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毫摂寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年9月14日 (水)
毫摂寺(ごうしょうじ)は、福井県越前市清水頭町にある浄土真宗の本山寺院。大町門徒(三門徒)系統の真宗出雲路派の本山で、越前四本山(証誠寺・毫摂寺・誠照寺・専照寺)の一つ。京都・毫摂寺の後身であるとともに、証誠寺から分裂した寺院とも言える。江戸時代は天台宗青蓮院門跡の院家だった。越前国今立郡。五分市本山。(参考:同名寺院毫摂寺_(同名))
目次 |
歴史
起源
毫摂寺の成立と変遷にははっきりしない点が多い。矛盾した記述も少なくない。1233年(天福1年)親鸞が京都出雲路に設けた庵が起源とされる。 実質的には乗専が師の覚如の号の「毫摂」を与えられ、創建したのが京都・毫摂寺の起源。丹後に建てた同名寺院(丹後・毫摂寺)を京都に移したともいう。
越前移転
- 南北朝の戦乱(応仁の乱とも)を避けて末寺の横越証誠寺を頼りに善幸が越前に移った。
- 1340年(興国1年/暦応3年):山本荘に移った。
- 1518年(永正15年)::後柏原天皇勅願所となり、仁和寺末となる。
- 1575年(天正3年):一向一揆に焼かれたので再び横越に戻ったともいう。
- 1589年(天正17年)::後陽成天皇の勅願所となる。同時に青蓮院門跡の院家となる(元禄年間とも)。
証誠寺との分裂
- 1596年(慶長1年):多数の末寺を連れて横越を離れ、五分市に移った(1603年(慶長8年)頃ともいう)。証誠寺はほとんどの末寺を奪われたといい、たびたび対立して抗争した。江戸時代、歴代は花山院家や一条家の猶子となった。
- 1628年(寛永5年):落雷で焼失。
- 1774年(安永3年):火災で焼失。
- 1786年(天明6年):再建。
近代
- 1872年(明治5年)9月:真宗本願寺派に属す。
- 1877年(明治10年)5月:失火で阿弥陀堂と御影堂を焼失。
- 1878年(明治11年)2月:独立して真宗出雲路派を立てた。
- 1884年(明治17年)8月:阿弥陀堂と御影堂を再建。
(国史大辞典、日本歴史地名大系、世界大百科事典、日本仏教基礎講座)
伽藍
- 阿弥陀堂:本尊は阿弥陀如来。親鸞作とも泰澄作ともいう(大谷本願寺通紀)。1884年(明治17年)再建。自作の聖徳太子像や七高僧を祀る。仏殿とも。現在の境内案内図では「本堂」とも呼ばれている。
- 御影堂:本尊は親鸞。1884年(明治17年)再建。歴代御影も祀る。祖殿とも。
- 御廟:寂永墓もある。寂永は興正寺22世で毫摂寺18世善栄の父。
- 経蔵:
- 忠烈のえ顕彰碑:1808年(文化5年)11月17日、境内で雪遊びをしていた門主の娘2人にイノシシが襲来。世話係の乳母のえ(のゑ)が身を挺して瀕死の重傷を負いながらも守った。1934年(昭和9年)に顕彰碑を建立。1989年(平成1年)に現在の顕彰碑を復元。(境内由緒書)
- 納骨堂:不詳(大谷本願寺通紀)
子院
『大谷本願寺通紀』に「三役寺」とある。
- 教証寺:
- 光闡寺:
- 応信寺:
組織
歴代住職
歴代 | 法諱 | 院号 | 生没年 | 在職年 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
乗専 | 1285-1357 | 和気氏。丹波国天田郡六人部出身。俗名は高橋盛永とも。毫摂寺の実質的な開山だが、歴代に数えられていない。覚如の弟子。元は禅僧で清範と称したという。丹波にも毫摂寺を創建。大和国吉野郡で檜川御坊円光寺・浄源寺・西方寺を、但馬国出石郡で乗専寺を創建。吉野郡平尾で死去。平尾徳善寺に墓。著作に覚如の伝記『最須敬重絵詞』がある。 | |||
1 | 親鸞 | 1173-1262 | 浄土真宗の宗祖。 | ||
2 | 善鸞 | 生没年不詳 | 親鸞の子。本願寺の伝承では異端を唱え、親鸞から義絶されたといわれる。 | ||
3 | 善入 | 1257-1320 | 覚如の子。正嘉元年(1257)生。元応2年(1320)9月10日死去。伝記不詳。『反故裏書』に記載。『大谷本願寺通紀』によると覚如の末子の菊寿丸(善性)が乗専の法嗣となったというが生没年が異なる。(真宗人名辞典) | ||
4 | 善智 | 1285-1336 | 善入の子。弘安8年(1285)生。建武3年(延元元、1336)4月15日死去。伝記不詳。『反故裏書』ではこの時代に京都退転したという。善幸と混同されることが多い。(真宗人名辞典) | ||
5 | 善幸 | 1310-1361 | 善智の子。延慶3年(1310)生。康安元年(正平16、1361)8月17日死去。この時代に京都から越前横越に移ったともいう。子の善秀は京都に残ったという。(真宗人名辞典) | ||
6 | 善岌 | 1318-1396 | 善幸の子。文保2年(1318)生。応永3年(1396)6月25日死去。伝記不詳。(真宗人名辞典) | ||
7 | 善教 | 1362-1428 | 善岌の子。生年は1362年説と1363年説がある。正長元年(1428)10月4日死去。伝記不詳。(真宗人名辞典) | ||
8 | 善鎮 | 1389-1465 | 康応元年(元中6、1389)生。寛正6年(1465)2月17日死去。五分市豪摂寺の伝では善教の子。しかし「小浜豪摂寺系図」では善幸の子の善秀の子とする。『反故裏書』では1472年、本願寺蓮如に帰参して正闡坊と号す。実如の妻の如祐尼の妹と結婚。1519年、一家衆となった。不明な点が多い。晩年、陽願寺を創建したとも。(真宗人名辞典ほか) | ||
9 | 善覚 | 1415-1492 | 善鎮の子。生年は1415年説と1425年説がある。伝記不詳。延徳4年(1492)3月18日死去。(真宗人名辞典) | ||
10 | 善光 | 1454-1527 | 善覚の子。大永7年(1527)2月1日死去。1518年、権僧正。1521年、後柏原天皇勅願所。この時代に味真野に移転したという。(真宗人名辞典) | ||
11 | 善秀 | 1499-1586 | 善光の子。1570年、山本荘の堂宇が兵火で焼失。横越に間借り。天正年間、豊臣秀吉から清水頭の土地を与えられた。1586年、柳原淳光の子を養子に迎えた。7月1日死去。(真宗人名辞典) | ||
12 | 善照 | 1574-1650 | 柳原淳光の子。1586年花山院家の猶子となり、法嗣として入寺。翌年、法印。1589年後陽成天皇勅願所になるも同時に青蓮院門跡の院家となる。1596年横越から再び別立して清水頭に移転。証誠寺の伝では10世善寿の娘の伊与姫と結婚し、一時、証誠寺の法統を継いだともいう。慶安3年(1650)6月12日死去。(真宗人名辞典) | ||
13 | 善舜 | 1590-1640 | 善照の子。寛永17年(1640)12月22日死去。伝記不詳。(真宗人名辞典) | ||
14 | 善誉 | 1610-1647 | 善舜の子。正保4年(1647)7月12日死去。伝記不詳。(真宗人名辞典) | ||
15 | 善休 | 1628-1703 | ?-1669 | 善誉の子。元禄16年(1703)6月10日死去。1661年院家となる?。伝記不詳。(真宗人名辞典) | |
16 | 善冏 | 無量寿院 | 1653-1723 | 1669-1713 | 善休の子。1669年、就任して権律師となる。1677年、権少僧都。1693年法眼権大僧都。同年、青蓮院宮から紫衣着用を許された。1710年、花山院家の猶子。1713年退任して青蓮院宮から無量寿院の号を与えられた。享保8年(1723)8月5日死去。「善聞」は誤りか。(真宗人名辞典) |
17 | 善准 | 智慧光院 | 1693-1744 | 1713-1744 | 初名は光宅。東本願寺14世の琢如の孫(越前人物志)。演慈院琢玄の子。東本願寺福井別院本瑞寺の僧侶だった。養子として入寺。花山院持実の猶子。1713年就任。同年、大僧都、紫衣着用免許。1732年、興正寺寂永の子を付弟とした。延享元年(1744)7月27日死去。しかし故あって7月9日死去としたという。(真宗人名辞典、越前人物志) |
18 | 善栄 | 金剛寿院 | 1719-1793 | 1744-1793 | 諱は光照。京都・興正寺寂永の子。花山院常雅の猶子。幼名は頼丸。1732年、善准の付弟となる。1734年越前に下る。1744年就任。翌年大僧都、紫衣・三緒袈裟許可。親鸞500遠忌を執行。1763年権僧正。寛政5年(1793)11月21日死去。(真宗人名辞典) |
19 | 善祐 | 徳寿院 | 1740-1817 | 1793-? | 諱は光聴。善栄の子。1776年、花山院常雅の猶子となり大僧都。青蓮院宮から紫衣・三緒袈裟許可。院家となる。1793年継承。1799年退任。文化14年(1817)11月8日死去。(真宗人名辞典) |
20 | 善雲 | 東福院 | 1771-1841 | ?-1841 | 諱は光沢、光宅。善祐の子。子の男子3人が夭折したため、嫁いでいた三女の三保子を呼び戻しその夫を後継とした。天保12年(1841)4月3日死去。(真宗人名辞典) |
21 | 善静 | 1797-1861 | 1841-1861 | 諱は光宴。福井藩家老本多家の出身。仏光寺昌蔵院広智の養子となり、後を継ぐ。豪摂寺善雲の三女三保子と結婚するが、三保子が呼び戻されるのにともない、1833年豪摂寺に移る。同年、青蓮院宮から善静の名を与えられた。花山院愛徳の猶子。 1841年継承。1861年退任。文久元年(1861)9月10日死去。(真宗人名辞典) | |
22 | 藤善慶(光暁) | 智慧光院 | 1839-1916 | 1861-1871 | 善静の子。一条忠香の猶子。1851年得度。1861年継承。1871年退任。(真宗人名辞典) |
23 | 藤善聴(光照) | 巍徳院 | 1864-1920 | 1871-1920 | 善慶の長男。1871年得度継承。教導職試補となり、権中教正までのぼる。1878独立して初代管長。1900年、大谷派合同事件が起こり首謀者を処分した。大正9年1月10日死去。(真宗人名辞典) |
24 | 藤光曜(善解) | 大慈悲院 | 1895-1982 | 1920-? | 善聴の子。東洋大学東洋哲学科卒業。1920年継承。昭和57年7月27日死去。(真宗人名辞典) |
25 | 藤光永 | 1931-2015 | ?-2015 | 昭和6年(1931)1月3日生。平成27年7月20日死去。(真宗人名辞典ほか) | |
26 | 藤光真 | 2015- | 京都外国語大学卒業。龍谷大学大学院修了。 |
(『真宗人名辞典』ほか)