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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。東京都の放送局や伊賀でも同様なのか。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

聖護院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年7月28日 (日)

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聖護院宸殿

聖護院(しょうごいん)は、京都府京都市左京区にある修験道本山派本山寺院本山修験宗総本山。門跡寺院で、円満院門跡実相院門跡と共に園城寺三門跡の一つ。本尊は不動明王。開山は増誉熊野三山検校を務めた。鎮守は聖護院熊野神社光格天皇の仮皇居にもなった。乗々院などの院家があり、照高院門跡も管理した。 旧称は白川院常光院。通称は森御殿

目次

奉斎

歴史

創建

1090年(寛治4年)、白河上皇の熊野御幸の先達を務めた増誉が、上皇から熊野三山検校に任命され、寺院を賜ったのが起源。法流の祖の園城寺円珍を開山とみなす。当初は白川院、あるいは常光院と称したが、覚忠の時、聖体護持の寺であることから聖護院と称した。その後、静恵法親王が入寺して以降、歴代門主が熊野三山検校を兼ねるようになった。1167年(仁安2年)には中御門大路の末にあったと記され、ほぼ現在地に当たる。

中世

1313年(正和2年)、覚助法親王が大峰山に入峰して以来、門主は一世一度峰入りするのが慣例となった。

南北朝時代、良瑜が深仙灌頂を始めた。室町時代、道興が全国の熊野系山伏を歴訪し、聖護院を中心とした本山派が形成される契機となった。1468年(応仁2年)8月5日、兵乱で焼失。岩倉長谷に移転した。1481年(文明13年)10月、足利義政が出家しようと滞在。合わせて長谷の堂舎が整備された。1487年(長享1年)4月、盗賊が放火して焼失した。

近世

のち豊臣秀吉の都市整備で烏丸上立売の御所八幡町に移転。長谷の地は聖護院の別荘「長谷殿」(ながたにどの)となった。1620年(元和6年)2月30日、上京大火で焼失。再建されたが、1675年(延宝3年)11月25日に焼失した。翌1676年(延宝4年)、現在地に移転して再建された。また元和年間、興意法親王が照高院門跡を隠退所とした。1770年(明和7年)、照高院を聖護院の兼務とした。1788年(天明8年)の大火では京都御所から天皇が避難し、仮御所となった。1854年(安政1年)の大火でも仮御所となった。近世の寺領は1403石。

近代

1946年(昭和21年)3月、独立して修験宗を設立。1962年(昭和37年)8月、宗派の内紛で修験宗から離脱して本山修験宗を設立。のち修験宗と本山修験宗は合併。本山修験宗となった。

(国史大辞典、日本歴史地名大系)

伽藍

鎮守として聖護院熊野神社や日吉神社がある。

  • 本堂:本尊は不動明王。向かって左から位牌、役小角、本尊不動明王、円珍が並ぶ。
  • 宸殿:本尊は役小角。向かって左から不動明王、蔵王権現、本尊役小角、不動明王、不動明王が並ぶ。光格天皇御座所がある。
  • 聖護院熊野神社:現在は別組織。
  • 聖護院日吉神社:近年、宸殿前庭に遷座。
  • 長谷墓地:増誉の墓など

子院・院家など

修験道本山派の先達寺院も参照。照高院も管理。

  • 照高院門跡:廃絶
  • 乗々院:五院家。京都府京都市東山区。若王子神社別当。熊野三山奉行。若王寺。廃絶。
  • 上乗院:院家?
  • 住心院:五院家。京都府京都市左京区。新熊野神社別当。勝仙院。移転して現存。
  • 積善院:五院家。京都府京都市左京区。聖護院塔頭。現存。
  • 花台院:五院家。京都府京都市左京区。不詳。岩倉長谷にあったらしい。華台院。
  • 智光院:不詳。
  • 理覚院:不詳。
  • 伽耶院:五院家。兵庫県三木市。東一坊と称す。
  • 証誠寺:院家。福井県鯖江市。浄土真宗本山。江戸時代は聖護院に属した。
  • 有門院:廃絶。
  • 円成寺:院家。
  • 大善院:院家ではない?

坊官

  • 中大路坊
  • 菊坊
  • 今辻坊
  • 雑務坊
  • 岩坊

組織

役小角から円珍までの修験道の法脈は次の通りとされる。

  • 役小角、義学、義玄、義真、寿元、芳元、助音、黒珍、日代、日円、長円、円珍

(本山聖護院宮御法系)

歴代門主

世数 生没年 在職年 略歴
円珍 814-891 814年(弘仁5年)生。891年(寛平3年)10月29日死去。
増命 843-927 園城寺長吏5世。実相院門跡。843年(承和10年)生。927年(延長5年)11月11日死去。静観。千光院。
勢祐 園城寺長吏8世。927年(延長5年)園城寺長吏。947年(天暦1年)維摩会講師。千光院と号す。(華頂要略)
勧修 945-1008 園城寺長吏16世。紀氏。静祐の弟子。945年(天慶8年)生。余慶に伝法灌頂を受ける。藤原道長の帰依を得た。解脱寺、浄妙寺を創建。996年(長徳2年)(997年(長徳3年)とも)園城寺長吏。998年(長徳4年)園城寺長吏。1000年(長保2年)(1001年(長保3年))大僧正。1005年(寛弘2年)、藤原道長が建てた浄妙寺の検校となり、以後その弟子が継ぐこととされる。1008年(寛弘5年)7月8日死去。64歳。1019年(寛仁3年)12月18日「智静」の諡号を賜る。観修とも。長谷僧正・木幡大僧正。千光院と号す。(華頂要略ほか)
最円 988-1050 藤原頼忠(藤原教通?、藤原広義?)の子。観修の弟子。988年(永延2年)生。1050年(永承5年)2月4日(8月28日とも)死去。63歳。千光院・西院と号す。(「御法系」では「静円」とする。静円は1041年(長久2年)伝法灌頂を受ける。1081年(永保1年)2月5日死去。)
静円 1020-1081 藤原教通の子。1020年(寛仁4年)生。1041年(長久2年)伝法灌頂を受ける。1081年(永保1年)2月5日死去。千光院・西院と号す。木幡僧正。(「御法系」や『華頂要略』異本では「最円」の代わりに「静円」を載せる)
静覚 1024-1083 藤原教通の四男。最円の弟子。1024年(万寿1年)生。1050年(永承5年)明尊から伝法灌頂。一身阿闍梨。権大僧都。長谷寺別当。解脱寺別当。1083年(永保3年)年9月20日死去。60歳。「勢覚」。千光院・真如院と号す。長谷僧正。(華頂要略ほか)
1 増誉 1032-1116 実質的な開山。天台座主。初代熊野三山検校。園城寺長吏26世。四天王寺別当。藤原経輔の子。1032年(長元5年)生。1037年(長暦1年)乗延に入室。1069年(延久1年)尊勝院で伝法灌頂。1070年(延久2年)権律師。1074年(承保1年)権少僧都、護持僧。翌年、法印。1080年(承暦4年)8月1日、明王院を創建。1085年(応徳2年)法華経を白河天皇に授与。1086年(応徳3年)権大僧都。1087年(寛治1年)護持僧。同年、禁中で不動法。1089年(寛治3年)東寺権法務。同年神泉苑で孔雀法。1090年(寛治4年)1月22日、白河上皇の熊野御幸の先達を務める。同年、熊野三山検校の初代に補任。1094年(嘉保1年)四天王寺別当。1096年(永長1年)権僧正。1098年(承徳2年)法成寺別当、広隆寺別当。1099年(康和1年)11月22日、白河上皇臨席のもと、白川房の仏閣を供養。1100年(康和2年)園城寺長吏。1102年(康和4年)僧正、法成寺座主。1103年(康和5年)3月11日、聖護院熊野神社を勧請。1105年(長治2年)閏2月14日、天台座主。翌日辞退。同年5月19日大僧正、尊勝寺梵釈寺崇福寺など13寺の別当となる。1107年(嘉承2年)最勝講の証義を務める。1109年(天仁2年)宮中内論義。1116年(永久4年)1月29日死去。85歳。一乗寺僧正、千光院と号す。(要覧ほか)
2 増智 1078-1135 摂政関白太政大臣藤原師実の子。増誉の弟子。1078年(承暦2年)生。1106年(嘉承1年)権少僧都。1111年(天永2年)公伊を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。1116年(永久4年)権大僧都。1123年(保安4年)崇徳天皇護持僧。1129年(大治4年)常行堂を建て不断念仏。1131年(天承1年)浄妙寺別当。1133年(長承2年)尊勝寺最勝寺の権別当。1134年(長承3年)12月19日平等院執印。同年閏12月5日法務。1135年(保延1年)僧正。同年7月3日、法勝寺権別当。1135年(保延1年)9月23日死去。58歳。千光院、龍雲坊と号す。通称は白河僧正(白川僧正)。「増知」とも(仏家)。(要覧ほか)
3 覚忠 1118-1177 天台座主。園城寺長吏32世。熊野三山検校。摂政関白太政大臣藤原忠通の子。1117年(永久5年)生(1118年(元永1年)、1119年(元永2年)とも)。1137年(保延3年)権少僧都。1137年(保延3年)2月10日、園城寺唐院で覚猷を大阿闍梨として伝法灌頂を受け、熊野三山検校。1139年(保延5年)平等院別当。1142年(康治1年)権大僧都。1161年(応保1年)西国霊場を巡礼。1162年(応保2年)2月30日天台座主。3日で辞退。同年権僧正。1134年(長承3年)大僧正。1165年(永万1年)護持僧。1167年(仁安2年)法務を辞す。1168年(仁安3年)園城寺長吏。1169年(嘉応1年)6月17日、後白河上皇の剃髪の戒師を務める。1170年(嘉応2年)5月27日諸寺検校を辞す。1173年(承安3年)11月11日、後白河法皇に一身阿闍梨と龍雲坊の号を授ける。1177年(治承1年)10月16日、山城国長谷で死去。61歳。千光院、龍雲坊、青瀧院、千手院と号す。通称は宇治僧正。(要覧ほか)
4 静恵法親王 1164-1203 園城寺長吏。後白河天皇皇子。初の皇族門主。1164年(長寛2年)生。覚忠の弟子。1181年(養和1年)一身阿闍梨。1182年(寿永1年)五辻斎院頌子内親王の猶子。同年10月27日、園城寺入寺。1184年(元暦1年)12月18日、真円を大阿闍梨として園城寺唐院で伝法灌頂を受ける。1191年(建久2年)無品親王。天台宗寺門派で初の法親王。1192年(建久3年)1月31日、浄妙寺別当。1196年(建久7年)4月18日、園城寺長吏。1202年(建仁2年)6月、大峰山入峰。1203年(建仁3年)3月13日死去。40歳。千光院、青龍院、長谷宮と号す。(要覧ほか)
5 円忠 1180-1234 園城寺長吏44世。摂政関白近衛基通の子。1180年(治承4年)生。1197年(建久8年)3月26日、真円を大阿闍梨として園城寺唐院で伝法灌頂を受ける。1206年(建永1年)護持僧。1217年(建保5年)尊円親王を付弟とする。1221年(承久3年)11月28日、平等院執印。1226年(嘉禄2年)園城寺長吏。1234年(文暦1年)11月18日死去。55歳。(要覧ほか)
6 尊円法親王 1207-1231 後鳥羽天皇の皇子。1207年(承元1年)生。1217年(建保5年)東大寺で受戒。同年、一身阿闍梨。同年、聖護院円忠に師事。1218年(建保6年)無品親王となる。1221年(承久3年)6月、父帝が承久の乱を起こし、その後、連座して鎌倉幕府により備前配流。1228年(安貞2年)大宝院で覚朝を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。1231年(寛喜3年)10月10日、配流地備前国で死去。25歳。(要覧)(『望月』『仏家』『華頂』『御法系』では静忠の次とする)
7 静忠 1190-1263 園城寺長吏48世。摂政関白近衛基通の子。円忠の弟子。1190年(建久1年)生。1208年(承元2年)覚朝を大阿闍梨として伝法灌頂。1235年(嘉禎1年)、大宝院で実真に伝法灌頂を授け、以後20人に及ぶ。同年12月、園城寺長吏。1236年(嘉禎2年)園城寺唐院で覚恵に伝法灌頂。1245年(寛元3年)護持僧。1246年(寛元4年)仙洞御所で尊勝陀羅尼供養。1247年(宝治1年)大宝院で深忠に伝法灌頂。1256年(康元1年)4月、平等院執印。1263年(弘長3年)10月2日死去。74歳。千光院、青龍院、西院と号す。(要覧)(『望月』『仏家』『華頂』『御法系』では円忠の次とする)
8 覚恵法親王 1217-? 園城寺長吏51世。順徳天皇皇子。1217年(建保5年)生。1231年(寛喜3年)受戒。1263年(弘長3年)園城寺唐院で静忠を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。1240年(仁治1年)園城寺長吏。没年不詳。真如院と号す。(要覧)(『望月』『仏家』『華頂』深忠の次、『御法系』では尊円の次とする)
9 深忠 1247?-1263 摂政九条道家の子。1230年(寛喜2年)生。1247年(宝治1年)静忠を大阿闍梨として大宝院で伝法灌頂を受ける。1261年(弘長1年)大峰山入峰。1263年(弘長3年)10月8日死去。36歳。(要覧)(『望月』『仏家』『華頂』では尊円法親王の次、『御法系』では仁誉法親王の次とする)
10 覚助法親王 1247?-1336 園城寺長吏59世。四天王寺別当。鶴岡八幡宮寺検校。後嵯峨天皇第十皇子。静忠の弟子。1250年(建長2年)生。1254年(建長6年)、聖護院に入室。1262年(弘長2年)10月6日得度。10月13日親王宣下。1264年(文永1年)南都で具足戒。1266年(文永3年)解脱寺で仙朝を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。1266年(文永3年)護持僧。1268年(文永5年)園城寺長吏。1271年(文永8年)7月、大峰山入峰。1278年(弘安1年)長講堂供養の導師。1287年(弘安10年)9月10日、亀山上皇が聖護院長谷坊に御幸。1300年(正安2年)二品。1301年(正安3年)護持僧。同年6月19日、代始不動法。1303年(嘉元1年)12月11日、四天王寺別当。同年、熊野三山検校、新熊野検校、蓮華王院別当、長講堂別当、浄金剛院別当、鶴岡若宮別当。1318年(文保2年)後醍醐天皇護持僧。1323年(元亨3年)花園上皇、聖護院長谷坊を訪れる。1332年(元弘2年/正慶1年)5月9日、園城寺長吏。1333年(元弘3年/正慶2年)9月4日、鶴岡八幡宮寺検校。12月11日、一心院に到着し、明石本坊に住す。1334年(建武1年)園城寺長吏。1336年(延元1年/建武3年)9月17日死去。88歳。(要覧)
11 忠助法親王 ?-1290 園城寺長吏63世。後嵯峨天皇皇子。覚助親王の弟。生年不詳。1288年(正応1年)無品親王宣下。1289年(正応2年)6月、園城寺長吏。1290年(正応3年)8月17日死去。(要覧)
12 順助法親王 1277?-1320 園城寺長吏68世。亀山天皇皇子。覚助親王の弟子。1279年(弘安2年)生。1291年(正応4年)聖護院に入室得度。1297年(永仁5年)受戒。1298年(永仁6年)10月28日、覚助親王を大阿闍梨として解脱寺で伝法灌頂を受ける。1299年(正安1年)12月22日、園城寺長吏。1308年(延慶1年)6月9日、園城寺長吏を辞す。1320年(元応2年)10月14日死去。44歳。(要覧)
13 恵助法親王 1289-1328 園城寺長吏70世。伏見天皇皇子。1289年(正応2年)生。1293年(永仁1年)聖護院に入室。1307年(徳治2年)受戒。1308年(延慶1年)、覚助親王を大阿闍梨として園城寺唐院で伝法灌頂を受ける。1310年(延慶3年)6月28日、親王宣下。1312年(正和1年)園城寺長吏、熊野三山検校、新熊野検校。1313年(正和2年)7月、大峰山入峰。1327年(嘉暦2年)二品。同年園城寺長吏。1328年(嘉暦3年)9月9日死去。40歳。桂園院と号す。(要覧)
14 尊珍法親王 1306?-? ?-1330 園城寺長吏74世。亀山天皇皇子。後醍醐天皇養子。順助親王の弟。覚助親王の弟子。1305年(嘉元3年)生。1324年(正中1年)8月22日、聖護院に入室。1325年(正中2年)受戒。1326年(嘉暦1年)、覚助親王を大阿闍梨として解脱寺で伝法灌頂を受ける。同年10月5日、園城寺長吏。1327年(嘉暦2年)9月24日、園城寺長吏を辞す。1328年(嘉暦3年)8月9日、園城寺長吏。1329年(元徳1年)園城寺長吏。1330年(元徳2年)8月16日、園城寺長吏を辞す。同年12月、幕府により越前に配流となる。没年不詳。(要覧)(『望月』『仏家』『華頂』では順助法親王の次とする)
15 静尊法親王 生没年不詳 ?-1332 後醍醐天皇皇子。生没年不詳。1328年(嘉暦3年)親王宣下。1332年(元弘2年/正慶1年)、鎌倉幕府による但馬配流となる。1333年(元弘3年/正慶2年)、恒良親王と共に但馬守護太田守延や千種忠顕の軍に奉じられ丹波篠村で挙兵。西山峯ノ堂に陣を置く。同年4月8日、六波羅の幕府軍に負け八幡に退去。消息不明。恵尊親王、聖尊親王とも。(要覧) (『御法系』では良瑜の次とする。「聖門伝」によると熊野三山検校、新熊野検校、園城寺長吏。)
16 聖助法親王 生没年不詳 後醍醐天皇皇子。静尊親王の弟。生没年不詳。1335年(建武2年)親王宣下。(要覧) (『望月』『仏家』では仁誉法親王の次とする。『御法系』にはなし。「諸寺院上申」に熊野三山検校、新熊野検校、園城寺長吏。)
17 覚誉法親王 1320-1382 園城寺長吏79世。四天王寺別当?。花園天皇第一皇子。覚助親王の弟子。1320年(元応2年)生。1331年(元徳3年)親王宣下。同年、聖護院に入室。1336年(延元1年/建武3年)、光厳上皇、聖護院熊野神社境内の勧学院阿弥陀堂などの敷地を安堵。1341年(興国2年/暦応4年)、清顕を大阿闍梨として解脱寺で伝法灌頂を受ける。1342年(興国3年/康永1年)1月、園城寺長吏。1355年(正平10年/文和4年)園城寺長吏。1365年(貞治4年)園城寺長吏。1382年(弘和2年/永徳2年)5月28日死去。63歳。(要覧) (『望月』『仏家』『華頂』『御法系』では恵助法親王の次とする)
18 仁誉法親王 1340?-? 園城寺長吏83世。常磐井宮恒明親王王子。亀山天皇孫。覚誉親王の弟子。1341年(興国2年/暦応4年)生。1356年(正平11年/延文1年)聖護院に入室。1360年(延文5年)覚誉親王を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。一身阿闍梨。1361年(正平16年/康安1年)園城寺長吏。1375年(天授1年/永和1年)、吉野南朝の五百番歌合に参加。没年不詳。(要覧)
19 良瑜 1330-1397 園城寺長吏84世。聖護院歴代としない史料も多いが『要覧』では「聖門伝」に従い、歴代に入れる。園城寺常住院南瀧院門跡実相院門跡如意寺、四天王寺別当。深仙灌頂、葛城灌頂を行う。摂政関白二条兼基の子。一説に良実の子という。また忠教の子とも。1331年(元弘1年/元徳3年)生。道瑜の弟子。1349年(正平4年/貞和5年)、実相院増仁を大阿闍梨として如意寺で伝法灌頂を受ける。1354年(文和3年)大峰山入峰。6月11日熊野三山検校、新熊野検校、平等院執印。1363年(正平18年/貞治2年)3月6日園城寺長吏。1366年(貞治5年)大僧正。1370年(建徳1年/応安3年)12月27日園城寺長吏。1376年(永和2年)、熊野三山検校を弟子の道意に譲る。1390年(明徳1年)10月26日園城寺長吏。1397年(応永4年)8月21日死去。67歳。法輪院と号す。初名は静助。(要覧)(『望月』『仏家』『華頂』には良瑜なし)
(聖尊) (『要覧』になし。『御法系』のみ記す)
20 覚増法親王 1363-1390 園城寺長吏91世。後光厳天皇皇子。春屋妙葩の弟子。覚誉親王の弟子。1363年(正平18年/貞治2年)生。1369年(応安2年)、南禅寺春屋妙葩の弟子となるが、春屋妙葩が京都を去るため、乳父の家に戻る。1373年(応安6年)11月24にち、聖護院に入室得度。1380年(天授6年/康暦2年)4月10日、覚誉親王を大阿闍梨として浄妙寺で伝法灌頂を受ける。1383年(弘和3年/永徳3年)6月20日、園城寺長吏。1390年(元中7年/明徳1年)11月19日死去。28歳。著作「両部血脈抄」。(『要覧』)
21 道意 1354-1429 園城寺長吏95世。園城寺常住院。如意寺、実相院。南瀧寺。摂政太政大臣二条良基の子。良瑜の弟子。1354年(正平9年/文和3年)生。1367年(正平22年/貞治6年)受戒。1371年(建徳2年/応安4年)、良瑜を大阿闍梨として如意寺で伝法灌頂を受ける。1375年(永和1年)僧正。1376年(永和2年)2月30日、熊野三山検校を良瑜から継承することを後円融天皇から承認される。如意寺道基。1391年(明徳2年)、聖護院を継承。1392年(明徳3年)8月28日、相国寺供養に出仕。1393年(明徳4年)園城寺長吏。同年、園城寺長吏に再任。1394年(応永1年)熊野三山検校、新熊野検校、四天王寺別当。1397年(応永4年)11月、園城寺長吏。1398年(応永5年)2月29日、足利義満、聖護院参詣。同年、道基を道意と改名。1399年(応永6年)9月2日、園城寺長吏。1406年(応永13年)7月18日、良瑜の御影を深仙灌頂堂に納める。1407年(応永14年)2月23日、聖護院の坊が焼失。1423年(応永30年)7月、将軍の命で足利持氏を呪詛する。1425年(応永32年)腫物老体のため満意に譲ることを願う。1428年(正長1年)護持僧。1429年(永享1年)足利義教の南都下向に随従。同年10月15日死去。76歳。初名は道基。後千光院と号す。(『要覧』)
22 満意 1386-1465 常住院。如意寺。摂政太政大臣二条良基の子。道意の弟。1386年(元中3年/至徳3年)生。1396年(応永3年)受戒。1408年(応永15年)道意を大阿闍梨として如意寺で伝法灌頂を受ける。同年、園城寺長吏。1423年(応永30年)道意と共に足利持氏を呪詛する。1424年(応永31年)園城寺長吏。1425年(応永32年)10月2日、熊野三山検校、新熊野検校。1434年(永享6年)12月21日、幕府から常住院の管理を命じられる。1443年(嘉吉3年)3月、足利義教の子の義観を弟子とする。1456年(康正2年)1月、義観が聖護院を出奔したため説得に行くが会えず。1465年(寛正6年)7月15日死去。80歳。(『要覧』)
(義観) 1439-1464 世代外。将軍足利義教の九男。1439年(永享11年)閏1月17日生。1443年(嘉吉3年)3月22日、満意の弟子として入寺。1449年(宝徳1年)受戒。1455年(康正1年)如意寺で満意を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。1456年(康正2年)聖護院を出る。満意が説得に赴くが対面せず。1462年(寛正3年)12月22日隠居。1464年(寛正5年)4月死去。(『要覧』、家永遵嗣「足利義視と文正元年の政変」[1])(『望月』では道澄の次におく。「御法系」にはなし。)
23 道興 1430-1501 ?-1477、1479- 園城寺長吏103世。近衛房嗣の子。満意の弟子。1430年(永享2年)生。1441年(嘉吉1年)受戒。1447年(文安4年)、満意を大阿闍梨として解脱寺で伝法灌頂を受ける。1451年(宝徳3年)10月13日、園城寺長吏を辞す。1463年(寛正4年)4月、四天王寺生霊院落慶のため別当として下向。1465年(寛正6年)准三宮。同年、室町第で五壇法。1466年(文正1年)3月、足利義視が聖護院を訪問。7月、西国巡礼に赴き興福寺南円堂に参詣。1467年(応仁1年)、備前尊瀧院の田畑を安堵(聖護院と児島修験が関係する初見史料)。同年、那智に参籠。1468年(応仁2年)4月、那智で細字法華経を書写。4月、熊野権現に経典を奉納。7月1日、大和国添上郡手害(東大寺の近く)に宿泊。7月4日帰京。8月4日、応仁の乱で聖護院も焼かれる。幕府、熊野にいた道興を呼び、8月8日、伊勢の足利義視を迎えるため派遣する。10月には三室戸寺にいる。1477年(文明9年)11月11日、足利義視に従い、美濃に下る(事実上の辞任)。1479年(文明11年)9月17日、朝廷、足利義視に伺候した罪を許し、聖護院に復帰を許す。同年護持僧。将軍足利義尚に対面。1480年(文明12年)2月、近衛政家と南都に行く。9月、将軍に招かれ祈祷。1481年(文明13年)、足利義政、聖護院長谷山荘に隠れる。1486年(文明18年)、大雲寺で灌頂。6月6日、東国巡歴のため暇乞のために参内し、京都を離れる。7月、上野大蔵坊、8月、上野杉本坊に滞在。武蔵十玉坊で年越し。1487年(長享1年)3月陸奥八槻別当坊に滞在。5月21日、帰京して参内。10月、丹波・播磨に赴く。翌年11月那智参籠。1490年(延徳2年)大峰山入峰。1491年(延徳3年)、夢窓疎石から勅許を申し入れて平等寺の薬師仏を開帳。1493年(明応2年)、西国巡礼。1870年(明治3年)四国巡礼。1500年(明応9年)、将軍足利義高が聖護院を訪問。同年参内して後土御門天皇を加持。1501年(文亀1年)足利義高を加持。同年9月23日死去。82歳。著書『廻国雑記』は著名。(『要覧』)
24 政瑜 1450-1478 二条持通の子。満意の弟子。1450年(宝徳2年)生。1462年(寛正3年)12月22日、義観が隠居したため、代わりに入室得度。1478年(文明10年)死去。29歳。(『要覧』)(『望月』『仏家』『華頂』『御方系』には政瑜なし)
25 道応法親王 1467-1510 園城寺長吏104世。伏見宮貞常親王第八王子。後土御門天皇猶子。1467年(応仁1年)生(1468年(応仁2年)とも)。1481年(文明13年)12月26日、聖護院に入室。得度。1489年(延徳1年)親王宣下。同年一身阿闍梨。1502年(文亀2年)、曼殊院良鎮と将軍護持の序次を争う。1503年(文亀3年)参内。1509年(永正6年)、紀伊に赴く。堺に数日逗留。1510年(永正7年)6月16日死去。43歳。興誉法親王とも。(『要覧』)
26 道増 1508?-1571 1510- 園城寺長吏105世。関白近衛尚通の子。近衛政家の猶子。一説に1508年(永正5年)生。1505年(永正2年)、聖護院道興の付弟となる(道興は既に死去)。1508年(永正5年)道応の付弟となる。1510年(永正7年)、将軍、門跡継承を承認。同年聖護院に入室。1515年(永正12年)6月18日、熊野三山検校、新熊野検校。1517年(永正14年)上乗院に移る。同年、諸国修験に役銭を課す。1524年(大永4年)大峰山入峰。10月10日出峰参内。1537年(天文6年)大僧正。同年二度目の大峰山入峰。10月10日、参内して後奈良天皇を加持。1539年(天文8年)葛城山入峰。1541年(天文10年)准三宮。同年、三度目の大峰山入峰。1544年(天文13年)、伽耶院存意を大阿闍梨として解脱寺で伝法灌頂を受ける。1545年(天文14年)5月、修験中法度を玉瀧坊に達す。1547年(天文16年)5月、関東修験にむけた修験中法度を定める。1549年(天文18年)6月、将軍足利義輝に従い、近江坂本に行く。1551年(天文20年)8月、足利義輝の命で関東下向。1552年(天文21年)8月、足利義輝の命で陸奥下向し伊達親子を和解させる。同年、八菅山巡拝。1557年(弘治3年)、足利義輝、大峰山での祈祷を命じる。1560年(永禄3年)足利義輝の命で、安芸下向。尼子毛利の講和を斡旋。1562年(永禄5年)調停に失敗して帰京。1563年(永禄6年)、足利義輝の命で下向して毛利元就と大友義鎮を和睦させる。1568年(永禄11年)、毛利隆元の菩提所として安芸常栄寺霊光院を創建。1571年(元亀2年)3月1日、安芸で死去(1551年(天文20年)死去説、1552年(天文21年)死去説があるが誤り)。64歳。(『要覧』)
27 道澄 1544-1608 園城寺長吏106世。近衛稙家の子。豊臣秀吉に信任され、京都・方広寺住職。照高院門跡1世。1544年(天文13年)生。1557年(弘治3年)初めて参内。1560年(永禄3年)9月、近衛前嗣に従い越後下向。1567年(永禄10年)、大峰山入峰。10月10日出峰参内。1573年(天正1年)、足利義昭の命で、安芸に下向。1575年(天正3年)帰京。同年、若王子増鎮を大阿闍梨として園城寺唐院で伝法灌頂を受ける。同年、積善院尊雅に伝法灌頂を授ける。1576年(天正4年)5月、入洛した織田信長の宿所妙覚寺を訪問。1585年(天正13年)二度目の大峰山入峰。8月、奈良(春日大社?)社参。1588年(天正16年)2月、後陽成天皇、聚楽第行幸平安のため尊称法を行わせる。3月、清涼殿で尊星王大法を行う。同年、円珍700年遠忌。同年護持僧。1589年(天正17年)三度目の大峰山入峰。10月10日駈出参内。1590年(天正18年)2月28日、後陽成天皇の命で豊臣秀吉の戦勝祈願を祈祷。1591年(天正19年)1月、興意親王、聖護院に入室。2月、関東八州の修験の安堵を徳川家康から得る。1592年(文禄1年)隠居して照高院と号す。1593年(文禄2年)肥前名護屋に下向。1595年(文禄4年)9月21日、豊臣秀吉、道澄を方広寺住職に任命し1万石を寄進。道澄、現在の妙法院の場所に照高院を創建。11月18日、豊臣秀吉の命で園城寺が廃絶となり、一部の仏像などが照高院に移される。1598年(慶長3年)6月3日、豊臣秀吉の病気平癒祈願。8月17日、豊臣秀吉の死の前日に園城寺の再興を許可される。8月22日、方広寺大仏の供養導師を務める。8月27日、園城寺本尊などを復帰。9月16日、後陽成天皇病気平癒のため御黒戸で護摩。同年、園城寺寺務。1601年(慶長6年)11月26日、園城寺唐院で興意親王に伝法灌頂を授ける。1602年(慶長7年)12月4日、方広寺大仏殿が炎上し、照高院も焼失。1604年(慶長9年)4月、飛鳥井雅庸から古今伝授を受ける。1605年(慶長10年)8月23日若宮八幡宮に社地を寄進。11月、本願寺で能を見る。同年照高院を興意親王に譲る。1607年(慶長12年)8月9日、大仏殿寺務を引退し、興意親王が継承。1608年(慶長13年)6月28日園城寺上光院で死去。65歳。浄満寺と号す。(『要覧』)
(忠尊親王) (『仏家』のみ記す。『要覧』などになし。『望月』では義観を道澄の次に入れる。)
28 興意法親王 1576-1620 園城寺長吏107世。照高院門跡2世。誠仁親王(陽光院太上天皇)第五王子。後陽成天皇養子。方広寺事件で嫌疑を掛けられる。1576年(天正4年)生。1579年(天正7年)円満院入室が決まる。1583年(天正11年)円満院入室。1588年(天正16年)親王宣下。1591年(天正19年)1月9日、聖護院入室。1593年(文禄2年)肥前名護屋に下向。1598年(慶長3年)大峰山入峰。10月10日駈出参内。同年御黒戸で護摩。1599年(慶長4年)園城寺に赴く。1601年(慶長6年)東山千勝院で四度加行。園城寺唐院で道澄を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。1605年(慶長10年)、好仁親王を付弟とする。同年、照高院を継ぐ。1607年(慶長12年)8月9日、大仏殿寺務を継ぐ。1608年(慶長13年)12月6日、道勝から興意と改名。1609年(慶長14年)関東下向。5月1日、将軍徳川秀忠から園城寺寺務条規、愛宕山修験道法度を達せられる。5月27日、徳川家康から園城寺寺務を安堵される。同日陸奥に下向。8月、帰京。1610年(慶長15年)3月、園城寺長吏。6月12日方広寺大仏殿の地鎮。1612年(慶長17年)関東下向。1613年(慶長18年)4月、注連払い役銭訴訟のため駿府に下向。5月5日、徳川家康から本山派当山派の争論の裁決を言い渡される。5月21日、徳川家康、修験道法度を定める。5月28日江戸到着。6月6日、徳川秀忠、修験道法度を定める。6月18日入洛。四品から二品。8月、徳川家康、方広寺大仏殿の棟札に大工棟梁の名がないことを怒る。同月、照高院を引退し、六角勝仙院に蟄居。さらに呪詛の疑いをかけられたため釈明の書状を幕府に送る。11月6日、徳川家康、板倉勝重に糾問を命じる。11月9日無罪となる。1615年(元和1年)4月、徳川家康、大峰山の五鬼のことを興意親王および三宝院義演に諮問。7月9日、徳川家康、照高院を廃絶とし、興意親王を聖護院に移す。10月、駿府で釈明する。1616年(元和2年)8月14日、幕府に釈明の書を送る。11月帰京。同年、徳川秀忠、望みの場所に一寺創建を許可。伏見城二の丸客殿・台所を寄付。1000石を与える。同年、聖護院寺務と園城寺長吏を好仁親王に譲り、大仏照高院に移る。1617年(元和3年)4月江戸に下向。1618年(元和4年)三条六角堂内の照高院で日本書紀神代上巻の講釈を始める。同年閏3月1日江戸下向。4月帰京。1619年(元和5年)大仏照高院の破却を命じられる。1620年(元和6年)4月18日、白川に新坊を建立。9月1日、謝礼のため江戸下向。14日秀忠と対面。10月7日、江戸で客死。45歳。浄珊寺と号す。西久保宗英寺に葬る。1652年(承応1年)墓を宗英寺から二本榎広岳院に改葬。1845年(弘化2年)の大火で霊屋焼失。のち再建。1865年(慶応1年)、広岳院に異人館が設置されたため、親王位牌を大聖院内仮霊屋に遷座。初名は道勝親王。(『要覧』)
(好仁親王) 1603-1638 世代外。後陽成天皇の第七皇子。有栖川宮初代。1603年(慶長8年)生。1605年(慶長10年)聖護院入室。1612年(慶長17年)親王宣下。1615年(元和1年)弾正尹。1616年(元和2年)、興意親王、聖護院寺務と園城寺長吏を好仁親王に譲るが、1625年(寛永2年)10月、高松宮(のちの有栖川宮)を創設。この経緯はよく分からない。一時的には聖護院を継いでいるように思えるが、『要覧』では「世代外」とする。1638年(寛永15年)6月3日死去。36歳。大徳寺龍光院に葬る。永照院宮。(『要覧』)
29 道晃法親王 1612-1679 園城寺長吏108世?後陽成天皇皇子。照高院門跡4世。1612年(慶長17年)生。1621年(元和7年)聖護院入室。1625年(寛永2年)実相院義尊を戒師として得度。同年江戸下向。4月、日光山の八講で証義を務める。6月帰京。1626年(寛永3年)親王宣下。1627年(寛永4年)若王子で四度加行。1629年(寛永6年)二品。1631年(寛永8年)大峰山入峰。10月10日参内加持。江戸に下向し、11月3日、将軍徳川家光を加持。大御所徳川秀忠の衣を加持。1632年(寛永9年)にも下向。1634年(寛永11年)、道周親王と園城寺長吏を巡って争う。1636年(寛永13年)土御門家の土御門泰重から奉幣両段再拝之次第を受ける。1639年(寛永16年)勝仙院澄存から園城寺唐院で伝法灌頂を受ける。1641年(寛永18年)8月23日、園城寺長吏を辞す。すぐに再任。1644年(正保1年)6月29日、園城寺長吏を辞す。1652年(承応1年)道寛親王を付弟とする。1654年(承応3年)護持僧。1658年(万治1年)閏12月23日白川に移り、照高院と称す。1660年(万治3年)園城寺長吏、熊野三山検校。1661年(寛文1年)1月、禁裏焼失のため、後西天皇が照高院に行幸。1673年(延宝1年)5月、仙洞御所火災のため、霊元天皇らが聖護院に一時行幸。後水尾上皇・後西上皇は照高院に御幸。1675年(延宝3年)京都大火で聖護院焼失。替地を賜る。1679年(延宝7年)6月18日死去。68歳。遍照寺宮と号す。(『要覧』)
(道周法親王) 1613-1634 世代外。照高院門跡。後陽成天皇の皇子。道晃親王の弟。1613年(慶長18年)生。1621年(元和7年)照高院に入室。興意親王の付弟。1625年(寛永2年)実相院義海を戒師として得度。1626年(寛永3年)親王宣下。1634年(寛永11年)、兄の道晃親王と園城寺長吏争い。同年11月28日死去。22歳。興善寺と号す。(『要覧』)
30 道寛法親王 1647-1676 園城寺長吏112世。後水尾天皇皇子。1647年(正保4年)生。近衛尚嗣の猶子。1652年(承応1年)、聖護院入室。1656年(明暦2年)親王宣下。1657年(明暦3年)得度して道晃親王の弟子となる。1665年(寛文5年)大峰山入峰。10月15日駈出参内。江戸に下向して将軍家綱を加持。1668年(寛文8年)一身阿闍梨。同年園城寺唐院で道晃親王を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。護持僧。同年7月29日長吏拝堂。1675年(延宝3年)江戸下向。寛永寺で徳川家光25回忌。4月、照高院に隠居を幕府に申請。閏4月帰京。同年京都大火で聖護院焼失。1676年(延宝4年)3月8日死去。30歳。浄願寺と号す。(『要覧』)
31 道祐法親王 1670-1690 園城寺長吏113世。後西天皇皇子。1670年(寛文10年)生。1680年(延宝8年)6月、将軍徳川家綱死去のため江戸下向。11月12日、親王宣下。11月27日実相院義延親王を戒師として聖護院に入室得度。1683年(天和3年)9月12日、江戸城の将軍徳川綱吉の継承に参列。10月29日円珍800年遠忌を7年引き上げで実施。1686年(貞享3年)4月11日長吏拝堂。1687年(貞享4年)二品。同年大峰山入峰。10月10日参内。11月10日将軍を加持。13日寛永寺と増上寺に参詣。1690年(元禄3年)一身阿闍梨。同年、積善院宥雅を大阿闍梨として園城寺唐院で伝法灌頂を受ける。同年12月18日死去。21歳。浄心寺と号す。(『要覧』)
32 道尊法親王 1675-1705 1691-1703 園城寺長吏。円満院門跡から転任。照高院門跡5世。後西天皇皇子。1675年(延宝3年)生。1678年(延宝6年)6月6日円満院に入室。12月親王宣下。1686年(貞享3年)4月9日、園城寺に移る。4月14日実相院義延を戒師として得度。1690年(元禄3年)11月29日園城寺長吏。1691年(元禄4年)6月5日、聖護院に転じて道尊を改名。熊野三山検校。8月26日長吏拝堂。1693年(元禄6年)大峰山入峰。10月11日駈出参内参院。1698年(元禄11年)一身阿闍梨。1699年(元禄12年)4月、園城寺唐院で晃諄を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。同年6月4日箕面山役小角1000年遠忌。10日帰京。1703年(元禄16年)3月27日園城寺長吏を辞す。3月29日、照高院に隠居。4月24日、道承親王が聖護院に入室。1705年(宝永2年)9月28日死去。31歳。初名は「行慧法親王」。浄光寺と号す。(『要覧』)
33 道承法親王 1695-1714 1703-1714 園城寺長吏115世。伏見宮邦永親王王子。東山天皇養子。1695年(元禄8年)生。1703年(元禄16年)親王宣下。4月29日、住心院晃諄を戒師として得度。1705年(宝永2年)園城寺長吏。1707年(宝永4年)京都大火で霊元上皇が聖護院に御幸。1709年(宝永6年)8月27日長吏拝堂。1713年(正徳3年)中御門天皇、近隣火災のため聖護院に行幸。同年大峰山入峰。8月、龍泉寺本堂再興供養。10月10日駈出参内。関東下向。将軍を加持。1714年(正徳4年)7月9日死去。20歳。深妙光寺と号す。(『要覧』)
34 忠誉法親王 1722-1788 1799-1752、1770-1788 園城寺長吏116世。中御門天皇第三皇子。1722年(享保7年)生。1723年(享保8年)聖護院相続。1732年(享保17年)親王宣下。1733年(享保18年)住心院晃珍を戒師として聖護院に入室得度。1738年(元文3年)9月18日、園城寺長吏。1740年(元文5年)10月21日長吏拝堂。同月、円珍850年遠忌。1741年(寛保1年)12月、長吏を辞す。1752年(宝暦2年)、病により隠居と付弟のことを奏請し認められる。増賞親王に譲り、同年12月21日、照高院に隠居。しかし、増賞親王が1770年(明和7年)閏6月25日に亡くなり、9月14日、勅により聖護院に再任。11月15日照高院を兼務。1771年(明和8年)一品。1772年(安永1年)7月24日、園城寺長吏。同年、祐宮を付弟とするが、1779年(安永8年)に祐宮は光格天皇に即位。1780年(安永9年)、円融院の盈仁親王を聖護院の付弟とする。1788年(天明8年)准三宮宣下。4月10日、病療養のため照高院に移住。翌日死去。67歳。紫金光聚寺と号す。(『要覧』)
35 増賞法親王 1734-1770 1752-1770 園城寺長吏。実相院門跡有栖川宮職仁親王王子。桜町天皇猶子。1734年(享保19年)生。1741年(寛保1年)実相院相続。1746年(延享3年)親王宣下。同年、円満院祐常を戒師として実相院に入室得度。1752年(宝暦2年)聖護院忠誉親王、病のため、隠居と付弟のことを奏請し、7月19日、増賞親王を付弟とする。12月25日、実相院から聖護院に移り、熊野三山検校、新熊野検校に補任。1753年(宝暦3年)12月15日、園城寺長吏。1756年(宝暦6年)10月19日長吏拝堂。1757年(宝暦7年)7月、大峰山入峰。10月10日駈出参内。11月、江戸で将軍徳川家重と対面。1767年(明和4年)12月18日、園城寺長吏。1769年(明和6年)護持僧。1770年(明和7年)護持僧辞す。閏6月25日死去。37歳。至誠心寺と号す。(『要覧』)
(祐宮) 1771-1840 世代外。光格天皇閑院宮典仁親王第六王子。1771年(明和8年)生。1772年(安永1年)9月16日、忠誉親王の付弟となる。1779年(安永8年)11月8日、後桃園天皇(実は既に10月29日に崩御)の養子、皇太子となり、11月25日践祚。1840年(天保11年)崩御。(『要覧』)
36 盈仁法親王 1764-1830 園城寺長吏119世。閑院宮典仁親王第七王子。後桃園天皇養子。光格天皇の実弟。1772年(安永1年)生(1764年(明和1年)とも)。1773年(安永2年)10月28日、円融院を相続。1780年(安永9年)、忠誉親王の付弟となる。1781年(天明1年)親王宣下。1782年(天明2年)忠誉親王を戒師として聖護院に入室得度。同年改衣。1785年(天明5年)四度加行。1786年(天明6年)二品。1788年(天明8年)1月29日、内裏炎上につき光格天皇が聖護院を仮皇居とする(11月まで)。3月29日、園城寺長吏。9月10日長吏拝堂。19日、園城寺で勅会円珍900年遠忌。1799年(寛政11年)、箕面山で勅会役小角1100遠忌。同年護持僧。1800年(寛政12年)一身阿闍梨。同年、住心院賞〓を大阿闍梨として園城寺唐院で伝法灌頂を受ける。同年唐院で三峰山日俊に伝法灌頂。1806年(文化3年)大峰山入峰。1807年(文化4年)江戸で田安家の役行者像を開眼。1814年(文化11年)護持僧を辞す。1830年(天保1年)11月22日、園城寺長吏を退任。翌日死去。59歳。光明照寺と号す。著書に『東行之記』。(『要覧』)
(万寿宮) 1819-1831 世代外。伏見宮貞敬親王王子。光格天皇養子。1819年(文政2年)生。1830年(天保1年)11月16日、盈仁親王の付弟となる。1831年(天保2年)5月4日死去。12歳。懐宮。清浄厳院と号す。(『要覧』)
37 雄仁法親王 1821-1868 園城寺長吏121世。伏見宮邦家親王の王子。光格天皇養子。聖護院宮嘉言親王。1821年(文政4年)1月26日生。万寿宮が死去した1831年(天保2年)5月4日、聖護院を相続し盈仁親王の死後の付弟となる。1832年(天保3年)2月2日、親王宣下。同年2月28日、聖護院に入室し、実相院義海を戒師として得度。同年5月8日、改衣、園城寺長吏。29日拝堂。11月5日盈源を阿闍梨として四度加行。1838年(天保9年)一身阿闍梨、二品。同年10月11日、園城寺唐院で若王子盈源を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。同年10月21日、高牟婁院玄海に伝法灌頂を授ける。1839年(天保10年)大峰山入峰。1840年(天保11年)那智山別所堂本尊を再興。同年8月、園城寺で勅会円珍950年遠忌。1841年(天保12年)8月、江戸に下向し、将軍徳川家慶を加持。9月、八菅山を登拝。1847年(弘化4年)護持僧。1848年(嘉永1年)、因幡堂平等寺の開扉勅会の曼荼羅供導師を務めた。1849年(嘉永2年)3月、葛城山巡拝。1853年(嘉永6年)4月、内裏炎上のため、孝明天皇と祐宮(明治天皇)が聖護院を仮皇居とする。1856年(安政3年)三室戸寺開扉勅会の導師。1857年(安政4年)園城寺唐院で住心院雄真に伝法灌頂。同年、解脱寺の灌室を聖護院に移して伝法灌頂を行う勅許を得る。同年、聖護院で伝法灌頂。1859年(安政6年)一品。1862年(文久2年)8月、護持僧退任。1868年(明治1年)1月7日、勅で還俗。一品を辞す。1月9日、新政府の議定となる。園城寺長吏を解かれ、園城寺別当、修験管領に補任。1月15日、二品。1月23日、内国事務総裁。2月10日、大阪行幸につき海軍総督。1868年(明治1年)8月11日死去。48歳。普賢心寺と称す。(『要覧』)
38 信仁法親王 1856-1872 北白川宮智成親王として知られる。最後の熊野三山検校という。園城寺別当。伏見宮邦家親王の第十三王子。孝明天皇養子。1856年(安政3年)生。1860年(万延1年)雄仁親王養子となり聖護院を相続し付弟となる。1866年(慶応2年)2月9日、親王宣下。同年2月24日、雄仁親王を戒師として入室得度。翌日、朝廷から「聖護院新宮」と称することを達せられる。5月29日改衣。1868年(明治1年)1月8日照高院宮と称す。同年閏4月15日、還俗して聖護院宮の子として相続し、智成親王と名乗る。同年8月10日、園城寺別当。1870年(明治3年)聖護院と照高院が分離される。同年12月、北白川宮と称し、東京移住。1872年(明治5年)1月2日死去。(『要覧』)(『望月』『仏家』『華頂』『御法系』になし)
39 田中敬心 1844-1912 1873-1878 1844年(弘化1年)生。尾張国知多郡出身。田中半右衛門の三男。1857年(安政4年)十禅寺に入寺して法明院敬彦を戒師として得度。1860年(万延1年)権大僧都法印。1861年(文久1年)園城寺交衆となり修学。1863年(文久3年)敬純を阿闍梨として四度加行。1864年(元治1年)6月11日十禅寺住職。1867年(慶応3年)2月、聖護院宮付弟となる。1868年(明治1年)4月25日、聖護院「再興由緒書」を提出。1873年(明治6年)3月9日、聖護院住職。1878年(明治11年)10月5日、聖護院住職および教導職を辞職。のち還俗。1912年(大正1年)死去。69歳。(要覧)
40 石座密道 生没年不詳 1878-1879 実相院住職。1878年(明治11年)11月22日、聖護院を兼務。翌年兼務停止。1880年(明治13年)11月22日、山科祐玉を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。(要覧)
41 山科祐玉 1820-1891 1879-1881 園城寺長吏122世。円満院門跡。天台宗管長。天台宗寺門派管長。金乗院南松院を歴任。山科言知の子。1820年(文政3年)生。1850年(嘉永3年)権僧正。1857年(安政4年)雄仁親王を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。1872年(明治5年)8月3日、天台宗管長。1873年(明治6年)3月17日辞任。1874年(明治7年)5月19日、天台宗寺門派管長。1879年(明治12年)聖護院住職。1880年(明治13年)聖護院入室。1881年(明治14年)1月6日、園城寺住職に就任。この時、聖護院住職は退任か。1891年(明治24年)月4日死去。(要覧)
42 藤谷雄真 1836-1893 1882-1893 住心院住職。藤谷為知の子。1836年(天保7年)生。1848年(嘉永1年)住心院に入り得度。1850年(嘉永3年)、雄仁親王につき加行。1857年(安政4年)、園城寺唐院で雄仁親王を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。同年、護持僧。1859年(安政6年)権僧正。1863年(文久3年)7月~8月、攘夷祈願の勅命で大峰山入峰。1870年(明治3年)3月、南光坊有知から深仙灌頂を受ける。1871年(明治4年)7月、聖護院留主居。1873年(明治6年)3月、聖護院留主居を退任。1882年(明治15年)10月20日、聖護院住職。1886年(明治19年)深仙灌頂(『修験道その歴史と修行』)。1888年(明治21年)7月、権少僧正、改めて聖護院住職に任命される。1893年(明治26年)2月17日死去。本覚心寺と号す。大僧正。(要覧)
(富小路寛巽) 生没年不詳 『望月』と『仏家』にはあるが、『要覧』になし。
43 原敬明 ?-1903 1894-1903 滋賀県出身。1894年(明治27年)9月28日、聖護院住職に就任。1903年(明治36年)死去。(要覧)
44 直林敬円 ?-1922 1897-1905 園城寺長吏124世。実相院門跡。円満院門跡。瀧安寺住職。園城寺法明院住職。1893年(明治26年)11月20日寺門派法務局執事長。1895年(明治28年)11月12日、山科祐玉を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。1897年(明治30年)、聖護院住職。1899年(明治32年)5月11日、役小角1200年遠忌を聖護院で営む。12日から500人規模の入峰を実施。瀧安寺、金峰山寺、龍泉寺、山上本堂(大峰山寺)、小笹、前鬼を巡る。以後、聖護院入峰修行は毎年恒例となる。また大峰山で深仙灌頂を行う。同年6月18日、聖護院保存頼母子講を設置。1901年(明治34年)3月26日、寺門派長吏事務取扱。1905年(明治38年)4月12日、三門跡住職の選挙が初めて行われ、円満院門跡に当選。1906年(明治39年)2月16日寺門派長吏に当選(園城寺長吏124世)。1921年(大正10年)9月16日、長吏選挙で当選し長吏再任。1922年(大正11年)8月21日死去。初名は「寛良」。フェノロサに授戒したことで知られる。(要覧、『修験道その歴史と修行』ほか)
45 樋上顕定 ?-1906 1905-1906 園城寺長吏123世。瀧安寺住職。1895年(明治28年)11月15日、山科祐玉を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。1905年(明治38年)4月12日、園城寺で初めての三門跡住職の選挙が行われ、聖護院門跡に当選。同年5月1日、新宗制施行と同時に寺門派長吏に就任。1906年(明治39年)1月24日死去。(要覧)
46 岩本恭随 1863-1922 (事務取扱) 三室戸寺住職。最勝院・峰定寺・喜蔵院を兼務。1863年(文久3年)生。1875年(明治8年)10月、三室戸寺に入り、岩本恭孝の法嗣となる。1880年(明治13年)7月、園城寺戒壇で山科祐玉から受戒。1886年(明治19年)深仙灌頂を受ける。1891年(明治24年)園城寺本行院住職。1893年(明治26年)5月、聖護院執事となり、聖護院住職事務取扱に就く。1906年(明治39年)1月、先代の死去で事実上の門主だったが、肩書は事務取扱のままだった。1915年(大正4年)4月、聖護院で増誉800年遠忌。1917年(大正6年)9月、嘉言親王50回忌。1922年(大正11年)、30年間途絶えていた深仙灌頂を復興。1922年(大正11年)7月26日、三室戸寺で死去。瑞雲とも。常住院と号す。回顧録『恭随老師』がある。(要覧)
47 柳田暹〓 1971-1933 1923-1933 園城寺勧学院住職。1913年(大正2年)11月16日、園城寺唐院で伝法灌頂を受ける。1922年(大正11年)8月26日、寺門派長吏事務取扱。同年12月10日、三門跡住職選挙で聖護院門跡に当選するが翌年1月7日、3人とも就任を辞退(しかし、最終的に就任か)。1923年(大正12年)4月1日、寺門派長吏選挙で当選。25日に長吏拝堂式。1933年(昭和8年)4月30日死去。(要覧)
48 原敬譲 1878-1938 1935-1938 十禅寺住職。京都山科出身。俗姓は西村。1878年(明治11年)生。1890年(明治23年)田中敬心に師事。山科祐玉を戒師として得度。1914年(大正3年)までには十禅寺住職に就任。1922年(大正11年)7月、岩本恭随を大阿闍梨として深仙灌頂を受ける。1930年(昭和5年)4月、園城寺唐院で柳田暹〓を大阿闍梨として伝法灌頂を受ける。1933年(昭和8年)聖護院住職。1938年(昭和13年)7月28日死去。61歳。(要覧)
49 岩本光徹 ?-1982 1938-1982 三室戸寺住職。積善院・最勝院・喜蔵院・峰定寺・瀧安寺を兼務。岡山県出身。1898年(明治31年)岩本恭随に師事。1938年(昭和13年)8月、聖護院住職。1946年(昭和21年)、合同天台宗を離脱し、修験宗を設立し、その初代管長となる。1950年(昭和25年)深仙灌頂を開く。1961年(昭和36年)、修験宗が本山修験宗、本修験宗、修験宗の三派に分裂。本山修験宗の管長に就任。1980年(昭和55年)、本山修験宗と修験宗が合併し、本山修験宗となる。1982年(昭和57年)1月8日死去。100歳。(要覧、修験道辞典)
50 伊丹光淳 1982-1985 本山修験宗2代管長。三室戸寺住職。岡山県出身。岡山県師範学校卒。1942年(昭和17年)宝積院代務。1960年(昭和35年)4月三室戸寺住職。1968年(昭和43年)7月、本山修験宗教務部長。1980年(昭和55年)財務部長。1981年(昭和56年)深仙灌頂を受ける。1982年(昭和57年)2月、管長に当選。1985年(昭和60年)任期満了で退任。
51 加来徳泉 1985-2007 1924年(大正13年)生。1940年(昭和15年)岩本光徹のもとで得度し、聖護院に入寺。1953年(昭和28年)亀岡金輪寺住職。1982年(昭和57年)本山修験宗宗務総長。1985年(昭和60年)7月就任か。
52 宮城泰年 1931- 2007- 1931年(昭和6年)12月28日生。1944年(昭和19年)、岩本光徹から得度受戒。1954年(昭和29年)龍谷大学文学部卒。同年3月から1957年(昭和32年)7月まで新関西新聞社で記者。1957年(昭和32年)聖護院門跡に勤務。1974年(昭和49年)11月、ベトナム支援。1974年(昭和49年)から2004年(平成16年)まで聖護院門跡執事長。1985年(昭和60年)から2007年(平成19年)まで本山修験宗宗務総長。2007年(平成19年)6月、聖護院門跡門主・本山修験宗管長4代。著書多数。
  • 『修験道聖護院史要覧』による。
  • 『望月仏教大辞典』、『日本仏家人名辞書』
  • 「聖護院」『諸門跡承伝系図』[2]
  • 「諸門跡伝―円満院・聖護院・実相院・照高院」『華頂要略』143[3]


  • 「聖護院御門跡相承伝記」
  • 「深仙灌頂系譜」[4]
  • 「聖門御累代記」[5]
  • 「本山修験伝記」[6]
  • 「熊野山別当次第」[7]
  • 「熊野山検校次第」[8]
  • 「新熊野山別当次第」[9]
  • 「新熊野山検校次第」[10]
  • 「聖門伝」
  • 「本山家伝統系譜」(『踏雲録事』所収)[11]


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資料

資料集・図録

  • 中村保良1977『聖護院関係文書』地方史研究所
  • 2015『聖護院門跡の名宝 増誉大僧正900年遠忌記念』龍谷大学龍谷ミュージアム
  • 首藤善樹2014『修験道聖護院史辞典』岩田書院
  • 首藤善樹2015『修験道聖護院史要覧』岩田書院
  • 首藤善樹・坂口太郎・青谷美羽編2014『住心院文書』思文閣出版

文献

  • 三井豊興1918『修験道』[12]
  • 和歌森太郎『修験道史研究』
  • 宮家準1973『山伏―その行動と思想』
  • 宮家準2012「聖護院と地方本山派組織」[13]
  • 首藤善樹1978「聖護院道承親王の入峰紀行」『国史学研究』4
  • 浅田正博1980「積善院宥雅について―聖護院調査中間報告」[14]
  • 浅田正博1983「宝地房証真の真蹟本の発見―聖護院所蔵『山門雑記』をめぐって」『印度學佛教學研究』31(2)[15]
  • 浅田正博1984「円珍真筆本の発見―聖護院所蔵『三部曼茶』について」『龍谷大學論集』424
  • 浅田正博1990「聖護院所蔵『修要秘決伝講筆記』について―特に衣体分十二通を中心として」『佛教學研究』45
  • 土居次義1985「聖護院の水墨屏風と狩野松栄」『日本美術工芸』563
  • 林淳1991「文化七年における土御門家と聖護院の争論―聖護院文書の一史料の紹介」『人間文化―愛知学院大学人間文化研究所紀要』6[16]
  • 日下幸男編1992『近世初期聖護院門跡の文事―付旧蔵書目録』:聖護院蔵書に関する論文一覧あり
  • 酒井彰子1992「中世園城寺の門跡と熊野三山検校職の相承―常住院から聖護院へ」『文化史学』48
  • 糸賀茂男1993「聖護院道興筆天神名号と史的背景」『茨城県史研究』70
  • 中田徹1997 「古河公方と聖護院門跡の間」[17]
  • 三保サト子2001「中世寺院の芸能と文化―聖護院の場合」『島根国語国文』12
  • 2006『聖護院 大峰・葛城の行者 中淳志写真集』
  • 杉中浩一郎2005「聖護院門跡入峰の中辺路通行」『山岳修験』36
  • 小田匡保2005「近代における大峰の入峰ルート―戦前期の聖護院の入峰を中心に」『山岳修験』36
  • 青谷美羽2006「明治初年における修験道本山の動向―聖護院の事例」『山岳修験』37
  • 小田匡保2006「近代の大峰入峰前後における交通機関の利用と社寺参拝」『日本地理学会発表要旨集』69
  • 小田匡保2007「戦前期の大峰入峰における山岳修行前後の旅程と社寺参拝」『駒沢地理』43
  • 小田匡保2008「明治33年における聖護院の大峰入峰記録」『地域学研究』21[18]
  • 青谷美羽2008「明治期の聖護院大峰修行―近代の皇族と門跡との関係構築に関する一考察」『日本宗教文化史研究』121
  • 吉野朋美2010「聖護院道興筆『袖中最要抄』の翻刻と略注(1)」『紀要.言語・文学・文化』105(229)
  • 吉野朋美2013「聖護院道興筆『袖中最要抄』の翻刻と略注(2)」『紀要.言語・文学・文化』111(244)[19]
  • 吉野朋美2017「聖護院道興筆『袖中最要抄』の翻刻と略注(3)」『中央大学文学部紀要』264[20]
  • 近藤祐介2010「後北条領国における聖護院門跡と山伏」『室町戦国期の社会構造』
  • 近藤祐介2017「聖護院門跡の成立と展開」『中世の門跡と公武権力』戎光祥出版
  • 近藤祐介2017『修験道本山派成立史の研究』校倉書房
  • 小田匡保2013「戦後における聖護院の大峰入峰」『山岳修験』51
  • 宮城泰年2014「書評と紹介―首藤善樹著『聖護院史研究』」『山岳修験』54
  • 小内潤治2014『熊野信仰の諸相―中世から近世における熊野本願所と修験道』宮帯出版社
  • 長谷川賢二2016『修験道組織の形成と地域社会』岩田書院
  • 草分顕岳2016「書評と紹介―首藤善樹・坂口太郎・青谷美羽編『住心院文書』」『山岳修験』57
  • 橋本章2018「祇園祭・山伏山と聖護院―明治14年寄附不動袈裟とその添状から」『朱雀―京都文化博物館研究紀要』30
  • 研究雑誌2013『聖護院史研究』1-3:刊行中断?

本山派関係

  • 高埜利彦1979「幕藩制国家と本末体制」
  • 新城美恵子1980「聖護院系教派修験道成立の過程」『法政史学』32[21]
  • 新城美恵子1999『本山派修験と熊野先達』
  • 恵津森義行1986「中世東国における熊野先達の存在形態」[22]
  • 恵津森義行1996「戦国期関東における熊野先達の存在形態―聖護院支配の武蔵における展開と年行事間の相論を中心として」『日本史論叢』
  • 恵津森義行2018「戦国期関東における熊野先達の存在形態―聖護院支配の武蔵における展開と年行事間の相論を中心として」『山岳修験』61
  • 石倉孝祐1991「中世後期における聖護院在地支配の展開―磐城地方の動向を中心に」『神道宗教』145
  • 別府信吾1994「近世後期、児島五流の昇進問題―岡山藩と聖護院門跡」『倉敷の歴史倉敷市史紀要』4
  • 西海賢二2000「新城美恵子著『本山派修験と熊野先達』の刊行をめぐって」『山岳修験』25
  • 大越良裕2001「戦国大名伊達氏と本山派修験道―天正七年聖護院門跡道澄羽州米沢下向の検討を通じて」『山岳修験』27
  • 森幸夫2002「本山派修験小田原玉瀧坊について―北条氏綱と聖護院」『戦国史研究』44
  • 大石雅章2004「天台聖護院末粉河寺と聖の別院誓度院」『延暦寺と中世社会』法藏館
  • 田島光男2004「松本寿雄氏所蔵聖護院末修験権現堂文書について」『神奈川県立公文書館紀要』5
  • 鳴戸昌弘2007「聖護院と南光坊」『山岳修験』40
  • 荻島聖美2008「聖護院による山伏組織化についての再検討」『お茶の水史学』52[23]
  • 近藤祐介2010「修験道本山派における戦国期的構造の出現」[24]
  • 近藤祐介2010「聖護院門跡と「門下」―一五世紀を中心に」[25]
  • 首藤善樹2012「近世における聖護院門跡と本山修験―聖護院文書を読む」『山岳修験』50
  • 大森恵子2012「愛宕山の修験道―火・水と山の念仏を中心にして」『山岳修験』50
  • 大高康正2012「富士村山修験と聖護院」『山岳修験』50
  • 森弘子2012「宝満山と聖護院そして彦山―本末論争の前提と結末」『山岳修験』50
  • 西村敏也2012「三峰観音院と聖護院」『山岳修験』50
  • 森毅2012「盛岡藩自光坊快孝と維新の聖護院」『山岳修験』50
  • 西村慎太郎2012「秩父今宮神社と維新期の文書」『寺社と民衆』8
  • 2012『富士山村山古道を歩く―本山修験宗聖護院富士山峯入り修行復活記念―富士山表口登山道全図』
  • 長谷川賢二2016『修験道組織の形成と地域社会』

脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%81%96%E8%AD%B7%E9%99%A2」より作成

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