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普化宗
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年5月21日 (月)
普化宗 |
目次 |
普化宗寺院
普化宗のもっとも代表的寺院を挙げるとすると、紀伊の興国寺、下総の一月寺、武蔵の鈴法寺、京都の明暗寺の四寺が考えられる。いずれも普化宗の中心的役割を果たした本寺である。
紀伊の興国寺は、和歌山県日高郡由良町に現存する寺院で、現在は臨済宗妙心寺派に属している。日本普化宗の開祖とされる心地覚心(法灯円明国師)が宋より帰国後、正嘉元年(1257年)に当寺の住職となった。このとき、宋より連れてきた虚無僧宝伏、国佐、理正、僧恕の四人を当寺に住まわせ、以後、普化宗の拠点となったといわれている。ただし、このことの近世以前の記録はないらしい。江戸時代には上記の一月寺、鈴法寺、明暗寺のほか、心月寺、理光寺、慈常寺など普化宗52寺を末寺として、臨済宗妙心寺の末寺でありながら、普化宗の拠点となっていた。明治になって「普化教会」を設立した。
下総の金竜山梅林院一月寺は、正嘉年間(1257年-1259年)に宝伏の孫弟子の了波が現在の千葉県松戸市小金に創建したとされる寺院である。了波は師の金先を開山として、金先派の拠点となった。江戸時代には鈴法寺とともに関東における普化宗の総本寺とされた。番所(宗務所)を浅草東仲町に置いていた。昭和30年代に日蓮正宗に改宗。文書類は松戸市立博物館に保存されている。また歴代住職の菩提寺であり、住職の受戒を行うなど関係の深かった臨済宗万満寺(松戸市)にも遺物が残っている。
武蔵の廓鈴山虚空院鈴法寺は活聡によって文永3年、藤袴村(埼玉県幸手市)に創建されたとされる。天文元年(1532)、葦草村(埼玉県川越市)に移転。ついで、慶長18年(1613年)、新町村(東京都青梅市新町)に移転した。江戸幕府により触頭とされて、全国に120寺もの末寺をかかえた。括総派の拠点。番所を牛込納戸町に置いていた(本寺よりも立派だったという)。明治4年の普化宗廃止により廃寺となり、明治28年に伽藍が焼失して再興されなかった。現在、跡地は鈴法寺公園となり、東京都史跡となっている。また近隣の東禅寺に扁額と薬師堂が移築されて現存しており、歴代住職の菩提寺であった臨済宗円覚寺末の法身寺(新宿区)に、番所の遺物が残されている。
京都の虚霊山明暗寺は古くは妙安寺と称した。虚竹(寄竹)了円が創建したという。寄竹派の拠点となった。当初、三条臼河橋にあったが、寛永年間に大仏池田町(妙法院隣地)に移転。勢力は一月寺、鈴法寺ほどではなく、両寺の配下にあった。明治の普化宗廃止に際して廃寺となった。明治23年、樋口対山が東福寺塔頭善慧院を明暗教会として復興した。昭和23年、宗教法人「明暗寺」となる。黄檗駅そばに虚竹の墓(普化塚)が 一月寺の末寺頭として、神明山清山寺(千葉県船橋市)、青木山西向寺(神奈川県横浜市神奈川区)があり、鈴法寺の末寺頭として、大光山安楽寺(東京都調布市上布田)、照現山神宮寺(神奈川県伊勢原市)があった。以上のほか、常陸国には小菊派の拠点の心月寺(茨城県下妻市)があった。上野国には小笹派の拠点として理光寺(利光寺)(現・群馬県太田市)や梅地派(根笹派)の拠点として金剛山静凌院慈常寺(現・群馬県高崎市)があった。また鈴法寺の末寺の甲斐の大法山明暗寺(山梨県中央市乙黒)や、明暗寺の末寺の九州博多の一朝軒(福岡県福岡市)、伊勢の鈴法山普済寺(三重県鈴鹿市)、北陸の虚無僧支配を担っていた越後の秀峰山明暗寺(新潟県三条市下田)などが有名であった。また普化宗寺院ではなかったが虚無僧がよく集った寺院として国泰寺(富山県高岡市)がある。
一覧
流派
- 金先派:一月寺。金洗派。
- 活総派:青梅鈴法寺。括総派。火下派。
- 寄竹派:京都明暗寺。
- 小菊派:常陸心月寺。夏漂派。
- 小笹派:上野理光寺。司祖派。
- 梅地派:上野慈常寺。根笹派。梅士派。
- 西向派:
- 安楽派:
教団・組織
- 普化教会
- 明暗教会
- 法灯会
- 法灯教会
人物
- 普化
- 心地覚心
- 宝伏
- 国佐
- 理正
- 僧恕
- 虚竹了円
- 天外明普
- 楠正勝