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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。東京都の放送局や伊賀でも同様なのか。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

法成寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年4月9日 (火)

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法成寺(ほうじょうじ)は、藤原道長が創建した平安京土御門殿に付属の天台宗寺院。本尊は大日如来。廃絶。土御門殿の東隣にあたり、現在の京都市上京区の鴨沂高校から府立文化芸術会館、府立医科大学河原町キャンパスにかけてあった。子院が独立移転して東北院として残る。尼戒壇が一時的に設けられたことがある。阿弥陀堂が先行して建立されたため、当初は無量寿院と称した。京極御堂ともいう。村山修一は、藤原氏が建てた従来の大寺院との違いとして著しく道長の個性的性格が表れ、「日常生活に直結した仏教的奢侈生活の場としての意味が、比類ないほど強く前面出されてきた」点を指摘している。また思想的統一がないままに、ある時は阿弥陀信仰に頼り、ある時は密教信仰に頼った、貴族の現世的願望が表れているとし、道長の念仏信仰は所詮祈祷の延長にあるものであったとする。

目次

歴史

1016年(長和5年)7月、道長の本拠である土御門殿が焼失。受領を動員して1018年(寛仁2年)8月に豪華絢爛な御殿を再建した。この年、道長は胸痛が頻発し、眼病も患い、寿命が長くないことを悟った。翌年、自ら薙髪して行観(のち行覚)と名乗り、一大寺院の建設を発願した。既に木幡浄妙寺創建や法性寺修復を手掛けていたが、居館土御門殿に隣接する地に自らの趣向を活かした寺院の建設を図った。

1019年(寛仁3年)7月6日、木作りを開始し、土御門殿の再建と同様に受領に造営を請け負わせた。息子の摂政藤原頼通はあまり賛成ではなかったが、結局は協力した。各地から人員を徴発し、建設に当たらせ、毎日500人から千人が従事したという。11月30日阿弥陀仏8体の開眼が成った。翌1020年(寛仁4年)1月15日礎石を据え、19日立柱。2月27日には阿弥陀堂の建設をほぼ終え、阿弥陀仏9体と観音勢至を運びこんだ。同時に薬師堂も完成したという。3月22日、御斎会に准じた法会が行われ、無量寿院と名付けられた。

続いて同年4月28日、十斎堂と法華三昧堂の建設が始まり、十斎堂は閏12月27日に落慶した。金堂は翌1021年(治安1年)6月27日に立柱、1022年(治安2年)7月14日に五大堂とともに落慶した。この時の落慶法要は天皇行幸のもと、盛大に行われた。法成寺と改称し、藤原行成が揮毫したが、「法」の字のサンズイと「去」を非常に離して書いたのは水難を避けるためとの思いからであったという逸話が『明月記』にある。法要には一般庶民も見物に押しかけた。創建に携わった僧侶や仏師・職人に多額の報償が与えられたという。

この後も造営は続けられ、1027年(万寿4年)8月22日には道長が建てた最後の伽藍となる釈迦堂が完成している。同年12月4日に道長は死去した。 また金堂落慶に先立つ1021年(治安1年)12月2日には道長室の倫子により西北院が創建され、道長没後1030年(長元3年)8月21日には長女の彰子により、東北院が創建された。

1058年(康平1年)2月23日、突如炎上し、壮大な伽藍は無に帰した。『扶桑略記』には、金堂、阿弥陀堂、講堂、釈迦堂、薬師堂、五大堂、十斉堂、八角堂、東北院、西北院、戒壇、法華堂、塔、僧房、仏像百体が一瞬にして煙になったと記されている。関白の藤原頼通はすぐさま再建に掛かり、1059年(康平2年)10月12日、阿弥陀堂・五大堂などを完成させた。1079年(承暦3年)10月5日には塔2基を再建。十斉堂、釈迦堂、法華堂も合わせて再建した。1091年(寛治5年)の地震で被災。1117年(永久5年)1月8日、高倉勘解由小路の元出羽守光国の邸から出火した大火で類焼し、塔2基や南大門などが焼けた。関白藤原忠実が修復に当たったが、寺領が押領される例もあり、再建は思うように進まなかった。この頃から衰退し、1171年(承安1年)には東北院が焼失。1254年(建長6年)2月の火災では南大門、金堂、鐘楼、経蔵などが焼損し、正和(1312-1316)ごろの姿を記した『徒然草』には金堂は倒壊のまま放置され、阿弥陀堂のみが形骸を残していたとある。その後廃絶したらしい。

伽藍

福山敏男の復元図によると、金堂を中心に池を囲む形で西側に阿弥陀堂、東側に五大堂があり、回廊で接続していた。金堂には本尊の三丈二尺の金色大日如来が百葉蓮華座に据えられた。各蓮葉には100体の小さな釈迦像が表され、光背にも無数の化仏が取り付けられるなどきらびやかなものだった。左右には金色釈迦薬師文殊弥勒梵天帝釈天四天王が配された。阿弥陀堂は最初に建てられた堂宇で南北に十一間という巨大な規模を持った。阿弥陀堂には丈六金色阿弥陀仏9体、観音菩薩勢至菩薩各1体、梵天、帝釈天、四天王が祀られた。五大堂は藤原氏に恨みを持つものを調伏するために営まれ、二丈の不動明王を中心に丈六の降三世明王軍荼利明王大威徳明王金剛夜叉明王が奉安された。 池には中島が浮かび、舞台があり楽舎があった。回廊の西南には鐘楼、東南には経蔵があり、鐘楼からは西に廊下が伸び、法華三昧堂が接続していた。敷地の東南には八角堂と三重塔があった。五大堂の東側には別棟で薬師堂があった。薬師堂は阿弥陀堂を超える南北十五間の幅で丈六の七仏薬師、日光菩薩月光菩薩、丈六の金色観音、十二神将が祀られた。金堂の西北・東北にはそれぞれ十仏を祀る十斎堂と百体等身釈迦を祀る釈迦堂が別棟であった。金堂の背後には講堂があり、その背後には東西の僧房があった。敷地の西北と東北には道長室の倫子の発願による西北院と長女彰子発願の東北院という別区画があり、それぞれ常行三昧堂があった。西北院に東側には道長の寝殿もあった。

  • 金堂:
  • 阿弥陀堂:
  • 五大堂:
  • 回廊:
  • 法華三昧堂:
  • 八角堂:
  • 塔:
  • 薬師堂:
  • 十斎堂:大日、阿弥陀、薬師、釈迦、普賢、大勢至、地蔵、定光、観音、薬王を祀る。
  • 釈迦堂:
  • 講堂:
  • 僧坊:
  • 東北院:
  • 西北院:

組織

別当・検校

  • 源心(971-1053)<>:天台座主。法成寺権別当。
  • 明快(985-1070)<>:天台座主。恵心院検校。法成寺別当。
  • 心誉()<>:1024年(万寿1年)権大僧都。法成寺別当。
  • 隆明(1019-1104)<>:園城寺長吏。三室戸寺中興。法成寺寺務執行。
  • 増誉(1032-1116)<1098->:1098年(承徳2年)法成寺別当。1102年(康和4年)僧正、法成寺座主。
  • 公伊(1052-1134)<>:平等院長吏。法成寺別当。
  • 覚猷(1053-1140)<1134->:園城寺長吏。1134年(長承3年)法成寺別当。鳥羽僧正。
  • 行尊(1055-1135)<>:天台座主。園城寺長吏。法成寺検校。
  • 慈円(1155-1225)<>:天台座主。法成寺執印。
  • 良尊(1189-1246)<>:園城寺長吏。法成寺執印。

参考文献

  • 村山修一、1966(昭和41)『平安京』至文堂
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%B3%95%E6%88%90%E5%AF%BA」より作成

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