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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

証誠寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2017年11月19日 (日)

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証誠寺(しょうじょうじ)は、福井県鯖江市にある浄土真宗本山寺院大町門徒(三門徒)系統の真宗山元派の本山で、越前四本山(証誠寺毫摂寺誠照寺専照寺)の一つ。寺伝は親鸞の伝説を伝えるが、実質的な開山は戦国時代の道性である。横越(よここし)という地名から、証誠寺を中心とする流派を横越門徒ともいう。江戸時代は、院家の格式を持つ聖護院門跡の末寺だった。越前国今立郡。證誠寺横越本山。山号は山元山。


目次

歴史

創建

寺伝によれば、越後流罪の途中に親鸞が越前国今立郡山本村(鯖江市の水落・北野・小黒の一帯)に立ち寄り、教えを説いた。この時、聴聞した人々が建てたのが、証誠寺の起源という。その後、善鸞や浄如が旧跡を訪ねて説教した。浄如は嘉元2年(1304)8月に後二条天皇から山元山護念院証誠寺の名を賜り、勅願寺となったという。

その後、各地を転々としたが、文明7年(1475)3月、道性が現在地の横越に移したという。移転の理由は長泉寺(鯖江市長泉寺町)の焼討を受けたからともいう。史実としてはこの道性が創建したと考えられている。 道性は三河出身で、大町門徒開祖である専修寺如導の弟子。京都本願寺にも接近し、存覚と親交。貞和2年(1346)に存覚が義絶された時には、道性の京都寄宿所に滞在させている。また横越門徒に存覚の名で本尊を下賜するなど、交流は深かったようである。横越門徒は近江、美濃まで及び、大町門徒系統の中で、最大勢力となったが、大町専修寺などと対立を繰り広げていた。布教競争の中で、本願寺の権威を借り布教で優位に立つために、大町専修寺が仏光寺を仲介として頼ったように、証誠寺も京都毫摂寺と接触を図り、本寺と仰いだ。本願寺との直接的な接触を避けたのは、本願寺と対立していた国主朝倉家との関係に配慮したためという。

実際には至徳2年(1385)に専修寺から独立したとみられる。 小泉義博によると、証誠寺分立のきっかけは専修寺を継承した如浄や良金(良全、了泉)が浄土宗の教義に「傾き」、門徒の道性が激しく反発したことにあると推測している。

毫摂寺との関係

明応8年(1499)9月、善充が参内して後土御門天皇から上人号を得た。この時、皇居の修築料を献納したところ、「真宗之源親鸞嫡家」の綸旨を与えられたという。

戦国時代、京都が戦乱で荒廃すると毫摂寺勢力の一部が証誠寺を頼り、越前に落ち延びてきた。当時の証誠寺は善幸が住職であり、のち本願寺綽如の孫の善栄(兼慶、玄秀)に譲った。ところが善栄は吉崎の蓮如の下に去ったため、善幸は毫摂寺の善鎮を証誠寺住職とした。ここで両寺の合同と葛藤が始まる。善教、善光、善岌の名が共通して両寺歴代にあり、同一人物が両寺を兼務していた時代があったらしい。しかし、後世の歴代譜ではこの3人の生没年が大きく食い違い、また善幸、善鎮の名が歴代から除かれており、混乱を物語っているようにも思える。この辺りの事情は分からないことが多く、諸説ある。なお善鎮ものち、本願寺に帰参している。

分裂

織田信長の時代になると、大きな衰退を迎える。朝倉家を支持していた証誠寺は織田軍の焼き討ちを受け、伽藍を焼失。さらに慶長元年(1596)に毫摂寺が証誠寺の末寺の大半を引き連れて独立すると、勢いを一気に削がれてしまった。かつて最大の規模を誇った横越門徒も以後現在まで最小教団となる。一時、今立郡村国村の村国山北麓(越前市村国の字正仏)に移転。善岌が明暦2年(1656)に亡くなると、幼少の善応が継ぎ善養が後見役となるが、のち2人が相続争いする。府中本多氏の裁決で善応が継ぎ、元禄3年(1690)に横越に戻る。善養は村国に留まり、証海寺を建てた。元禄6年(1693)に天台宗聖護院門跡の所属となり、門跡を補佐する院家寺院の格式を与えられたが、浄土真宗の看板すら奪われてしまった。

近現代

明治維新に乗じて天台宗から離脱するが明治5年(1872)、政府の命で西本願寺末となり、真宗山元派として独立を果たしたのは明治11年2月のことであった。 昭和23年4月、伽藍焼失。昭和26年、御影堂再建。昭和39年、阿弥陀堂再建。

(日本仏教基礎講座、日本歴史地名大系、国史大辞典)

伽藍と塔頭

  • 御影堂:昭和26年再建
  • 阿弥陀堂:本尊は阿弥陀如来。源信作。昭和39年再建。
  • 覚善寺:塔頭
  • 道明寺:塔頭

歴代住職

歴代 法諱 院号 生没年 在職年 備考
1 親鸞 1173-1262 浄土真宗開祖。
2 善鸞 1208-1277 親鸞の子。
3 浄如 1236-1311 円芸。如信の三男(善鸞の長男ともいう)。1236年(嘉禎2年)12月2日生。1247年(宝治1年)上洛して親鸞から相伝。大網願入寺に入り、のち証誠寺を開く。1304年(嘉元2年)、後二条天皇から「山元山護念院証誠寺」額を賜る。1311年(応長1年)9月5日死去(1340年(興国1年/暦応3年)8月14日死去とも)。
4 鸞如 1265-1342 1311-1342 浄如の長男。1265年(文永2年)2月13日生。1311年(応長1年)継承。上洛して覚如から「口伝鈔」「改邪鈔」「安心決定鈔」などを相伝された。1342年(興国3年/康永1年)1月13日死去。
5 旦応 1319-1398 1345-1388 浄如の子(鸞如の子とも)。1319年(元応1年)2月23日生。一乗谷法界寺(不詳)に住していたが、1345年(興国6年/貞和1年)継承。上洛して、乗専から「口伝鈔」「最要抄」などの相伝を受けたという。1388年(元中5年/嘉慶2年)隠退。1398年(応永5年)5月7日死去。「且応」は誤りか。
6 如顕 1364-1445 1388-1445 旦応の長男。1364年(正平19年/貞治3年)9月3日生。1388年(元中5年/嘉慶2年)継承。1445年(文安2年)3月7日死去。
7 道閑 1386-1466 1445-1466 如顕の長男。1386年(元中3年/至徳3年)2月5日生。1445年(文安2年)継承。1466年(文正1年)6月3日死去。
8 道性 1439-1521 1466-? 実質的な開山。略歴不明。『真宗人名辞典』では道閑の長男。1436年(永享8年)1月3日生。1466年(文正1年)継承。一時、毫摂寺を本寺と仰ぐ。1475年(文明7年)長泉寺との戦乱で山元から横越に移転。1498年(明応7年)隠退。1521年(大永1年)9月9日死去。(証誠寺を創建。大町門徒開祖如導の弟子。本願寺存覚と親交し、彼が義絶された時には庇護した。誠照寺の伝承では親鸞の五男とする。愛知県知立市の称念寺が道性の創建とされ、かつて像があったこと(豊田市真浄寺に遷されたという)から道性は三河の和田門徒出身と考えられている(『真宗全史』))。
9 善秀 1466-1551 ?-1511 道性の長男。1466年(文正1年)4月3日生。1499年(明応8年)、後土御門天皇から上人号、大僧都。親鸞の嫡家と認められたという。1551年(天文20年)5月26日死去(1537年(天文6年)死去とも)。「善充」(『真宗人名辞典』)、「善透」(『日本仏教基礎講座』)とも。
10 善寿 1537-1587 1551-1587 善秀の次男。1537年(天文6年)6月5日生。1551年(天文20年)継承、権大僧都。1587年(天正15年)1月1日死去。
11 善教 1523-1600 1593?-? 万里小路充房の子。善寿の次女伊登と結婚。1523年(大永3年)生(1517年(永正14年)3月1日生とも)。1593年(文禄2年)の入寺に際して、長女伊与と結婚した善照(柳原淳光の子)と対立した(1596年(慶長1年)善照は寺を出て毫摂寺を建てたともいう)。1600年(慶長5年)5月5日死去(1594年(文禄3年)死去とも)。
12 善光 1562-1621 ?-1621 道性弟の妹尾高安の後裔という(あるいは善教の子とも)。1562年(永禄5年)1月5日生。池上本門寺に入寺。1581年(天正9年)、東坊城盛長娘の光正院(正光院か)と結婚。善教の死後、継承。のち越前の養徳寺(福井県越前市安養寺町)に隠退。1621年(元和7年)3月26日死去。
13 善如 1602-1643 1621-1643 善光の長男。1602年(慶長7年)9月20日生。1621年(元和7年)継承。1643年(寛永20年)5月26日死去(1644年(正保1年)とも)。
14 善岌 1619-1656 1644-1656 善如の長男。1619年(元和5年)2月3日生。1644年(正保1年)継承。1656年(明暦2年)1月18日死去。
15 善養 1636-1708 1656-? 善如の次男。1636年(寛永13年)1月5日生(1637年(寛永14年)とも)。1656年(明暦2年)、善岌嫡子の善応の後見として継承。1693年(元禄6年)聖護院の院家となったという。継承争いがあったらしく隠退後、仏光寺派に属し、証海寺と称した。1708年(宝永5年)11月4日死去。
16 善応 証教院 1653-1721 ?-1721 善岌の長男。1653年(承応2年)5月3日生。善養から継承した時期は不詳。1690年(元禄3年)村国から横越に移転。1693年(元禄6年)東山天皇から上人号と国家安全祈願の綸旨。1721年(享保6年)8月1日死去。
17 善閑 教証院 1691-1754 1721-1754 善応の長男。1691年(元禄4年)7月6日生。1721年(享保6年)継承。1727年(享保12年)12月、御文を書写。福井藩主松平綱昌娘の浄教院と結婚。1754年(宝暦4年)8月3日死去。
18 善阿 教光院 1722-1775 1754-1775 善閑の長男(善応の子とも)。母は福井藩主松平綱昌娘の浄教院。1722年(享保7年)5月1日生。1754年(宝暦4年)継承。1759年(宝暦9年)、万里小路植房の猶子となり、上人号勅許。1775年(安永4年)2月5日死去。
19 善念 無碍義院 1749-1803 1775-1789 善閑の次男。母は中川西光寺娘の常称院。1749年(寛延2年)1月6日生。俗名は政信。1775年(安永4年)継承。万里小路政房の猶子。1789年(寛政1年)光格天皇から上人号勅許。越前百姓一揆で伽藍焼失。1803年(享和3年)5月3日死去。
20 善超(東溟) 無碍光院 1785-1855 1789-1855 今出川実種の孫(今出川実種の子ともいう。公家小倉見季の次男で今出川家の猶子とも)。1785年(天明5年)1月1日生。1789年(寛政1年)、継承。1811年(文化8年)光格天皇から上人号勅許。和歌を好み、国学者賀茂季鷹に師事した。勤皇の志士とも交流した。1855年(安政2年)7月13日死去。
21 藤原善融 信光院 1812-1895 1856-1885 善超の長男。母は勧修寺良顕の娘。1812年(文化9年)7月15日生。1856年(安政3年)継承。1878年(明治11年)教導職権少教正となり上人号勅許。1884年(明治17年)12月初代管長。1895年(明治28年)12月27日死去。
22 藤原善住 秋光院 1852-1921 1885-1905 善融の次男。1852年(嘉永5年)8月11日生。1885年(明治18年)管長就任、権少教正。1905年(明治38年)隠退。1921年(大正10年)10月17日死去。
23 藤原善瑩 旡対光院 1880-1938 1905-1929 善住の長男。1880年(明治13年)3月3日生。1905年(明治38年)管長就任。1930年(昭和5年)隠退。1938年(昭和13年)11月29日死去。
24 藤原善敬 大清浄院 1909-1984 1929- 善瑩の長男。1909年(明治42年)2月6日生。1929年(昭和4年)管長継承。1932年(昭和7年)龍谷大学文学部真宗学科卒。戦後の伽藍復興に尽力。1984年(昭和59年)5月18日死去。
25 藤原光教(善鷲) 専照寺四男。1946年(昭和21年)11月2日生。


  • (『真宗人名辞典』)より
  • 不詳な点が多い。善幸、善栄(玄秀、兼慶)、善鎮は毫摂寺や本願寺との関わりから歴代から除かれたらしい(『日本仏教基礎講座』))(望月『仏教大辞典 付録』、『真宗山元派本山證誠寺史』、『真宗山元派本山證誠寺史』に引く『山元山系統略記』。24代までの生没年は『日本仏教基礎講座』)
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%A8%BC%E8%AA%A0%E5%AF%BA」より作成

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