転=== 南北朝の戦乱(応仁の乱とも)を避けて末寺の横越[[証誠寺]]を頼りに善幸が越前に移った。 暦応3年(1340、興国元)、山本荘に移った。 永正15年(1518)後柏原天皇勅願所となり、仁和寺末となる。 天正3年、一向一揆に焼かれたので再び横越に戻ったともいう。 天正17年(1589)、[[後陽成天皇]]の勅願所となる。 同時に[[青蓮院門跡]]の[[院家]]となる(元禄年間とも)。 ===証誠寺との分裂=== 慶長元年(1596)、多数末寺を連れて横越を離れ、五分市に移った(慶長8年頃ともいう)。証誠寺はほとんどの末寺を奪われたといい、 たびたび対立して抗争した。 歴代は花山院家や一条家の猶子となった。 寛永5年(1628)、落雷で焼失。安永3年(1774)、火災で焼失。天明6年(1786)再建。 ===近代=== 明治10年(1877)5月、失火で焼失。 明治5年9月、真宗本願寺派に属すが、明治11年2月、独立して真宗出雲路派を立てた。 明治17年8月再建。 (国史大辞典、日本歴史地名大系、世界大百科事典、日本仏教基礎講座) ==伽藍== *阿弥陀堂:本尊は阿弥陀如来。明治17年再建。自作の聖徳太子像や七高僧を祀る。 *御影堂:本尊は親鸞。明治17年再建。歴代御影も祀る。 *経蔵 塔頭として教証寺、光闡寺、応信寺がある。 ==組織== == 組織 == === 歴代住職 === {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|歴代 !style="width:10%;"|法諱 !style="width:10%;"|院号 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:40%;"|備考 |- | |乗専 | |1285-1357 | |[[和気氏]]。丹波国天田郡六人部出身。俗名は高橋盛永とも。毫摂寺の実質的な開山だが、歴代に数えられていない。[[覚如]]の弟子。元は禅僧で清範と称したという。丹波にも[[丹波・毫摂寺|毫摂寺]]を創建。大和国吉野郡で檜川御坊[[吉野・円光寺|円光寺]]・浄源寺・西方寺を、但馬国出石郡で乗専寺を創建。吉野郡平尾で死去。平尾徳善寺に墓。著作に覚如の伝記『最須敬重絵詞』がある。 |- |1 |[[親鸞]] | |1173-1262 | |浄土真宗の宗祖。 |- |2 |[[善鸞]] | |生没年不詳 | |親鸞の子。[[本願寺]]の伝承では異端を唱え、親鸞から義絶されたといわれる。 |- |3 |善入 | |1257-1320 | |[[覚如]]の子。正嘉元年(1257)生。元応2年(1320)9月10日死去。伝記不詳。『反故裏書』に記載。『大谷本願寺通紀』によると覚如の末子の菊寿丸(善性)が乗専の法嗣となったというが生没年が異なる。(真宗人名辞典) |- |4 |善智 | |1285-1336 | |善入の子。弘安8年(1285)生。建武3年(延元元、1336)4月15日死去。伝記不詳。『反故裏書』ではこの時代に京都退転したという。善幸と混同されることが多い。(真宗人名辞典) |- |5 |善幸 | |1310-1361 | |善智の子。延慶3年(1310)生。康安元年(正平16、1361)8月17日死去。この時代に京都から越前横越に移ったともいう。子の善秀は京都に残ったという。(真宗人名辞典) |- |6 |善岌 | |1318-1396 | |善幸の子。文保2年(1318)生。応永3年(1396)6月25日死去。伝記不詳。(真宗人名辞典) |- |7 |善教 | |1362-1428 | |善岌の子。生年は1362年説と1363年説がある。正長元年(1428)10月4日死去。伝記不詳。(真宗人名辞典) |- |8 |'''善鎮''' | |1389-1465 | |康応元年(元中6、1389)生。寛正6年(1465)2月17日死去。五分市豪摂寺の伝では善教の子。しかし「小浜豪摂寺系図」では善幸の子の善秀の子とする。『反故裏書』では1472年、本願寺[[蓮如]]に帰参して正闡坊と号す。実如の妻の如祐尼の妹と結婚。1519年、一家衆となった。不明な点が多い。晩年、[[陽願寺]]を創建したとも。(真宗人名辞典ほか) |- |9 |善覚 | |1415-1492 | |善鎮の子。生年は1415年説と1425年説がある。伝記不詳。延徳4年(1492)3月18日死去。(真宗人名辞典) |- |10 |善光 | |1454-1527 | |善覚の子。大永7年(1527)2月1日死去。1518年、権僧正。1521年、後柏原天皇勅願所。この時代に味真野に移転したという。(真宗人名辞典) |- |11 |善秀 | |1499-1586 | |善光の子。1570年、山本荘の堂宇が兵火で焼失。横越に間借り。天正年間、豊臣秀吉から清水頭の土地を与えられた。1586年、柳原大納言の子を養子に迎えた。7月1日死去。(真宗人名辞典) |- |12 |善照 | |1574-1650 | |柳原家出身。1586年花山院家の猶子となり、法嗣として入寺。翌年、法印。1589年後陽成天皇勅願所になるも同時に青蓮院門跡の院家となる。1596年横越から再び別立して清水頭に移転。[[証誠寺]]の伝では10世善寿の娘の伊与姫と結婚し、一時、証誠寺の法統を継いだともいう。慶安3年(1650)6月12日死去。(真宗人名辞典) |- |13 |善舜 | |1590-1640 | |善照の子。寛永17年(1640)12月22日死去。伝記不詳。(真宗人名辞典) |- |14 |善誉 | |1610-1647 | |善舜の子。正保4年(1647)7月12日死去。伝記不詳。(真宗人名辞典) |- |15 |善休 | |1628-1703 |?-1669 |善誉の子。元禄16年(1703)6月10日死去。1661年院家となる?。伝記不詳。(真宗人名辞典) |- |16 |善冏 |無量寿院 |1653-1723 |1669-1713 |善休の子。1669年、就任して権律師となる。1677年、権少僧都。1693年法眼権大僧都。同年、青蓮院宮から紫衣着用を許された。1710年、花山院家の猶子。1713年退任して青蓮院宮から無量寿院の号を与えられた。享保8年(1723)8月5日死去。「善聞」は誤りか。(真宗人名辞典) |- |17 |善准 |智慧光院 |1693-1744 |1713-1744 |初名は光宅。[[東本願寺]]14世の琢如の孫(越前人物志)。演慈院琢玄の子。[[東本願寺福井別院]]本瑞寺の僧侶だった。養子として入寺。花山院持実の猶子。1713年就任。同年、大僧都、紫衣着用免許。1732年、興正寺寂永の子を付弟とした。延享元年(1744)7月27日死去。しかし故あって7月9日死去としたという。(真宗人名辞典、越前人物志) |- |18 |善栄 |金剛寿院 |1719-1793 |1744-1793 |諱は光照。[[京都・興正寺]]寂永の子。花山院常雅の猶子。幼名は頼丸。1732年、善准の付弟となる。1734年越前に下る。1744年就任。翌年大僧都、紫衣・三緒袈裟許可。親鸞500遠忌を執行。1763年権僧正。寛政5年(1793)11月21日死去。(真宗人名辞典) |- |19 |善祐 |徳寿院 |1740-1817 |1793-? |諱は光聴。善栄の子。1776年、花山院常雅の猶子となり大僧都。青蓮院宮から紫衣・三緒袈裟許可。院家となる。1793年継承。1799年退任。文化14年(1817)11月8日死去。(真宗人名辞典) |- |20 |善雲 |東福院 |1771-1841 |?-1841 |諱は光沢、光宅。善祐の子。子の男子3人が夭折したため、嫁いでいた三女の三保子を呼び戻しその夫を後継とした。天保12年(1841)4月3日死去。(真宗人名辞典) |- |21 |善静 | |1797-1861 |1841-1861 |諱は光宴。福井藩家老本多家の出身。[[仏光寺昌蔵院]]広智の養子となり、後を継ぐ。豪摂寺善雲の三女三保子と結婚するが、三保子が呼び戻されるのにともない、1833年豪摂寺に移る。同年、青蓮院宮から善静の名を与えられた。花山院愛徳の猶子。 1841年継承。1861年退任。文久元年(1861)9月10日死去。(真宗人名辞典) |- |22 |藤善慶(光暁) |智慧光院 |1839-1916 |1861-1871 |善静の子。一条忠香の猶子。1851年得度。1861年継承。1871年退任。(真宗人名辞典) |- |23 |藤善聴(光照) |巍徳院 |1864-1920 |1871-1920 |善慶の長男。1871年得度継承。教導職試補となり、権中教正までのぼる。1878独立して初代管長。1900年、大谷派合同事件が起こり首謀者を処分した。大正9年1月10日死去。(真宗人名辞典) |- |24 |藤光曜(善解) |大慈悲院 |1895-1982 |1920-? |善聴の子。東洋大学東洋哲学科卒業。1920年継承。昭和57年7月27日死去。(真宗人名辞典) |- |25 |藤光永 | |1931-2015 |?-2015 |昭和6年(1931)1月3日生。平成27年7月20日死去。(真宗人名辞典ほか) |- |26 |藤光真 | | |2015- |京都外国語大学卒業。龍谷大学大学院修了。 |} (『真宗人名辞典』ほか) [[Category:福井県]]
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