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陽願寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年10月21日 (月)
陽願寺(ようがんじ)は福井県越前市にある浄土真宗寺院。現在は浄土真宗本願寺派だが、真宗出雲路派本山毫摂寺8世の善鎮(1389-1465、真宗人名辞典)が晩年に創建したとされ、大町門徒と縁が深い。毫摂寺の号である出雲路に通じる出雲山を山号とする。のち西本願寺の院家寺院となる。府中御堂。蓮如の分骨を納めるとも。
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歴史
善鎮は戦乱を避けて毫摂寺を京都から越前に移転。 1472年(文明4年)、本願寺蓮如に帰参して正闡坊と号す。実如の妻の如祐尼の妹と結婚。 1483年(文明15年)陽願寺を創建した。 天正年間、善徳の時、現在地に移転。 1597年(慶長2年)、院家となる。南越の触頭となる。府中領主本多家の菩提寺格となる。 寛永年間、東本願寺末の陽願寺が福井に分寺される。
(日本歴史地名大系)
子院
- 隆照寺
- 唯信寺
- 乗覚寺
組織
歴代住職
- 『御堂陽願寺の名宝』をもとに追加
- 1:善鎮(?-1536)<1484-?>:毫摂寺6世。略歴には諸説ある。1482年(文明14年)蓮如に帰依。1484年(文明16年)隠居して岩崎に陽願寺を創建。1536年(天文5年)死去。室は高倉永継の娘で本願寺9世実如室の如祐尼の妹。正闡坊と号す。
- 2:善海(?-1590)<>:善鎮の孫。1590年(天正18年)死去。正闡坊と号す。
- 3:善徳(?-1622)<>:2代善海の子。1622年(元和8年)死去。
- 4:善浄(?-1647)<>:3代善徳の子。1647年(正保4年)死去。
- 5:善照(生没年不詳)<>:4代善浄の子。室は妙恵法尼。
- 6:良善(?-1678)<1647->:西本願寺12世准如の孫。1647年(正保4年)入寺。1678年(延宝6年)死去。
- 7:寂善(?-1693)<>:6世良善の子。1693年(元禄6年)死去。冷松院と号す。
- 8:寂応(?-1733)<>:西本願寺寂如の孫。1699年(元禄12年)入寺。1733年(享保18年)死去。室は恵春法尼。琳光院と号す。
- 9:寂知(?-1758)<>:8世寂応の子。1758年(宝暦8年)死去。室は智浄法尼(清光院)で油小路隆前姉。善超院と号す。著書『陽願寺略伝録』。
- 10:法知(?-1801)<>:9世寂知の子。桜町天皇位牌や光格天皇冠なとを預かる。1801年(享和元年)死去。室は恵貞法尼(寿昌院)で西本願寺静如の娘。普敬院と号す。
- 11:本了(?-1809)<>:本山興正寺26世本誓の子で西本願寺静如の孫に当たる。1803年(享和3年)入寺。1809年(文化6年)死去。西雲院と号す。
- 12:本量(?-1864)<>:1864年(元治元年)死去。陽願寺10世法知の弟。室は妙量法尼(至暁院)。浄華院と号す。
- 13:広流(?-1866)<>:藤枝沢揚。1866年(慶応2年)死去。室は智教法尼で福田寺22世摂専の娘。教応院と号す。
- 14:藤枝沢通(1861-1920)<>:西本願寺執行長14代。西本願寺新門徳如の弟。顕証寺14世近松摂真の四男。1868年(明治1年)入寺。明治3年、陽願寺住職。明治15年フランスに留学。1906年(明治39年)樺太大泊コルサコフ開教総監。1912年(大正1年)執行長。1920年(大正9年)死去。妻は蔦子(敬純法尼、善浄院)で証誠寺22世善住の娘。明浄院と号す。
- 15:藤枝照真(1904-2008)<1931->:藤枝沢通の長男。本願寺正連枝。1904年生[1]。1931年、早稲田大学卒。同年、陽願寺住職。昭和15年特選議員。昭和28年宗会議員。昭和31年名誉侍真。同年、福井県教育委員長代務。昭和33年宗派総局次室長。同年北米カナダ南米開教区巡教随行長。2008年(平成20年)死去。妻は保子(浄容法尼、智徳院)で土佐藩主山内容堂の孫。明智院と号す。子に藤枝照容(藤枝晃雄)(1936-2018)がいる。著書『陽願寺史』
- ?:藤枝至聖()<2008->:河内恵光寺12世の本多至成の次男。2006年(平成18年)入寺。2008年(平成20年)3月、陽願寺住職。明淳院と号す。