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広隆寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年6月5日 (月)
広隆寺(こうりゅうじ)は、京都府京都市右京区太秦(山城国葛野郡)にある、聖徳太子ゆかりの真言宗寺院。本尊は聖徳太子。秦氏の氏寺。定額寺。秦河勝が太子から仏像を賜って祀ったのが始まりという。聖徳太子建立四十六寺の一つ。現在は真言宗単立か。天皇即位ごとに聖徳太子像に天皇の御衣である「御束帯黄櫨染御袍」が寄進されている。鎮守は大酒神社。山号は蜂岡山。別称は蜂岡寺、太秦寺、秦寺、秦公寺、葛野寺。
目次 |
歴史
『日本書紀』603年(推古11年)11月条に秦河勝が太子から授けられた仏像をまつるために創建したとある。あるいは太子の御所だったともいう。 北野廃寺が旧地という説がある。 古くは弥勒菩薩が本尊だった。
中世は大覚寺兼務だったが、のち仁和寺末となり近年まで真言宗御室派だった。
伽藍
- 上宮王院:本尊は聖徳太子。太子殿。現在の本堂。本尊の太子像は歴代天皇から御袍が寄進される。毎年11月22日開扉、1730年(享保15年)再建。拝殿と本殿からなる。
- 桂宮院:八角円堂。西大寺流の律寺。叡尊門下の中観澄禅が1251年(建長3年)に再建。
- 講堂:本尊は阿弥陀如来、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩。1165年(永万1年)の再建で、京都現存最古の建物とも。赤堂。
- 太秦殿:祭神は太秦明神、漢織女、呉秦女。
- 薬師堂:阿弥陀如来三尊、薬師如来、不動明王、空海、聖宝、道昌を祀る。
- 大酒神社:元は桂宮院内にあった。
- 地蔵堂:本尊は腹帯地蔵。
- 新霊宝殿:弥勒菩薩半跏思惟像など多くの仏像を祀る。
子院
- 法輪寺:塔中並。
- 尊覚院:塔中。本坊。
- 勝鬘院:塔中。覚夢庵を兼務。
- 福生院:塔中。
- 東陽院:塔中。
- 十輪院:塔中。円通庵・恒順軒を兼務。
- 密厳院:塔中。
- 真珠院:塔中。慈観院を兼務。
- 最勝院:塔中。
- 等覚院:塔中。
- 法承院:塔中。嘯月庵
- 林鐘坊:塔中。俊精庵を兼務。
- 陽春坊:塔中。
- 隆円坊:塔中。
- 宝幢院:末寺当所。
- 恵寂庵:末寺当所。
- 法雲院:臨済宗永源寺末。本尊は千手観音。子院総持寺の跡に創建。烏丸家の菩提寺。現存。父井伊直孝に処分された井伊直滋の菩提寺を非公式に建てるため、1661年、烏丸資慶が永源寺の如雪文巌を招き、祖父烏丸光広の遺骸を移し創建。一絲文守を勧請開山とした。烏丸家から出た裏松家と勘解由小路家の墓地もある。山号は龍臥山。
- 常楽寺:浄土宗無本寺。
- 地蔵院:浄土宗無本寺。
関連旧跡
- 北野廃寺:広隆寺の前身寺院という説がある。
- 太秦・西光寺:広隆寺の子院が起源か。
- 太秦・安養寺:広隆寺縁起と関わる。
- 文徳天皇陵:陵墓に近いことから天皇の葬儀の時に僧侶10人を広隆寺に集め、49日間読経させたという。
組織
別当
- 1道昭(629-700)<664-675>:法相宗の学僧。玄奘に学ぶ。664年(天智3年)広隆寺別当。寺務11年。法興寺東南院を創建。門下に行基。
- 2道慈(?-744)<675-735>:三論宗の学僧。大安寺に住す。675年(天武4年)4月広隆寺別当就任。寺務60年。
- 3道騰()<735-738>:740年(天平12年)か735年(天平7年)広隆寺別当。寺務3年。
- 4道聴()<738-743>:738年(天平10年)9月広隆寺別当。寺務5年。
- 5道慈()<743-745>:743年(天平15年)広隆寺別当再任。寺務2年。
- 6玄耀()<745-774>:東大寺の僧。745年(天平17年)広隆寺別当。寺務29年。
- 7明澄()<774-779>:774年(宝亀5年)広隆寺別当就任。寺務35年。795年(延暦14年)、寺内争論で衰退。
- 泰鳳
- 8宣融()<809->:809年(大同4年)広隆寺別当就任。寺務35年。
- 9道昌(798-875)<812-862>:秦氏。812年(弘仁3年)1月21日広隆寺別当就任。寺務41年。または24年・27年。明澄の弟子。隆城寺別当。元興寺別当。嵯峨法輪寺再興。行基の再来と称された。
- 10玄虚(生没年不詳)<862-890>:『広隆寺縁起資財帳』に名がある。862年(貞観4年)4月7日広隆寺別当就任。道昌の譲りで、広隆寺と隆城寺を兼任。寺務29年。
- 11良照()<890-909>:890年(寛平2年)10月8日広隆寺別当就任。玄虚の譲りで就任。寺務20年。
- 12増命()<909-923>:909年(延喜9年)閏8月11日広隆寺別当就任。尊重院座主。寺務14年。
- 13延鑑()<923-965>:元興寺検校。923年(延長1年)3月9日広隆寺別当就任。寺務39年または42年。
- 14安快()<965-987>:元興寺検校。965年(康保2年)6月23日広隆寺別当就任。隆城寺別当を兼任。寺務26年。22年とも。
- 15照定()<987-987>:987年(永延1年)8月17日広隆寺別当就任。寺務半年未満。
- 16松護()<987-987>:987年(永延1年)広隆寺別当就任。寺務半年未満。
- 17松与()<987-1006>:松興。『日本紀略』1005年(寛弘2年)条に「広隆寺別当松興」とある。松護の辞任で987年(永延1年)8月17日広隆寺別当就任。寺務19年。
- 18長玄()<1006-1008>:元興寺。松与の譲で、1006年(寛弘3年)12月広隆寺別当就任。寺務半年または2年。
- 19安祐()<1008-1015>:元興寺、東寺。1008年(寛弘5年)12月29日広隆寺別当就任。寺務7または8年。
- 20観恩()<1015-1024>:元興寺検校。東寺。1015年(長和4年)8月27日広隆寺別当就任。寺務9年。
- 21時昌()<1024-1049>:元興寺少別当。東寺。1024年(万寿1年)8月7日広隆寺別当就任。寺務25年。
- 22光円()<1049-1053>:元興寺検校。東寺に入る。1049年(永承4年)6月17日広隆寺別当就任。寺務4年。
- 23時円()<1053-1097>:元興寺別当。1053年(天喜1年)12月29日広隆寺別当就任。寺務44年。道昌の法流の最後。
- 24増誉(1032-1116)<1097-1116>:天台宗の僧侶。聖護院開山。熊野三山検校初代。園城寺長吏、天台座主。法務。1097年(承徳1年)広隆寺別当就任。寺務16年。
- 25寛助(1057-1125)<1116-1125>:真言宗の僧侶。1116年(永久4年)5月23日広隆寺別当就任。寺務10年。東寺長者、法務、東大寺別当、法勝寺別当、遍照寺別当、仁和寺別当、円教寺別当、円宗寺別当を歴任。以後、真言宗の相承となる。(略歴は東大寺#組織を参照)
- 26勝覚(1058-1129)<1125-1129>:源氏。源俊房の子。東寺長者。醍醐寺座主。東大寺別当。法務。醍醐寺三宝院を創建。1125年(天治2年)広隆寺別当就任。寺務5年。
- 27良実()<1129-1133>:1129年(大治4年)9月19日広隆寺別当就任。寺務4年。
- 28信證(1098-1142)<1133-1142>:後三条天皇の皇孫。輔仁親王王子。1133年(長承2年)12月広隆寺別当(1132年(長承1年)とも)。西院流の祖。東寺長者。法務。鳥羽上皇出家の戒師。
- 29寛遍(1100-1166)<1142-1158>:忍辱山流の祖。円成寺を再興。東寺長者。法務。東大寺別当。仁和寺別当。円教寺別当。1142年(康治1年)広隆寺別当(1141年(永治1年)3月とも)。寺務16年。(略歴は東大寺#組織を参照)
- 30寛敏(?-1182)<1158->:仁和寺で出家。寛遍の弟子。1158年(保元3年)5月、広隆寺別当。寺務14年。
- 31禎喜(1099-1183)<1182-1183>:東寺長者。六勝寺別当。東大寺別当。1182年(寿永1年)広隆寺別当。1171年(承安1年)1月19日就任とも。寺務12年。(略歴は東大寺#組織を参照)
- 32真禎(1169-?)<1183-1227>:後白河天皇第十一皇子。1183年(寿永2年)、禎喜の譲りにより就任。寺務40年。承久の乱に連座して1228年(安貞2年)、配流。通称は太秦宮、持明院宮。
- 33道深法親王(1206-1249)<1227-1234>:後高倉院守貞親王第二皇子。1227年(安貞1年)12月3日広隆寺別当就任。寺務8年。六勝寺検校。仁和寺門跡。金剛定院御室。
- 34良恵()<1234->:1234年(文暦1年)4月7日広隆寺別当就任。上乗院僧正。
- 35道乗(1215-1273)<>:頼仁親王の王子。仁和寺上乗院初代か。蓮華光院門跡住職。東寺長者。法務。小島宮と呼ばれた。五流尊瀧院を継いだともいう。
- 36法助(1227-1284)<>:御室。九条道家の子。
- 37益助法親王()<>:岩蔵宮出身。下河原宮。仁和寺上乗院。蓮華光院門跡。
- 38有助()<>:法務。忍辱山。
- 39益性法親王()<>:亀山天皇皇子。仁和寺上乗院。蓮華光院門跡。遍照寺宮。
- 40賢俊(1299-1357)<>:法務。三宝院。
- 41寛守法親王()<>:仁和寺上乗院。蓮華光院門跡住職
- 42寛性法親王(1289-1346)<>:伏見天皇第三皇子。仁和寺門跡。常瑜伽院御室。
- 43乗朝法親王(生没年不詳)<>:常盤井宮恒明親王王子。仁和寺上乗院。蓮華光院門跡。
- 44道朝法親王(1378-1446)<>:後円融天皇第二皇子。仁和寺上乗院。
- 45覚朝()<>:仁和寺上乗院。
- 46覚如(1484-1494)<>:法蓮院宮
- 47(後土御門天皇皇子)()<>:仁和寺上乗院。
- 48光台院宮()<>:仁和寺上乗院。
- 49道永親王()<>:仁和寺後上乗院。
- 50伏見宮王子()<>:
- 51一条家童子()<>:
- 以後、大覚寺兼務
(『広隆寺別当補任次第』)
歴代住職
貫主または貫首と称す。
- 村岡融晃(1855-1911)<>:
- 清瀧智龍()<>:
- 箸蔵善龍(1852-1928)<>:善通寺法主。箸蔵寺出身。
- 清瀧英弘(1916-2000)<>:1984年(昭和59年)以前に退任。2000年(平成12年)12月21日死去。
- 清瀧智弘(-1999)<>:古都税紛争に関わる。1999年(平成11年)死去。
- 清瀧隆智()<>:初名は貴子。2010年(平成22年)以前に就任。
太子像の御袍着装儀礼
本尊の聖徳太子像は像は下着だけを着けた姿で作られており、もともと着装を前提に作られたと考えられている。聖徳太子自作ともされるが平成の調査で、像内の銘から1120年(保安1年)の造立と判明(山崎隆之「広隆寺〓箱の製作法について」[1]:〓は「土寒」)。秘仏だが毎年11月22日に開帳。
「歴代の天皇の御即位礼に際して、その都度天皇の御束帯と同様の御装束が新しく調進され、下賜されて御像に着装されてきた」という。山科流が製作に関わっている。(高田装束研究所「京都・太秦 廣隆寺上宮王院聖徳太子像 御束帯御装束調査について」[2])
天皇寄進による御袍着装儀礼の起源は不詳。後奈良天皇の時に復興。即位や御忌に合わせて実施されたが、寺院主導で行われた。「近世初期から中期にかけては即位式に合わせて実施された天皇主導のものとというよりも、むしろ太子御忌法要や御衣の破損などを理由に寺院が働きかけを行って実施されたものであった」とし、古儀復興の流れとともに光格天皇の頃に即位式に際して行う儀礼形式が一旦確立。「即位式と近接した時期に御袍着装を実施され、天皇一代を通じて着装される形式が本格的に成立しているのは、明治天皇以降となっていることが判明した」としている。(近藤絢音2014「近世の朝廷における聖徳太子信仰」[3]、「近世における聖徳太子信仰とその展開」[4])
真偽不明だが明治憲法制定の時、「宮中に参進遊ばされ、明治天皇に御対面の事は寺伝に審かにされている」という(『聖徳皇太子憲法釈義』[5])
- 出雲路通次郎「聖徳太子尊像に御贈進の御衣に就いて」(『大礼と朝儀』所収)
- 伊東史朗編1997『調査報告 広隆寺上宮王院聖徳太子像』
世数 | 天皇 | 実施 | 備考 |
---|---|---|---|
105 | 後奈良天皇 | 1532年(天文1年)実施 | 再興 |
106 | 正親町天皇 | 不詳 | |
107 | 後陽成天皇 | 不詳 | |
108 | 後水尾天皇 | 実施 | 青色袍残欠が現存(国史大辞典)。 |
109 | 明正天皇 | なし | |
110 | 後光明天皇 | なし | |
111 | 後西天皇 | 即位6年後 1662年(寛文2年) | 黒みのある黄櫨染御袍が現存(国史大辞典)。 |
112 | 霊元天皇 | なし | |
113 | 東山天皇 | 即位14年後 1701年(元禄14年) | 黒みのある黄櫨染御袍が現存(国史大辞典)。 |
114 | 中御門天皇 | 1720年(享保5年)実施 | 濃厚はあるが赤黄みのある黄櫨染御袍が現存(国史大辞典)。 |
115 | 桜町天皇 | 即位11年後 1746年(延享3年) | |
116 | 桃園天皇 | なし | |
117 | 後桜町天皇 | 即位6年後 1769年(明和6年) | 淡色の黄櫨染御袍が現存(国史大辞典)。 |
118 | 後桃園天皇 | なし | |
119 | 光格天皇 | 1780年(安永9年)5月18日 | 即位同年(即位式以前)。淡色の黄櫨染御袍、桐竹鳳凰麒麟文様の青色袍が現存(国史大辞典)。 |
120 | 仁孝天皇 | 1819年(文政2年)実施 | 淡色の黄櫨染御袍が現存(国史大辞典)。 |
121 | 孝明天皇 | なし?(『廣隆寺史の研究』では1851年(嘉永4年)実施) | |
122 | 明治天皇 | 1870年(明治3年)実施 | 濃い目の黄櫨染御袍が現存(国史大辞典)。 |
123 | 大正天皇 | 1916年(大正5年)実施 | |
124 | 昭和天皇 | 1929年(昭和4年)実施 | |
125 | 上皇 | 1994年(平成6年)11月20日 | |
126 | 今上 | 未定 |
(近藤絢音論文、高田装束研究所ウェブサイト、国史大辞典、林南壽著『廣隆寺史の研究』などよる)
資料
古典籍
- 『広隆寺縁起資財帳』:873年(貞観15年)。
- 『広隆寺資財校替実録帳』:890年(寛平2年)。全1巻。『大日本仏教全書』所収[6]。
- 『広隆寺縁起』:全1巻。『大日本仏教全書』所収[7]。
- 『太秦広隆寺租税録』:全1巻。『秦公寺資材帳租税録』『大日本仏教全書』所収[8]。
- 『山城州葛野郡楓野大堰郷広隆寺来由起』:全1巻。『広隆寺来由記』とも。『大日本仏教全書』所収[9]。『群書類従』24輯所収。
- 『広隆寺并同桂宮院領当知行文書』:全1巻。『大日本仏教全書』所収[10]。
- 『京太秦広隆寺大略縁起』:全1巻。『大日本仏教全書』所収[11]。
- 『広隆寺別当補任次第』:大谷大学所蔵
- 『広隆寺供養日記』:1165年(永万1年)再建時の経緯。『続群書類従』27輯上所収。
- 『広隆寺資財交替実録帳』:『続群書類従』27輯上所収。
- 「山城国太秦広隆寺鐘銘」:『集古十種』所収[12]。『扶桑鐘銘集』所収[13]
- 『太秦広隆寺牛祭祭文』:『大日本仏教全書』所収[14]
- 『広隆寺文書』:中世文書。京都府立京都学・歴彩館所蔵。中集古S123。
文献
- 橋川正1923『太秦広隆寺史』京都太秦聖徳太子報徳会本部
- 京都太秦聖徳太子報徳会1926『京都太秦聖徳太子報徳会誌:附太秦能楽会紀要』京都太秦聖徳太子報徳会本部[17]
- 望月信成1963『広隆寺』山本湖舟写真工芸部
- 水沢澄夫1965『広隆寺』中央公論美術出版
- 1977『古寺巡礼京都13広隆寺』
- 1988『太秦広隆寺』広隆寺
- 2002『国宝広隆寺の仏像』全9冊
- 林南壽2003『廣隆寺史の研究』