ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。
歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。東京都の放送局や伊賀でも同様なのか。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

阿弥陀信仰

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年5月14日 (火)

移動: 案内, 検索
阿弥陀信仰 

目次

概要

阿弥陀如来(あみだ・にょらい)は、救済、無限の光、無限の命を象徴する仏。

日本を代表する阿弥陀信仰の寺院としては、中世より庶民の参詣が絶えない長野善光寺、世界遺産としても名高い宇治平等院平泉中尊寺金色堂、浄土曼荼羅を本尊とする奈良当麻寺、鎌倉大仏として知られる高徳院、また大教団の本山である西本願寺東本願寺知恩院などがある。もちろん、比叡山高野山、そして東大寺も浄土教の拡大に重要な役割を果たした。神仏習合の観点からは熊野三山も忘れてはならない聖地と言える。阿弥陀如来は、日本でもっとも数多く堂宇の本尊とされる仏の一尊であり、有名寺院は枚挙に暇がない。

中国では、廬山や声明発祥地とされる五台山などが有名。チベットでは阿弥陀如来の化身パンツェンラマが住んでいたタシルンポ寺がある。

歴史

大陸における阿弥陀信仰

インドにおける阿弥陀信仰

インドにおける阿弥陀信仰の実態はよく分かっていない。ガンダーラとともに仏像の発祥地であったマトゥラーから1979年に2世紀のものと思われる仏像の台座が発見された。ここに「アミターバ(阿弥陀)」と記されており、インドにおいても阿弥陀如来に対する信仰があったことが確認された。

東晋時代1 -阿弥陀信仰の興隆-

仏教が中国に伝来したのは、1世紀の中ごろである。阿弥陀信仰も早くから伝えられ、2世紀の中頃、179年(後漢・光和2年)に支婁迦讖(しるかせん 生没年不詳)が『般舟三昧経』を漢訳している。支婁迦讖はまた『無量寿経』も漢訳したという(異説あり)。

中国で阿弥陀信仰が最初に興隆したのは4世紀の東晋時代(317-420)であった。僧侶が阿弥陀像を造立したことが記録に残っている。東晋哀帝の興寧年間(363-365)に竺道隣が阿弥陀仏像を造立している(『梁高僧伝』5)。初期中国仏教の祖、釈道安が375年(東晋・寧康3年)に丈六の阿弥陀仏の銅像を作って、檀渓寺に安置したという(『梁高僧伝』1)。また戴達(?-396)という仏師が太元年間(376-396)に会稽山の霊宝寺に丈六の木像を脇侍菩薩ととともに作ったという。後世、この仏像は唐の道宣(596-667)に絶賛されている(『集神州三宝感通禄』中)。また仏像以外にも、支遁(314-366)が「阿弥陀仏讃」を作ったことが記録されている(『広弘明集』15)。

東晋時代2 -中国浄土教の創始-

東晋時代、中国浄土教の祖とされる廬山の慧遠(334-416)が登場したのは以上のような流れを背景としたものだった。慧遠は、前述した釈道安の弟子で、道安の造立した檀渓寺の阿弥陀仏像を見て感激したという(『広弘明集』15)。廬山東林寺を創建し、廬山の東林寺は中国浄土教の発祥の地となった。浄土教の始まりとされるのは403年(東晋・元興2年)である。この年7月、慧遠は廬山般若台の阿弥陀像の前で念仏結社「白蓮社」を設立した。慧遠は『般舟三昧経』に基づく般舟三昧行を奨励したのであった。般舟三昧行は、念仏の一種であり、瞑想によって阿弥陀如来の姿を観じようとする観想念仏であった。ただし、高度な行法であり、一般社会に広がるものではなかった。

5世紀に入ると、鳩摩羅什(350-409)が『阿弥陀経』を、〓良耶舎(畺良耶舎)(きょうりょうやしゃ、382-443)が『観無量寿経』を漢訳した。鳩摩羅什は慧遠と対談したこともあったという。これ以降、阿弥陀像の造立が盛んに行われるようになった。慧遠のあとの白蓮社は道〓[日丙]、道珍、智舜が続いた。

南北朝時代 -阿弥陀仏像の造立-

5世紀以降、阿弥陀仏像の造立が盛んになった。長沙寺僧亮は432年(南朝宋・元嘉9年)、資金難のため、他の廟より銅器を奪って阿弥陀仏銅像を造立したという(『梁高僧伝』13、『法苑珠林』15)。宋の文帝(南朝宋3代 在位424-453)はこれに光背を寄進し、首都建康(現・南京)の彭城寺に安置したという。さらに明帝(南朝宋6代 在位465-472)はこれを湘宮寺(建康か)に遷した。

南朝梁の武帝(蕭衍 南朝梁1代 在位502-549)は、中国歴代皇帝の中で最も仏教を篤く信仰したといわれ、「皇帝菩薩」とも通称されるほど崇仏の皇帝だったことで知られている。武帝は、南朝宋の明帝が計画した丈八(一丈八尺)の阿弥陀像の造立が未完成ということを法悦から聞き、天監8年(509年)より小荘厳寺で鋳造を開始し、完成すると自らの宮殿を寄進して阿弥陀像を祭り、光宅寺とした。光宅寺は、首都建康(現在の南京)にあり、梁の三大法師の一人である法雲が住したことで知られる。

北朝でも北魏末以降、阿弥陀仏の造立が始められた。北朝では阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊形式が成立し、それに地蔵菩薩と竜樹菩薩を加えた五尊形式も相当数作られた。雲崗石窟寺院では第11窟に、483年(北魏・太和7年)の銘がある阿弥陀像が確認されている。龍門の石窟寺院にも北魏末の阿弥陀像が残されている。

隋唐時代1 -天台宗と浄土教-

天台宗は隋代(581-618)に智顗(智者大師 538-597)によって開かれた。天台宗は『法華経』を根本経典とする宗派であったが、その当初から浄土教を取り込んでいた。智顗の師である南嶽慧思(515-577)は末法思想を最初に広めた僧侶である(『立誓願文』)。末法思想は浄土教の主要な思想の一つである。慧思は、末法時代において頼るべき仏として弥勒菩薩と阿弥陀如来を信仰し、両仏の像を造立している。天台宗開祖智顗は、前述した廬山慧遠が奨励した般舟三昧行を修行法の一つに採用した。智顗は、般舟三昧という修行法は仏の姿を見ることができることから「仏立三昧」と呼称し、四種三昧の中で「常行三昧」として位置づけた(『摩訶止観』)。これは、805年(唐・永貞元年、日本・延暦24年)、天台宗を学んだ最澄円仁によって日本にもたらされた。

隋唐時代2 -石窟寺院と浄土変相図-

隋唐時代に阿弥陀仏像の造立は最盛期を迎えた。雲崗石窟龍門石窟を始めとする石窟寺院において、この時期に造立された阿弥陀像が残っている。南北朝時代には「無量寿如来」と呼ばれていたものが、唐代には「阿弥陀如来」と呼称を変えた。

雲崗石窟と龍門石窟は、ともに北魏王朝が造営したものであったが、その後も引き続き石窟の造営が続けられた。雲崗石窟では、第3窟、第11窟に阿弥陀如来が祀られている。このうち第11窟は前述したように北魏時代の483年(北魏・太和7年)に造られたものである。第3窟は霊巌寺とも呼ばれ、雲崗での最大の石窟である。全高10メートルを越す阿弥陀如来、観世音菩薩、大勢至菩薩の阿弥陀三尊で、唐代のものと推測されている。

龍門石窟では、第20窟、第104窟、第159窟、第543窟、第712窟が阿弥陀如来とされている。第712窟は蓮華洞と呼ばれ、北魏時代に作られたものである。第104窟と第159窟は他の一窟と合わせて、三仏洞と呼ばれており、北魏時代に掘られたものであるという。第159窟は賓陽南洞と呼ばれ、799年(唐・貞元15年)に、第104窟は賓陽北洞と呼ばれ、北魏時代から唐代初期の間に作られたものである。第543窟は万仏洞と呼ばれ、阿弥陀を本尊として、無数の小さな仏像が15000体ほど彫られているという。これは680年(唐・永隆元年)に造られたものである。第20窟は潜溪寺と呼ばれ、唐代に造られたものだと言う。

甘粛の麦積山石窟には唐代に造られた16メートルの阿弥陀仏三尊像がある。莫高窟では、唐代初期の第220窟の阿弥陀浄土変相図が著名である。第321窟、第431窟、第332窟、第172窟に浄土変や来迎図が描かれている。彫像としては、第45窟、第57窟がある。

阿弥陀仏の繍像も多く制作された。阿弥陀信仰は、仏教全般として女性蔑視の傾向がある中で女性救済を説いたことで、女性の信仰者が特に多かった。486年(南朝斉・永明4年)に宝願尼が刺繍による阿弥陀像を制作しているが、繍像(刺繍による像)の阿弥陀像の初例という。以後、女性により繍像の制作が多数行われた。中でも則天武后(周初代(唐) 在位690-705)は400舗もの刺繍浄土変相図を制作させたという。

隋唐時代3 -称名念仏と中国浄土教の大成-

瞑想で阿弥陀仏を念じる観想念仏に対して、言葉で「南無阿弥陀仏」と唱える称名念仏を教義の中心に据えたのは、南北朝時代の曇鸞(476-542)に始まる。曇鸞は竜樹、世親の著書に依拠して『浄土論註』を著し、称名念仏の意義を説いた。曇鸞は超化寺大巌寺玄中寺などに住し、遥山寺で没した。このうち、玄中寺(山西省)は後に道綽善導が学んだ寺院であり、浄土教の拠点となった。特に道綽(562-645)は、隋代中期の609年(隋・大業5年)にたまたま立ち寄った玄中寺で、曇鸞の残した碑文を読んで浄土教を知り、浄土教に身を投じることになった。また道綽は、数珠や小豆念仏を考案して、浄土教の一般社会への布教を行った。唐代に入って、その弟子、善導(613-681)は『観経疏』『往生礼讃』などを記し、中国浄土教の大成者とされた。善導流の浄土教は、その後の浄土教に決定的な影響を与えた。日本の法然は専ら善導の著書に依拠して自らの教義を立てた。善導は、長安の光明寺悟真寺実際寺などに住し、その死後、追悼のために香積寺が建てられた。善導のあとには懐感、少康がいた。後善導とも呼ばれた少康(?-805)は史上最初の往生伝『浄土瑞応刪伝』を記した。少康はまた、杭州烏龍山に善導の分骨を祭って念仏道場を創建した。少康の活動は、五代十国時代以降の江南地方における浄土教発展の基礎となった。

慧日(680-748)は、703年から719年にかけてインドに赴き、玄宗(唐6代 在位712-756)より慈愍三蔵の号を贈られた。慧日はインド留学中に観音菩薩の霊告を受けて、浄土教を最も優れた行だとした。浄土と禅をともに修行することを主張し、後世の中国仏教の主流である念仏禅のさきがけとなった。742年(唐・天宝元年)、慧日の弟子であった承遠(弥陀和尚)は、南岳衡山に阿弥陀台を建立し、般舟道場とした。その弟子の法照(生没年不詳)(大悟和尚、五会法師、後善導)は、当初、阿弥陀信仰発祥の地である廬山で修行していたが、のち承遠に師事して、衡山の般舟道場で修行した。衡山で修行中、766年(唐・大暦元年)に阿弥陀仏より五会念仏を授けられた。五会念仏とは、音楽的に称名念仏を行う行法である。法照は南岳、五台山、太原、長安などで五会念仏を広め、770年(唐・大暦5年)には、五台山に竹林寺を創建した。その70年後の840年に、日本より円仁が竹林寺が逗留して常行三昧と五会念仏を学び、日本に両者を伝えた。この五会念仏が、日本における称名念仏の源流であり、声明の源流となった。

また唐代には智瑛、神皓、神奏、知玄などによって念仏結社も多数設立された。 日本仏教における浄土教は、おおむね隋唐時代までの中国浄土教を継承し、発展させたものである。

五代十国・宋代・元代 -禅浄習合-

日本で浄土教が盛んになったころ、中国においても浄土教は隆盛していた。五代十国時代(907-960)、宋代(960-1279)の浄土教は独立した教団を形成せず、禅教律の各宗において、信仰され、特に天台宗に盛んだった。また地域的に見れば、五代十国の呉越の首都であり南宋の首都であった杭州を中心に江南地方において盛んになった。また一般社会にも浄土教は広まり、念仏結社の結成も盛んだった。元代にも浄土教は盛んであったが、新しい展開は見られなかった。

宋代の天台宗においては、浄土教の研究と実践が最も重要なものとして重視された。慈雲遵式(960-1032)、山家派の四明知礼(960-1028)、山外派の孤山智円(976-1022)をはじめ、択瑛(1045ー1099)や宗暁(1151-1214)など、天台宗の名僧が浄土教の研究を行っている。ただし、観想念仏(理観念仏と事観念仏)が中心であった。

宋代には盛んに往生伝が制作された。北宋時代では飛山戒珠の『浄土往生伝』、侍郎王古の『新修往生伝』が記された。南宋時代に入ると、1236年(南宋・端平3年)、四明海印が『浄土往生集』を記した。多数の往生伝の登場を経て、大石志磐がこれらを「浄土立教志」(『仏祖統記』所収)にまとめた。大石志磐は、蓮社七祖の列伝と、蓮社十八賢、百二十三人伝、高僧、高尼、雑衆、公卿、士庶、女倫、悪輩、禽魚とあらゆる階層の往生伝を収集して編纂し、往生伝の決定版となった。

蓮社七祖とは、志磐によると、廬山慧遠、長安善導、南嶽承遠、長安法照、新定少康、永明延寿、昭慶省常である。これは宗暁(前述)が蓮社六祖を定め、慧遠、善導、法照、少康、省常、宗〓[臣責]としたのに基づいている。

宋代律宗における浄土教は、天台浄土教の流れを汲むものである。霊芝元照(大智律師 1048-1116)が知られる。その弟子の用欽、戒度も師の論を補強した。観想念仏のほかに善導流の称名念仏も一部取り入れた。禅宗においては五代十国時代の杭州永明寺(浄慈寺)の延寿(904-975)が知られる。唐代の慧日(前述)の思想を受けて、禅浄融合の浄土禅を説いた。永明延寿に続いて宋代には宗〓[臣責]、宗本、法秀、義懐などの禅浄習合を説いたものが出た。

これらの宋代の浄土教は、俊〓[じょう 艸+仍](月輪大師 1166-1227)によって日本に伝えられ、浄土教の実践や教学発展に影響を与えた。

浄土教の僧侶たちは、念仏結社を設立した。杭州昭慶寺の省常(959-1020)による浄行社がその先駆である。省常は中国浄土教の七祖である。 前述した慈雲遵式は明州(寧波)四明山宝雲寺で浄業会を主催した。四明知礼も、一万人による念仏結社を組織して、明州(寧波)延慶寺で、毎年2月15日に念仏施戒会を開催した。元照も結社を組織したという。この他、道深の浄業会(杭州近郊の南湖で毎月23日)や、雲照の超果教院(甘粛省華亭県・超果寺)での浄土会や、不動居士憑〓の浄土繋念会、省斉居士〓定国の西帰社などが知られている。

延慶寺はのち天台宗の拠点寺院となった寺である。北宋末、介然が延慶寺の西隅に浄土院を設立し、十六観堂を建立した。十六観堂は周辺の天台宗寺院に広まり、日本にも俊〓(前述)によって伝えられ、泉涌寺に建てられた。

この他、南宋代に登場した著名な念仏結社として茅子元による白蓮教がある。白蓮教は当初禁教になっていたが、元代に普度の活躍により、公認された。元末に韓山童を指導者として紅巾の乱を起こし、元王朝を滅ぼした。明の初代皇帝朱元璋はもと白蓮教の信者であった。

明清時代 -居士仏教-

禅と並んで、浄土教はもはや中国仏教の二大潮流の一つとなっていた。特に浄土教は在俗者による信仰が盛んだった。明代(1368-1644)、清代(1644-1912)を通じて、浄土教は中国仏教の主流であった。

明代初期の道衍(姚広孝 1335-1418)は、天台、禅を極めたあと、浄土教に帰した。永楽帝(明3代 在位1402-1424)の近臣で永楽帝即位のための靖難の変の首謀者であった。儒者の排仏論に反駁した『道余録』が有名である。

明代では各宗融合の風潮の中で四大師と呼ばれる名僧が登場したが、いずれも浄土教を重視した。四大師とは、雲棲〓宏[衣朱]、紫栢真可、〓山徳清[敢+心]、藕益智旭である。雲棲〓宏(蓮池大師 1535-1615)は華厳、禅を修め、浄土に帰依し、諸宗融合を説いた。杭州雲棲寺に住し、念仏三昧に務めた。風紀粛正を強調した『緇門崇行録』など多数の著作を記した。雲棲〓宏は中国浄土教の八祖とされた。紫栢真可(1543-1603)は華厳を修め、『阿弥陀仏賛』などを記した。大蔵経を編纂したことで知られるが、皇位継承事件に巻き込まれて獄死した。〓山徳清(1546-1623)は華厳、禅を修め、浄土教発祥の地である廬山に草庵を建てて、念仏に務めた。『〓山大師夢遊集』などの著作があり、禅、華厳、念仏の融合を説いた。中国仏教最後の思想家といわれる藕益智旭(1599-1655)は天台宗の出身であるが、禅教律の合一を説き、念仏に帰することを説いた。『阿弥陀経要偈』など多数の著作がある。

清代では在俗の居士仏教が盛んになったが、その中でも浄土教は中心であった。五代皇帝の雍正帝(清5代 在位1722-1735)が仏教信仰厚く、明代の雲棲〓宏(前述)を範として念仏を推奨した。このことも居士仏教における浄土教の流行に影響を与えた。僧侶では省庵実賢と徹悟際醒が知られる。特に省庵実賢(1686-1734)は中国浄土教九祖とされた。彼は律宗、天台宗を修めたあとに浄土に帰依し、『浄業堂規約』という浄土信者のあるべき日課を記した。禅宗の徹悟際醒も五代十国時代の永明延寿(前述)にならって浄土教を信仰した。居士仏教の篤信者としては、周安土(夢顔)や彭際清(紹升 1740-1796)がいた。特に彭際清は熱心な念仏行者であり、『浄土三経新論』を記した。

その他

朝鮮、ベトナムにも阿弥陀信仰は広がったが、今は省略する。またチベット仏教においては、タルシンポ寺の活仏パンチェン・ラマが阿弥陀如来の化身として崇拝された。

日本における阿弥陀信仰

平安時代以前

『日本書紀』によると、日本に仏教が公式に伝来したのは欽明天皇13年(552年)であった。後世の伝説によると、このとき日本に最初にもたらされた仏像が阿弥陀如来であったという(聖明王が日本に最初に贈った仏像は、『日本書紀』には「釈迦仏」と書かれており、阿弥陀仏ではなかった。)。仏教伝来にともない、蘇我氏と物部氏のあいだで受容をめぐる争いがあった。蘇我稲目はこの仏像を祭る寺院を創建したが、反対する物部氏によって破却され、仏像は難波の堀江に投棄された。数十年後、難波の堀江を通りかかった本田善光なる人物が、仏の声に聞き、仏像を自邸に祀ったのが、信濃の善光寺であるという。蘇我稲目が建てた日本初の寺院跡とされる場所には、阿弥陀如来を祀る向原寺(浄土真宗)が創建されているが、これは、この善光寺伝説に基づいている。

実際には、日本の阿弥陀信仰は、飛鳥時代後期に始まる。阿弥陀如来は浄土経典以外の経典(法華経など)にも記されているため、仏教伝来後、早くから知られていたと考えられる。しかし、入隋僧の恵隠(小野妹子派遣に随行)が舒明天皇12年(640年)に宮中で『無量寿経』の講説を行ったことが、阿弥陀信仰の実質的な端緒と考えられている。これ以後、白鳳時代、奈良時代を通して、盛んに阿弥陀像や阿弥陀浄土変相図浄土曼荼羅)が作られ、浄土経典の写経が行われた。特に東大寺には『称讃浄土経』(玄奘訳『阿弥陀経』)の写経所が設立された。

聖武天皇皇后の光明皇后(701-760)は、奈良時代の阿弥陀信仰における重要人物である。光明皇后は、天平13年(741年)に東大寺阿弥陀堂を建立した。これは日本最初の阿弥陀堂であると思われる(現在の東大寺法華堂の辺りにあったと推定されている。福寿寺との関連も指摘されている。)。この阿弥陀堂には浄土変相図が祀られ、滅罪招福のために阿弥陀悔過が行われた。光明皇后はまた称名念仏の仏具である数珠を用いている。光明皇后は天平宝字4年(760年)に亡くなったが、その四十九日忌に追善供養のために各地の大寺と国分寺に阿弥陀浄土図の制作を命じている。翌年には、光明皇后開基の法華寺阿弥陀浄土院が建てられ、阿弥陀浄土院にて光明皇后一周忌が行われた。阿弥陀浄土院には、遺構の調査から最古の浄土庭園を備えていた可能性があるといわれている。

さらに阿弥陀信仰の普及に注目する上で重要なのが、この光明皇后一周忌において、全国の国分尼寺に丈六の阿弥陀像を制作するように命じていることである。天平13年(741年)に建立が命じられた国分尼寺は、法華滅罪之寺と称し、『妙法蓮華経』に基づく鎮護国家の寺院であったが、天平宝字5年(761年)以降、本尊は阿弥陀如来と定められたと考えられる。上記の阿弥陀院があった奈良法華寺も国分尼寺の中心であった(ただし、法華寺の現在の本尊は観音菩薩である。)。国分尼寺の造営の経緯については国分寺以上に不明確であるが、全国60余国に建てられたはずであり、国分尼寺は全国各地において、阿弥陀如来を本尊とする寺院の先駆となったと考えられる。現在も阿弥陀如来を本尊とする国分尼寺の後継寺が少数ながら存在する。これらの光明皇后に関する一連の事項は、阿弥陀信仰の普及に貢献したと思われる。この時代の阿弥陀信仰の性格については議論があるが、死者への追善の側面が注目されていたように思える。(光明皇后の阿弥陀信仰が、あるいは当時の阿弥陀信仰が、後世の浄土教のように「自己の極楽往生」祈願を含んでいたのかどうかは、議論がある(三宮2005)。阿弥陀悔過についても、単なる招福の祈願か、極楽往生の祈願かについて議論がある。)

阿弥陀信仰に傾倒した僧としては、光明皇后と同世代になる元興寺智光(709‐780頃)が知られている。智光は三論宗の僧侶で元興寺に住し、様々な著作を残したが、特に『無量寿経論釈』は日本最初の浄土教典籍とされる。これは源信の『往生要集』にも引用されるなど、後世に影響を与えた。前述の光明皇后の阿弥陀信仰は、智光に影響された可能性もあるという。さらに「智光と頼光(礼光)」の伝説では、智光は夢にて極楽浄土の情景を観じて、絵図を制作させた。これが元興寺極楽坊の本尊である智光曼荼羅とされ、平安時代には元興寺極楽坊は奈良における浄土教の拠点となった。

また、伝説では、天平時代に中将姫という人物がおり、阿弥陀仏の助力により蓮の糸を用いて一夜で浄土図を織り上げたという。これは鎌倉時代、証空によって喧伝される当麻寺本尊の当麻曼荼羅の縁起である。伝説の真偽はともかく、奈良時代において多数の阿弥陀浄土変相図が重用されたことは確かであった。

平安時代 前中期-密教における阿弥陀信仰-

天台宗における常行三昧堂

平安時代前中期において、広く建てられた阿弥陀堂は、常行三昧堂と呼ばれるものであった。常行三昧堂建立の思想的背景となり、後世の浄土教興隆の基盤となったのが、天台宗で行われていた般舟三昧行であった。般舟三昧行は、阿弥陀像の周りを念仏を唱えながら廻る観想念仏の修行であった。前述の通り、天台宗の開祖チギがこれを天台宗教義に導入し、四種三昧の一つ常行三昧行として採用した。

日本では、常行三昧行のための道場として、最澄比叡山に般舟三昧院として計画したが果たさなかった。のち円仁が唐より帰国した後、比叡山東塔に常行三昧堂を建立した。これが日本初の常行三昧堂である。ここで初の常行三昧が行われた。894年(寛平6年)には西塔に、968年(安和1年)ごろには横川にも常行三昧堂が創建された。こののち、常行三昧堂は、天台宗寺院の広がりとともに建立された。

真言宗の阿弥陀信仰

密教においては、阿弥陀如来を本尊とする紅頗梨秘法という修法が伝わっている。これは体を紅色とし、宝冠をかぶった阿弥陀如来を本尊とするものである。空海の著とされる『無量寿如来供養作法次第』が伝わっている。

追善供養と阿弥陀信仰

既に記したとおり、奈良時代より阿弥陀信仰には追善供養の本尊という性格があった。これは、自分自身の死後の安泰を願う極楽往生思想とは異なるものである。もちろん、相互に関連するものである。

追善のための阿弥陀信仰において、画期となるのが仁和寺である。阿弥陀三尊を本尊とする仁和寺は、888年に宇多天皇によって光孝天皇の追善供養のために建てられた(「太政官符」)。現在は真言宗であるが、初代別当は天台僧であり、天台宗における阿弥陀信仰の影響があると思われる。阿弥陀を本尊とする追善供養のための寺院として、最初期の寺院であうと思われる。ちなみに仁和寺の阿弥陀像は、定印の阿弥陀像のなかで最古のものであり、後世の模範となった平等院鳳凰堂阿弥陀像の先駆となるものである。

平安時代後期 -浄土教の隆盛-

天台浄土教

(執筆中)

高野山の浄土教と高野聖

弥勒信仰弘法大師信仰を背景とした高野山浄土思想は存在していたが、高野山における浄土教を興隆させたのは、11世紀の定誉仁海であった。焼失によって衰退した高野山復興を望むなかで、定誉と仁海は高野山を浄土として喧伝し、藤原道長を始とする貴族を高野山参詣に導いた。 高野山が浄土だと考えられるようになると、聖が集まり始め高野山でも浄土教が盛んとなった。高野聖たちは各地を巡業して浄土教普及の担い手となった。高野聖は山内において次第に勢力を広げて聖方を形成し、学侶方、行人方に並んで高野山を主導する高野山三方の一つとなった。江戸時代の高野山山内寺院530寺のうち、30%が阿弥陀如来を本尊とし、他の仏を圧倒していたことは高野山における浄土信仰がいかに活発であったかを教えてくれる(霊宝館HP)。

初期の高野聖の代表として教懐重源明遍などがいる。教懐は高野山に浄土院(本尊不詳)を創建した(のち浄土院は蓮上院に合併された)。1088年(寛治2年)に白河上皇の行幸に際して高野聖が公認されたという。浄土院にちなんで、浄土院谷と呼ばれ、また教懐の旧地の山城国小田原にちなんで、小田原谷、小田原別所とも呼ばれるようになった。小田原谷は聖の拠点のひとつとなった。また東大寺を再建したことで知られる重源は、新別所専修往生院(現在の円通律寺)を創建し、「二十四蓮社友」と呼ばれる念仏集団を組織した。

高野聖の三大勢力として、蓮華谷聖、萱堂聖、千手院谷聖があった。蓮華谷聖の祖は後白河院近臣の藤原通憲の子の明遍である。明遍は、「空阿弥陀仏」と名乗り、後に特に高野聖の祖として尊崇された聖であり、のち法然の弟子となった。明遍は、鎌倉時代初期に、阿弥陀如来を本尊とする蓮華三昧院を創建した。これにちなんで蓮華三昧院周辺は蓮華谷とも東別所とも呼ばれ、蓮華谷聖の拠点となった。現在、蓮華三昧院は遍照光院が兼帯しており、蓮華三昧院の阿弥陀如来像(快慶作 重文)および絵画阿弥陀如来像(国宝)が伝わっている。

萱堂聖は、往生院谷の苅萱堂を本拠地とする聖である(中別所?)。苅萱堂は、真言密教に浄土教を取り入れた覚鑁新義真言宗の祖)が創建したとされ、臨済宗名僧の心地覚心普化宗の祖)が中興したとされる。苅萱堂は現存し、密厳院の附属とされる。同様に本拠地とした(?)安養寺成仏院は、上池院と千蔵院(密厳院に合併)が後身寺院とされる(このへん不詳)。ちなみに覚鑁は、大日如来と阿弥陀如来は一体であると説き、大日如来の密厳浄土と阿弥陀如来の極楽浄土は同一であると説いた。苅萱堂のある密厳院は覚鑁が1132年(長承1年)に創建したものであった。

後期高野聖を代表するのが、千手院谷の国城院を本拠地とする千手院谷聖であった。千手院谷聖は時宗系の聖集団で、一遍が国城院に住したことがあるという伝説を残している。国城院は現存しない(現在の本覚院の奥にあったらしい)。千手院谷聖の影響によって、高野聖は全て時宗となった。

江戸時代、聖方の拠点となったのが、大徳院である(ただし本尊は阿弥陀仏ではない??)。大徳院は、もと蓮花院と称し、徳川家の菩提寺となった。1535年(天文4年)に徳川家康の祖父である松平清康の遺骨が納められると、光徳院と改称した。さらに1594年(文禄3年)に徳川家康が豊臣秀吉とともに参詣した際に大徳院と改称した。前述の通り、従来、高野聖は時宗であったが、1606年(慶長11年)に真言宗帰入が命じられ、真言宗となった。

このほか、高野山には1175年(安元1年)に鳥羽天皇の菩提を弔うために、鳥羽天皇皇女頌子内親王(五辻斎院)によって発願され、西行の計らいによって、阿弥陀如来を本尊とする蓮華乗院が建立されている。現在の建築は1848年(嘉永1年)の再建のもので、大会堂と呼ばれている。

南都浄土教

高野山と交流が深い南都仏教においても、浄土教が隆盛した。

平安時代には教信が登場。興福寺の学僧だったが、播磨の加古で草庵(教信寺)を結び、念仏に専念する。のち親鸞が理想とするなど、影響を与える。


前述したように、源平合戦によって焼失した東大寺を再建した重源高野聖の一人であるという。1181年(養和1年)東大寺大勧進職に補任された重源は東大寺大仏殿造営に際して、造営の資材や資金を調達するための東大寺別所を各地に創建した。いわゆる東大寺七別所とよばれるもので、東大寺別所(東大寺浄土堂)、高野新別所(専修往生院、現・円通律寺)、渡辺別所(廃絶)、播磨別所(浄土寺)、備中別所(新山寺か。廃絶)、周防別所(阿弥陀寺)、伊賀別所(新大仏寺)がそれである。これらの別所は全て阿弥陀仏を本尊としたものであった(高野新別所の本尊は明記なし。)。これらの別所を拠点として高野聖たちが東大寺再建のための勧進を行った。東大寺には東大寺別所の後身である浄土堂(念仏堂)が存続しており(ただし再建であり、本尊は阿弥陀仏から地蔵菩薩に変わっている)、播磨別所の後身である浄土寺には重源が建立した浄土堂が現存している。また重源は、自らの戒名を「南無阿弥陀仏」としており、阿弥陀信仰が厚かったことを示している。後世の「阿弥陀仏号」や「阿弥号」の創始といわれる。

山城国の南端に位置する光明山寺は、東大寺の別所で、南都三論宗や法相宗、真言宗系統の僧侶が住する念仏別所として栄えた。光明山寺は、平安時代後期の1033年(長元6年)ごろに東大寺の僧侶が創建したと推定されている。本尊は薬師如来であったという。光明山寺が念仏別所として栄えたのは、南都三論宗の僧侶、永観が遁世して、光明山寺に住してからだといわれる。光明山寺における永観の活動は明らかでないが、永観は日課一万遍の念仏を行っていたといい、念仏の普及に努め、のち京都禅林寺の中興として、永観堂という同寺の通称にその名を残した(禅林寺はのち浄土宗西山派の拠点の一つとなった)。鎌倉時代、禅林寺住職となった静遍も、光明山寺に住していた。教海、実範、頼基、静誉、心覚、慶雅といった僧侶が住し、念仏僧が多数住した。高野山蓮華谷聖の祖とされる明遍も光明山寺に寓していたことがある。寺院としても発展し、北谷、南谷、東谷の三区画を形成し、28とも120余ともいう住房が軒を連ねた。しかし、光明山寺は南北朝以降は衰退し、江戸時代には廃絶した。

貴族の浄土教

(執筆中)

中世 -浄土系教団の成立-

(執筆中)

中世以降 -阿弥陀信仰の再生-

(執筆中)


信仰

図像

彫像・絵像

  • 山越の阿弥陀
  • 見返り阿弥陀:禅林寺本尊
  • 証拠の阿弥陀
  • 五劫思惟阿弥陀如来
  • ぐはり阿弥陀:密教
  • 宝冠阿弥陀:密教
  • 方便方身尊像:真宗本尊の図像
  • 片袖の阿弥陀:右肩を完全には隠さない
  • 大仏:鎌倉大仏など
  • 来迎図
    • 早来迎図
  • 二河白道図
  • 板碑

名号本尊

詳しくは名号本尊信仰を参照。

  • 南無阿弥陀仏(六字名号)
  • 南無不可思議光如来(九字名号)
  • 帰命尽十方無碍光如来(十字名号)

浄土曼荼羅

詳しくは、浄土曼荼羅信仰を参照。

眷属

  • 観音勢至
  • 四菩薩(法利因語)
  • 観音・勢至・龍樹地蔵
  • 二十五菩薩
    • 観世音菩薩
    • 勢至菩薩
    • 薬王菩薩
    • 薬上菩薩
    • 普賢菩薩
    • 法自在王菩薩
    • 獅子吼菩薩
    • 陀羅尼菩薩
    • 虚空蔵菩薩
    • 徳蔵菩薩
    • 宝蔵菩薩
    • 山海慧菩薩
    • 金蔵菩薩
    • 金剛蔵菩薩
    • 光明王菩薩
    • 華厳王菩薩
    • 衆宝王菩薩
    • 日照王菩薩
    • 月光王菩薩
    • 三昧王菩薩
    • 定自在王菩薩
    • 大自在王菩薩
    • 白象王菩薩
    • 大威徳王菩薩
    • 無辺身菩薩

儀礼

行法

  • 常行三昧:般舟三昧、仏立三昧、諸仏現前三昧ともいう。元は『般舟三昧経』に基づく。智顗が常行三昧として位置付けた。常行堂。
  • 十六観法:『観無量寿経』に基づく瞑想法。泉涌寺などに十六観堂があった。
    • 日想観:十六観法の一つ。
  • 観想念仏:即心念仏、観心念仏という。

称名念仏

称名念仏:口称念仏ともいう。

  • 尋常念仏:日常で唱える念仏
  • 臨終念仏
  • 十念

法要

  • 別時念仏:一定の期間を定めて昼夜休みなく念仏を唱える念仏法要。不断念仏、如法念仏、常念仏とも。
    • 十夜念仏:10月から11月にかけて各地で行われる別時念仏。元々は10日間かけて行なっていたが現在は数日間に短縮されている。十夜会。真如堂鎌倉光明寺が有名。
    • 歳末別時念仏会:時宗寺院で11月に行われる法要。一つ火など、独自の儀礼がある。
  • 百万遍念仏:百万回の念仏を唱える行事。実際に百万回唱える代わりに、大勢で唱えて百万回と見なしたり、巨大な数珠を使用して百万回と見なしたりすることが多い。知恩寺大念仏寺が有名。
  • 例時作法:阿弥陀経を唱える。阿弥陀せんぽう。天台宗の法要。
  • 融通念仏:大勢で念仏を唱えてその功徳を全員で分かち合う行事。大念仏ともいう。融通念仏宗
  • 六時礼讃:善導『往生礼讃偈』に基づく、声明を交えた法要。
  • 阿弥陀経万部会:阿弥陀経を一万回読む法要。
  • 引声阿弥陀経会:
  • 来迎会:二十五菩薩来迎会、聖聚来迎会、迎接会、迎え講、練り供養。当麻寺大念仏寺など。
  • 念仏講:往生講。
  • 薄念仏(すすき・ねんぶつ):時宗の法要。元来は怨霊を慰撫するため行うという。

音楽的念仏

  • 五会念仏:音律を付けて唱える念仏。声明の起源とも。
  • 引声念仏:ゆっくりとしたテンポで音律を付けて唱える念仏。
  • 六字詰念仏:双盤念仏、歌念仏、揩定念仏ともいう。鉦や太鼓に合わせて行う念仏。
  • 笏念仏:笏で拍子を打ちながら行う念仏。
  • 坂東曲
  • 念仏和讃
  • 声明

舞踊

  • 踊り念仏:空也が始めた踊りながら唱える念仏。一遍なども推進。踊躍念仏ともいう。
  • じゃんがら念仏
  • 六斎念仏
  • 葛西念仏:泡斎念仏
  • 天道念仏
  • エイサー:沖縄に伝わる念仏舞踊。
  • 大念仏狂言:大念仏(融通念仏)に由来する無言劇。
  • 歌念仏:門付け芸

その他

  • 賦算:一遍が始めた念仏札を配る教化活動。
  • 血脈授与:善光寺で授与。
  • 遊行:清浄光寺の住職が全国を巡教する。
  • ご廻在:大念仏寺の本尊が檀家を巡回する。
  • 五重相伝会:浄土宗の法要。教えの枢要を伝える秘儀。
  • 伝法:融通念仏宗の法要。教えの枢要を伝える秘儀。
  • 絵解き:僧侶が当麻曼陀羅を解説しながら説教する。
  • 名帳結衆:教団の名簿に信者の名前を記して往生の保証?を受ける。浄土教各派で行われていたが、今でも融通念仏宗で行われているらしい。

系譜

浄土教の諸師旧跡

浄土寺浄土院阿弥陀寺阿弥陀院西光寺西光院極楽寺極楽院西念寺西方寺西方院西蓮寺本願寺 (同名)念仏寺念仏院専修寺 (同名)専称寺_(同名)光明寺西教寺_(同名)西願寺誓願寺 (同名)安養寺称念寺本誓寺などの名称の寺院が多い。

浄土教系宗派

  • 隠れ念仏、カヤカベ教
  • 隠し念仏

神仏習合


画像

参考文献

  • 『仏教史概説 中国編』
  • 望月信成『阿弥陀如来』
  • 千葉乗隆 1969『仏教史概説 日本編』
  • 山本栄吾 1955「東大寺阿彌陀堂試論」『日本建築學會研究報告』31-2
  • 三宮千佳 2005「光明子の阿弥陀信仰と利他行について -法華寺阿弥陀浄土院発願の原点- 」『早稲田大学大学院文学研究科紀要 第3分冊』
  • 名島潤慈 2005「智光の夢の絵 : 智光曼荼羅の検討 」『 研究論叢. 芸術・体育・教育・心理』55-3
  • 日向一雅 1996「中将姫説話覚書」『明治大学人文科学研究所紀要』39
  • 中野聰 2001「奈良時代の数珠と阿弥陀信仰」第54回美術史学会発表
  • 平野智子 2008「両脇侍を伴う宝冠阿弥陀如来像に関する考察」第61回美術史学会発表
  • 鍵和田聖子 2009「曼荼羅上の大日位と弥陀位の交替(居替)における台密から東密への影響 」『印度學佛教學研究57(2)』
  • 中御門敬教 2007「『無量寿如来観行供養儀軌』の研究 : 中国における阿弥陀仏信仰の密教的展開 」『 印度學佛教學研究56(1)』
  • 紺野敏文 1979「仁和寺阿弥陀三尊にみる定印像の成立について(美学会第三十回全国大会報告) 」『美学30(3)』
  • 田村隆照 1966「定印阿弥陀如来像の性格」『美学17(3)』
  • 大江篤 2007『日本古代の神と霊』
  • 千々和実 1974「首都圏内板碑の爆発的大量初現とその誘因」『文化』創刊号
  • 坂上雅翁2008「光明山寺を中心とした南都浄土教の展開」

脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%BF%A1%E4%BB%B0」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール