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知恩院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年11月7日 (木)
知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区林下町にある浄土宗の本山寺院。浄土宗知恩院派の総本山。本尊は法然。法然の草庵跡であり初葬地であることから浄土宗各派の中で最も重要な寺院となっている。改葬された粟生光明寺からの分骨を収めた墓所がある。山号は華頂山。知恩院関連旧跡も参照。法然上人二十五霊場。(参考:同名寺院知恩寺_(同名))
目次 |
歴史
起源
1228年には忌日法要の「知恩講」が営まれていたことが同年8月11日銘の『知恩講私記』(東寺宝菩提院蔵)によって分かる。 法然が30年間拠点にした吉水の草庵が起源。
成立
源智が文暦元年(1234)復興。四条天皇の勅で華頂山大谷寺知恩教院と称した。
中世
戦国時代には知恩寺と本末を争った。
近世
1575年9月25日、正親町天皇から香衣綸旨の執奏権を得て本山としての地位を確立。 慶長8年(1603)徳川家康が700石を寄進。 同年から幕府により大規模な造営。現在の伽藍の基礎ができた。中世、東山には常在光院という臨済宗寺院があったが、応仁の乱で焼失。跡地は知恩院に併合された。京都・白毫寺もあったが、慶長の造営のため移転させられた。親鸞の墓も遷された。 慶長12年、門跡となり、慶長15年に竣工。 元和元年、門跡領として1040石が寄進された。
寛永10年(1633)大火で焼失。18年までに主要伽藍が再建された。
正徳元年(1711)、法然500回忌が勅会として行われた。
近現代
1947年、離脱して本派浄土宗を設立(のち浄土宗本派と改称)。 1961年、浄土宗本派と浄土宗(東京)が合併。
伽藍
- 主に『知恩院史』による。
名称 | エリア | 本尊など | 概要 |
---|---|---|---|
御影堂![]() | 御影堂周辺 | 法然 | 本尊は法然。1633年(寛永10年)から1639年(寛永16年)にかけて再建。南面する。法然像は法然自作とされ、勅修御伝に記述がある像そのものだとされる。法然を納めた宮殿厨子の「後の両戸」には童子が描かれ、加茂明神と毘沙門天の化身だという[1]。西脇壇には内側から、徳川家康像(束帯坐像。康猶作)、伝通院像(絵像。木像とも)、徳川秀忠像(束帯坐像。康猶作)を祀る。家康の位牌、法然両親の位牌、九重八角の舎利塔、烏枢沙摩明王も祀るともいう[2]。東脇檀には内側から32世雄誉霊巌、29世満誉尊照、阿弥陀三尊(法然の臨終の際の護持の仏という。寛印作。)、善導、25世超誉存牛、歴代住職位牌を祀る(『知恩院史』『知恩院物語』では源智と弁長も)。間口45m。奥行35m。大正天皇宸筆勅額「明照」が掲げられている。本堂、大殿とも呼ばれる。 |
阿弥陀堂![]() | 御影堂周辺 | 阿弥陀如来 | 本尊は阿弥陀如来。丈六像。東面する。仏殿ともいう。文暦年間、源智が知恩院を起こした時に阿弥陀堂も建立された。現在の勢至堂鐘楼の場所にあったという[3]。永正火災で焼失後、1517年(永正14年)12月、東福寺境内の万寿寺伽藍を移築して阿弥陀堂とした。1710年(宝永7年)9月25日、現在地に移築。1878年(明治11年)10月、老朽化により解体。1879年(明治12年)4月に再建事務所を設置し、1897年(明治30年)から本格化。1903年(明治36年)に起工して1910年(明治43年)4月に再建落慶した。総工費42万円。本尊の阿弥陀如来像は百済寺の旧仏と伝える。仁門菩薩作の9尺4寸の坐像だった。石清水八幡宮南三昧堂に移されていたが、被災して面部のみ残った。宝永年間、法然院忍チョウがこれを入手して法然院の宝庫に納めていたが、1760年(宝暦10年)に知恩院麗誉に寄進。仏師田中康教が胴体を制作して阿弥陀堂の本尊とした。1910年(明治43年)再建にあたり、金箔を新たにした。後奈良天皇筆の勅額「大谷寺」を掲げる。 |
経蔵![]() | 御影堂周辺 | 傅大士 | 1621年(元和7年)、徳川秀忠の建立。宋代開元寺版大蔵経を納める。傅大士・普賢・普成(康猶作)を祀る。 |
写経塔![]() | 御影堂周辺 | ||
宝仏殿![]() | 御影堂周辺 | 阿弥陀如来 | 本尊は阿弥陀如来と四天王。1992年(平成4年)建立。ロッカー式の納骨堂。 |
納骨堂![]() | 御影堂周辺 | 阿弥陀如来 | 本尊は阿弥陀三尊と二十五菩薩。善導1250年遠忌記念で1930年(昭和5年)に建立。大阪の小西久兵衛、小西吉栄子が発願。京都府技師の阪谷良之進が設計。棟梁は三林石松。方形造。本瓦葺き。地下の玄室に全国信徒の遺骨を納める。 |
五輪塔![]() | 御影堂周辺 | 忍性か | 京都・白毫寺の遺物。忍性の墓塔という説がある。無銘。高さ2.7m。忌明塔とも。 |
多宝塔![]() | 御影堂周辺 | 不詳 | 1959年(昭和34年)建立。正式名称は「七百五十万霊塔」。「霊塔」ともいう。「新納骨堂」とも呼ばれていた。 |
大鐘楼![]() | 御影堂周辺 | 1678年(延宝6年)12月5日造営。1636年(寛永13年)9月鋳造。東大寺大鐘楼に類似するという。 | |
交通災害者慰霊塔![]() | 御影堂周辺 | ||
殉難忠士之墓![]() | 御影堂周辺 | 「慶応戊辰仲秋」(1868年(明治1年)8月)銘。学天の銘文がある。追悼対象として個人名はない。 | |
泰平亭![]() | 御影堂周辺 | 休憩所。1853年(嘉永6年)造営。1943年(昭和18年)12月18日焼失[4]。再建。 | |
行誡塔 | 御影堂周辺 | 福田行誡 | 福田行誡の塔。銅像。1888年(明治21年)2月15日建立。 |
御廟![]() | 御廟周辺 | 法然 | 法然墓。廟内にある五輪塔。最初にここに葬られたが、1227年(安貞1年)の嘉禄法難で粟生野で火葬して分骨。源智が1234年(文暦1年)その遺骨を朱の唐櫃におさめて宝塔に安置したという。1613年(慶長18年)、土浦城主松平信一の寄進で廟を改築。1710年(宝永7年)11月25日に修復し拝堂を建立した。1774年(安永3年)、1836年(天保7年)、1892年(明治25年)、1909年(明治42年)に修復。1934年(昭和9年)室戸台風で被災するが、1937年(昭和12年)修復。銅製の手水鉢は法然院忍チョウの寄進。御影堂から御廟までの石段は酒井左衛門尉の寄進。標石は1884年(明治17年)内藤源三郎の寄進。廟前の敷石は1905年(明治38年)井上直七の寄進。賜蓮堂とも。 |
勢至堂![]() | 御廟周辺 | 勢至菩薩 | 本尊は勢至菩薩。勢至菩薩は源信作という。東壇には玄誉が奉安した阿弥陀如来があり、西壇には善導像を祀る。1718年(享保3年)、1530年(享禄3年)再建の御影堂を移築して勢至堂とした。入母屋造り本瓦葺き。知恩院で現存最古の建造物。1894年(明治27年)修復。伝後奈良天皇筆「知恩教院」の額を掲げる。1690年(元禄3年)の一万日回向や1718年(享保3年)の二万日回向など不断念仏が行われた。本地堂ともいう。1894年(明治27年)8月、付属の庫裏を改築。庫裏は東衆寮と西衆寮に分かれる。1759年(宝暦9年)浄琳院宮吉子内親王の御殿を移築した山亭があり、客殿として使われた。 |
位牌堂 | 御廟周辺 | 地蔵菩薩 | 勢至堂の脇にある。本尊は地蔵菩薩。 |
蓮華蔵 | 御廟周辺 | 廟参道に傍らにある。1879年(明治12年)9月から昭和初期頃まで納骨堂として使われた。 | |
勢至堂鐘楼 | 御廟周辺 | 1530年(享禄3年)4月の再建。1671年(寛文11年)、1894年(明治27年)に修復。梵鐘は1517年(永正14年)に鋳造で1711年(正徳1年)に改鋳。 | |
影向石![]() | 御廟周辺 | 賀茂明神 | 法然の臨終のときに賀茂大明神が出現した。 |
紫雲水 | 御廟周辺 | 勢至堂東南の崖下にある。法然が入寂の時に現れた紫雲がこの水に宿ったという。あるいは1322年(元亨2年)1月25日、了恵が法然語燈録を奉納する時に紫雲がたなびき、光がこの池に映ったともいう[5]。紫雲石がある。 | |
濡髪大明神 | 御廟周辺 | 荼枳尼天 | 祭神は荼枳尼天。寛永年間の創建。霊巌の前に現れた白狐(濡髪童子)を祀るという。稲荷信仰。寺務所にも濡髪大明神の神棚が設けられているという[6]。濡髪堂。濡髪社。(『知恩院史』には記述がない) |
歴代住職墓地![]() | 御廟周辺 | 知恩院歴代住職の墓地。 | |
一心院 | 御廟周辺 | 阿弥陀如来 | 知恩院からは独立している。 |
知恩院宮墓地 | 御廟周辺 | 知恩院宮歴代を葬る。一心院墓地の中にある。 | |
集会堂![]() | 方丈周辺 | 阿弥陀如来 | 本尊は阿弥陀三尊像(源信作)で玄誉が納めたもの。弁長や文殊菩薩も祀られているという[7]。僧侶が法要前に集まり礼を行う場所。誦経、講学などにも使われた。御影堂の修復の際は仮堂としても使われる。1635年(寛永12年)造営。梁行13間、桁行23間で南面する。正面の門を武家門と呼ぶ。千畳敷、衆会堂とも呼ばれた。御影堂・大方丈・小方丈と廊下でつながっている。1872年(明治5年)6月に行われた京都の大博覧会では諸寺と共に会場とされ、明治天皇が行幸した。同志社の設立総会は集会堂で行われた。 |
大方丈![]() | 方丈周辺 | 阿弥陀如来 | 仏間には阿弥陀如来と歴朝尊儀[8]、知恩院宮歴代霊牌、徳川家一族霊牌を祀る。将軍を迎えるための書院。1623年(元和9年)造営。桁行19間、梁間13間半。入母屋造、檜皮葺。鶴之間、松之間、梅之間、柳之間、鷺之間、上段の間、中段の間、下段の間、裏上段の間、納戸、菊之間がある。もっとも広いのは鶴之間で、拝謁の間であり、仏間があり、広さは54畳。上段の間は「玉座」であり、1872年(明治5年)の明治天皇行幸に際に使われた。鏡餅を供えてあり、皇居を遥拝するという[9]。裏上段の間は知恩院宮の得度の間に充てられた。玄関、歩廊、新廊などが付属。 |
小方丈![]() | 方丈周辺 | 仏間はない。1623年(元和9年)(1633年(寛永10年)とも)造営。大方丈の東北にあり、南面する。桁行12間半、梁間10間2尺。入母屋造り檜皮葺。上段之間、下段之間、雪中山水之間、蘭亭之間、花鳥之間、羅漢之間がある。中央となるのは雪中山水之間。上段之間は知恩院宮の御成の間、のちには皇族の御成の間としている。大方丈と小方丈を二つ備える場合は片方を仏堂的要素を加え、もうひとつは純殿舎風に作るといい、それに従っている。 | |
唐門![]() | 方丈周辺 | 1623年(元和9年)造営。入母屋造り檜皮葺。1633年(寛永10年)造営とも。1641年(寛永18年)とも。勅使門に該当するか。 | |
古経堂 | 方丈周辺 | 内対面所。大方丈の北、小方丈の西にある。門主と僧侶・信徒との公式の対面所。「古経堂」の扁額があり、この名は順誉徹定の別号に由来する。 | |
学問所 | 方丈周辺 | 門主の居所。居間、飾りの間、控の間、内仏の間がある。 | |
雪香殿 | 方丈周辺 | 大庫裏。集会堂の北にある。寛永年間に造営。1868年(明治1年)にはフランス公使の宿所になったか。明治初年にはフランス語・オランダ語学校になっていた。老朽化と大正大典記念と勅額奉安慶讃のため1915年(大正4年)9月に増築した。 | |
小庫裏 | 方丈周辺 | ||
寺務所 | 方丈周辺 | 1999年(平成11年)建設。山下設計関西支社が設計し、鹿島建設が施工。 | |
仏足石 | 方丈周辺 | 釈迦如来 | 大方丈の玄関前にある。大理石製。 |
坐禅石 | 方丈周辺 | 山門の東南の真葛原にあったという。慈円がここに腰を掛けたという。天和年間に所司稲葉正通が中井主水に命じて方丈前庭に運ばせた。和尚石、慈鎮石とも。[10] | |
権現堂![]() | 方丈周辺 | 東照大権現 | 東照大権現、徳川秀忠、徳川家光の像(束帯木像。焼失)をはじめ歴代将軍の位牌を祀る。徳川家康の死後、家康像を方丈に祀った。雄誉霊巌の時に廟宇を建てて祀ったが、1633年(寛永10年)1月9日の寛永大火で焼失。1648年(慶安1年)、徳川家光が所司代板倉重宗に命じて再建した。1698年(元禄11年)12月、1720年(享保5年)6月、1732年(享保17年)6月、1739年(元文4年)9月、1765年(明和2年)3月、1911年(明治44年)10月に修復された。1956年(昭和31年)8月7日、三木像と共に焼失[11]。1974年(昭和49年)再建。1698年(元禄11年)12月、松平信茲寄進の手水鉢がある。「御神殿」「権現様影堂」「影堂」「御黒御殿」「東照宮」とも呼ばれた。 |
炊事場 | 方丈周辺 | 三宝大荒神 | 三宝大荒神を祀る[12]。 |
山門![]() | 山門周辺 | 釈迦如来 | 本尊は釈迦如来、善財童子、須達長者、十六羅漢(康猶作)。また大工棟梁の五味金右衛門夫妻の僧形像も祀られている。1621年(元和7年)(1619年(元和5年)とも)、徳川秀忠の建立。伝霊元天皇筆「華頂山」額を掲げる。三門。三解脱門。 |
仏教大学建学之地碑![]() | 山門周辺 | 仏教大学の記念碑 | |
鉄盤石![]() | 山門周辺 | 三条小鍛冶宗近が鍛錬に使ったという。1684年(貞享1年)10月5日に霊雲院近くから山門脇の刃水(小鍛冶井)近くに移されたという。現存不詳。 | |
鎮守八幡宮![]() | 山門周辺 | 八幡神ほか | 祭神は八幡神・天照大神・春日神・山王神・熊野神・愛宕神・弁才天。拝殿は1817年(文化14年)に焼失後、1818年(文政1年)に再建。神主の居所を真葛庵という。 |
和順会館![]() | 山門周辺 | 1972年(昭和47年)開館。2011年(平成23年)リニューアル。 | |
京都解放運動戦士の碑![]() | 山門周辺 | 1958年(昭和33年)3月15日建立。設計は西山夘三。日本共産党系統。 | |
瓜生石![]() | 黒門周辺 | 牛頭天王 | 黒門の前にある。牛頭天王が出現した石。粟田神社の鉾が粟田祭でここまで巡行する。1684年(貞享1年)11月10日、石垣を整備。 |
親鸞墓跡![]() | 黒門周辺 | 親鸞 | 崇泰院境内。親鸞の墓の大谷廟堂の跡地という。 |
前田正名記念碑![]() | 黒門周辺 | ||
知恩院史料編纂所 | 黒門周辺 | 1970年(昭和45年)開設。 | |
知恩院宮御殿 | 宗務庁周辺 | ||
得浄明院![]() | 宗務庁周辺 | 善光寺如来 | 明治時代に知恩院宮御殿の跡地に創建。善光寺の京都別院。 |
京都華頂大学![]() | 宗務庁周辺 | 法然700年遠忌に際して大師号「明照大師」号下賜を記念して知恩院宮御殿の跡地に1911年(明治44年)9月に華頂女学院を創設。これ以前には浄土宗西部大学林、浄土宗大学林京都支校、第五教校などが置かれた。1953年(昭和28年)福寿院跡に華頂学園短期大学開設。 | |
太子水![]() | 宗務庁周辺 | 光玄院跡。聖徳太子ゆかり。太子堂白毫寺の遺物。白毫寺移転と共に光玄院に属し、のち華頂女学院の土地となる。現存不詳。 | |
布教講習所 | 宗務庁周辺 | 福寿院内。1922年(大正11年)知恩院専修道場を解説。1925年(大正14年)9月、総本山布教講習所となる。廃絶か。 | |
華頂会館![]() | 宗務庁周辺 | 忠岸院跡。コンクリート造。昭和大典記念、善導1250年記念。1928年(昭和3年)10月21日竣工。設計は武田五一。1988年(昭和63年)廃絶。浄土宗宗務庁敷地内に石碑がある。 | |
浄土宗宗務庁![]() | 宗務庁周辺 | 忠岸院跡。華頂会館跡。知恩院とは別組織。浄土宗知恩院派の本部事務所。 | |
京都教区教務所![]() | 宗務庁周辺 | 浩徳院内。 | |
吉水学園 | 宗務庁周辺 | 樹昌院跡。1888年(明治21年)2月、輪島聞声が浄土宗学尼衆京都支校付属尼衆教場を開設。1959年(昭和34年)4月、吉水学園高等学校となる。1980年(昭和55年)専修科を残して廃止。1995年(平成7年)廃校。 | |
平安養育院![]() | 宗務庁周辺 | 1905年(明治38年)4月創設。1906年(明治39年)財団法人。知恩院に寄付。1926年(昭和1年)3月、鞍馬口に移転? | |
華頂火葬場![]() | その他 | 東山区粟田口華頂町。粟田火葬場が前身。1596年(慶長1年)に酒井忠次の夫人を火葬したの始まりという。1624年(寛永1年)、金地院東照宮の造営にともない、華頂山に移転。酒井忠次が知恩院に土地を寄進したものという。1665年(寛文5年)良恩寺に寄進される。1733年(享保18年)10月、青蓮院門跡の命により廃止。「知恩院火葬場」とも。 |
子院
名称 | エリア | 現状 | 概要 |
---|---|---|---|
良正院![]() | 北側 | 現存 | 鳥取藩主池田家の菩提寺。子院の筆頭だった。1428年(正長1年)善誉九感が創建。浩翁軒は善誉九感の号。ただし善誉九感の没年は1595年(文禄4年)といい、1593年(文禄2年)には生存していたことを示す文書があることからこの頃の創建とみられる。願誉宗把(得入)が徳川家、池田家の帰依を得て中興。池田輝政が1613年(慶長18年)1月25日、死去。徳川家康の娘で池田輝政夫人の良正院督姫が1615年(元和1年)2月5日、二条城三の丸で死去。良正院殿と号す。家康の命で満誉が葬儀の導師を務め、知恩院に埋葬。1618年(元和4年)子の池田忠雄が徳川秀忠の許可を得て浩翁軒を整備。良正院殿が死去した二条城の御殿を移築した。1624年(寛永1年)に落慶。良正院殿の御影と位牌を浩翁軒に奉遷して菩提寺とし良正院と改称した。将軍家の命で願誉宗把を改めて住職となった。池田忠雄、50石寄進。1713年(正徳3年)修復。1761年(宝暦11年)の法然550回忌の勅使参向の際、勅使の滞在所となった。これに先立ち客殿・唐門・鎮守などの修理を行った。1814年(文化11年)山上御霊屋(墓所?)を修復。1864年(元治1年)本堂など修復。1788年(天明8年)1月の天明大火で開明門院(桜町天皇後宮)が良正院滞在中の1789年(寛政1年)9月22日に死去。翌年、門院御所から寄付あり。1871年(明治4年)10月、池田家の神葬祭改宗により供養米は全廃となり、位牌返納を命じられた。幕府御用人を暗殺した奥田万次郎が1863年(文久3年)8月20日良正院で自刃。良正院殿像もある。(『知恩院史』[13]) |
先求院![]() | 北側 | 現存 | 荘内藩主酒井家の菩提寺。牧野家、小笠原家、膳所本多家の菩提寺にもなる。天正年間の創建。酒井忠次が声誉助念を開山として創建。声誉助念は三河出身で大樹寺中興の登誉天室に従う。一心院に入り5世となる。酒井忠次は1588年(天正16年)隠居して桜町自邸で一智と名乗り、浄土教に専念する。同郷で旧知の声誉助念に帰依して仙求庵を現在地に創建。1596年(慶長1年)酒井忠次が死去し、知恩院山上に葬られ、その戒名「先求院」を寺号とした。1631年(寛永8年)本多家、酒井家、牧野家により修復。1645年(正保2年)には酒井家、牧野家、本多家、小笠原家の寄進で修理。歴代住職は膳所本多家やその家臣の家から出し、14世までは酒井家を名乗った(猶子か)。1853年(嘉永6年)、酒井忠発の寄進で境内に酒井忠次御霊屋を創建し、先求院殿肖像を祀った。明治維新で酒井家は神葬祭に改宗した。1931年(昭和6年)7月、御霊屋を修復。1935年(昭和10年)、本堂修復。境内に教師養成所が置かれていた。(『知恩院史』[14]) |
光玄院![]() | 北側 | 移転 | 1610年(慶長15年)知恩院満誉尊照が創建。1603年(慶長8年)まで太子堂白毫寺があったとされる地。太子水と太子松があった。当初は浩玄院と称したが寛永年間以降、光玄院と称した。1676年(延宝4年)鳥取慶安寺4世の良山が修復。享保年間、修復。隣接する知恩院宮御殿の拡張のため、1857年(安政4年)に通照院の南に移転再建。1868年(明治1年)、尊秀法親王の命で尊超法親王の位牌を奉安。2016年(平成28年)法人格閉鎖。(『知恩院史』[15]) |
知恩院宮御殿 | 北側 | 廃絶 | 知恩院宮の御殿 |
得浄明院![]() | 北側 | 現存 | 明治時代に知恩院宮御殿の跡地に創建。善光寺大本願の京都別院。 |
福寿院 | 北側 | 廃絶 | 有馬八郎兵衛尉(1655年(明暦1年)死去)が出家して崇福院殿僧誉還愚居士と称して寺院を創建。松樹院(松寿院)と称した。有馬庄兵衛佐が英寿院殿の菩提のため位牌を安置。崇福院殿と栄寿院殿の号から福寿院と改名した。1729年(享保14年)老朽化のため伽藍解体。1730年(享保15年)再建。大日堂があった。明治以後、華頂看護婦養成所の宿舎となり、のち専修道場や布教講習所が置かれた。現在は京都華頂大学などがある。(『知恩院史』[16]) |
浩徳院![]() | 北側 | 現存 | 由緒沿革不詳。1933年(昭和8年)4月10日改築し、京都教区教務所・京都宗学院を設置。住職は教務所長が兼務。(『知恩院史』[17]) |
松宿院![]() | 北側 | 現存 | 松風天満宮がある。1638年(寛永15年)創建。知恩院32世の雄誉松風霊巌、寛永大火の後、知恩院伽藍復興に尽力し、仏教興隆・伽藍安全祈願のため菅原道真像を奉安して「松風の宿」となし、松宿庵と号した。元は本山役院の場所にあったと推定されている。1732年(享保17年)12月、源修庵と寺地を交換し現在地に移転。1913年(大正2年)7月、庵号を改めて松宿院と称す。1875年(明治8年)花宿庵を合併。1881年(明治14年)9月再建。1927年(昭和2年)再建。天満宮のほか、弁天堂、吉祥天堂、大黒天堂があるという。(『知恩院史』[18]) |
花宿庵 | 北側 | 廃絶 | 由緒沿革不詳。1875年(明治8年)5月、松宿庵に合併。(『知恩院史』[19]) |
通照院 | 南側 | 廃絶 | 由緒沿革不詳。初名は西養軒で、のち西養院と改称。1702年(元禄15年)霊雲院と改称。享保年間、通照院と称した。1920年(大正9年)、改築して尼衆学校校舎に当てる。通照院の名は垂水(兵庫県神戸市垂水区歌敷山)に移された。(『知恩院史』[20]) |
常称院![]() | 南側 | 現存 | 慶長年間、実誉念西が創建。光誉九達が中興。1917年(大正6年)再建。2016年(平成28年)法人格閉鎖。2017年(平成29年)6月、庫裏を改修[21]。(『知恩院史』[22]) |
信重院![]() | 南側 | 現存 | 1591年(天正19年)、徳川家家臣の藤堂良家が妻の旭峰院殿(1589年(天正17年)死去)の死を契機として名誉重信を招いて創建。1603年(慶長8年)菩提所とする。藤堂良家は1603年(慶長8年)死去し、その号「信重院殿」から信重院と称す。1774年(安永3年)庫裏改築。1915年(大正4年)書院庫裏を修復。知恩院76世の福田行誡が晩年隠居した。(『知恩院史』[23]) |
保徳院![]() | 南側 | 現存 | 正保年間、松誉源甫が創建。慶安年間、伴道悦が再建。1732年(享保17年)修復。(『知恩院史』[24]) |
忠岸院![]() | 南側 | 廃絶 | 由緒沿革不詳。明治以後、三河の信徒の宿所となる。1928年(昭和3年)華頂会館が建設され、寺号は三河(愛知県刈谷市野田町西屋敷)に移された。現在は浄土宗宗務庁がある。(『知恩院史』[25]) |
入信院![]() | 南側 | 現存 | 知恩院29世の満誉尊照が創建。2世は雄誉霊巌(知恩院32世)で淀藩主松平定綱は室の智相院殿が1633年(寛永10年)に死すると帰依していた雄誉霊巌に葬儀を依頼した。松平定綱は智相院殿の生前の居室を移築して仏殿とした。1649年(慶安2年)、供養料として100石を寄進。智相院殿の名による智相院と称した。1676年(延宝4年)10月19日、3世の玄誉万無(知恩院38世)の時、藤方次郎右衛門が荒廃を嘆いて銀2貫500目を毎年寄進。1677年(延宝5年)4月28日、源修庵での不断念仏を移し、入信院と改称した。1701年(元禄14年)万日回向。1705年(宝永2年)万日回向。学僧として知られた良照義山(1717年(享保2年)11月13日死去。70歳)が1683年(天和3年)に入寺し中興。1872年(明治5年)、総本山勧学場が源光院から移転。1878年(明治11年)まであった。1887年(明治20年)3月11日、尼衆学校が開校し1920年(大正9年)3月に通照院に移転。1891年(明治24年)布教講習院が仁王門教安寺から移転、1898年(明治31年)金戒光明寺に移転した。1906年(明治39年)4月、華頂看護婦学校開設。華頂幼稚園設立のため境内を一部分割して1934年(昭和9年)伽藍再建。(『知恩院史』[26]) |
光照院![]() | 南側 | 現存 | 知恩院29世の満誉尊照が創建。2世の空誉霊欽の時代、上田藩松平伊賀守が父松平信吉(光照院殿)を菩提を弔うために中興。(『知恩院史』[27]) |
役院 | 黒門 | 廃絶 | 1732年(享保17年)12月、松宿庵を源修庵に移転させ、源修庵を退去させ、六役会合の役院とする。 |
源修庵 | 黒門 | 廃絶 | 1732年(享保17年)12月、松宿庵と寺地を交換の上、住職は退任となり、本山役院となる。(『知恩院史』[28]) |
崇泰院![]() | 黒門 | 現存 | 本尊の阿弥陀如来は源信作で九条兼実の念持仏と伝える。1207年(承元1年)3月、九条兼実は親鸞に付属し、覚信尼に伝えられた。1603年(慶長8年)10月8日、幕府、知恩院の大拡張のため、本願寺准如に命じて親鸞廟堂を北鳥部野に移転させた。慶長の造営時に普請奉行を務めた竹村道清(1563-1635、崇泰院勝誉道清居士)が創建。道清はのち石州奉行を務め、石見で死去して勝源寺に埋葬。1726年(享保11年)頃、種善院と称したが、1727年(享保12年)12月、崇泰院に復した。石塔が残る。1891年(明治24年)、見真大師建碑問題が起こり、知恩院一山が反対し住職が退免となり、訴訟にまで至ったが建碑は中止となった。1897年(明治30年)、知恩院の命で大阪市大乗寺・法界寺・光伝寺・金台寺が発起して本堂・庫裏・書院を再建。4寺住職が交代して兼務することになった。(『知恩院史』[29]) |
徳林院 | 黒門 | 廃絶 | 慶長年間、一誉法意が創建。沿革は不詳。三門の防火対策のため移転することになり、既成院に合併した。(『知恩院史』[30]) |
既成院 | 黒門 | 移転 | 由緒沿革不詳。もとは黄梅院と称し、のち九誾院と改めた。享保年間頃、既成院と改称した。東大寺公慶が知恩院の協力で大仏再建のために勧進の拠点とした。1732年(享保17年)客殿など改修。1908年(明治41年)、三門の防火対策のため現在地に移転。この時、徳林院を合併した。1912年(大正1年)本堂など新築。1935年(昭和10年)9月、総本山布教講習所を設置。(『知恩院史』[31]) |
源光院![]() | 三門 | 移転 | 法人格はなく、現在は浄土宗教化研修会館がある。年代は不明だが賢宿が創建し賢宿院と称した。寛永年間に源光院に改称した。1650年(慶安3年)、久須美重次・重成兄弟が再興。1788年(天明8年)天明大火の時、有栖川宮御方が源光院と真源院に1789年(寛政1年)9月まで避難した。1908年(明治41年)、三門の防火対策のため移転して広岡家の寄進で再建。(『知恩院史』[32]) |
樹昌院![]() | 三門 | 移転 | 黒田孝高の妹の昌林院は赤松家臣の尾上安右衛門に嫁ぐ。1589年(天正17年)夫の武運長久祈願で宇佐八幡宮に参拝したとき、出家を勧められる霊夢を得た。帰宅すると尾上氏の戦死を知り、中津円応寺真誉のもとで受戒剃髪。その後、上洛して知恩院の近くに庵を結んだ。1669年(寛文9年)知恩院宮2代の尊光法親王から樹昌庵の庵号を賜る。無住が続き、1899年(明治32年)再建。1906年(明治39年)4月7日、円山火災で真源院と共に焼失。1908年(明治41年)現在地に移転。1912年(大正1年)12月再建。1934年(昭和9年)室戸台風で被災。再建。(『知恩院史』[33]) |
真源院 | 三門 | 廃絶 | 寛永年間、九変が創建。当初は九勝院と処した。享保年間頃、真源院と改称した。1906年(明治39年)4月7日、円山火災で樹昌院と共に焼失。1908年(明治41年)移転。1909年(明治42年)、九州信徒の宿所として宿泊所を建設。1912年(大正1年)9月、暴風雨で全壊。再建。廃絶時期不詳。(『知恩院史』[34]) |
以徳院 | 三門 | 廃絶 | 由緒沿革不詳。明治初年、再建のため解体するが長年建設に取りかかれず、1895年(明治28年)4月10日、再興許可を得るが整地工事に経費が掛かり、ついに遂げられず、1900年(明治33年)12月26日、知恩院に合併となった。威徳院か。(『知恩院史』[35]) |
真葛庵![]() | 三門 | 現存 | 由緒沿革不詳。知恩院八幡宮の奉仕者の宿所だった。700年遠忌のときの貴賓館に当てるため、1911年(明治44年)6月、再建。名称は真葛原という周辺の地名による。法人格はなし。現在は茶室扱いされているようだ。(『知恩院史』[36]) |
一心院 | 山上 | 現存 | 独立寺院。浄土宗捨世派の本山。 |
以上の他、政教中正論[37]には次がある。 浩源院 信寿院 常照院 源順院
組織
門跡
江戸時代には住職とは別に門跡が設置されたが名誉職的な存在だったと思われる。華頂宮を参照。
住職
- 戦後は浄土門主と呼ぶ。
代 | 名前 | 生没年 | 在職年 | 蓮社号など | 誉号など | 阿号など | 称号 | 略歴 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 源空 | 1133-1212 | 法然房 | 浄土宗開祖。知恩寺初代。 | ||||
2 | 源智 | 1183-1238 | 勢観房 | 平師盛の子。平重盛の孫。紫野門徒の祖。知恩寺2世。 | ||||
3 | 本仏道宗 | ?-1250 | 1250年(建長2年)10月2日死去。 | |||||
4 | 道舜 | ?-1264 | 1264年(文永1年)2月3日死去。 | |||||
5 | 覚生 | ?-1271 | 1271年(文永8年)6月9日死去。 | |||||
6 | 遍空 | ?-1285 | 観明房 | 観明房と号す。1285年(弘安8年)9月21日死去。 | ||||
7 | 了信 | ?-1293 | 1293年(永仁1年)2月13日死去。 | |||||
8 | 如空 | 1262-1321 | 仏元真応智慧如一国師 | 智恵光院開山。知恩寺6世。1321年(元亨1年)3月6日死去。60歳。 | ||||
9 | 舜昌 | 1255-1335 | 弓削正家の子。如空の弟子。『法然上人絵伝』を著す。舜昌法印。元天台宗僧で延暦寺功徳院にいた。1335年(建武2年)1月14日(25日とも)死去。80歳余。 | |||||
10 | 西阿 | ?-1355 | 西阿 | 1355年(文和4年)8月18日死去。 | ||||
11 | 円智 | ?-1357 | 鳥羽法伝寺と山科・阿弥陀寺を創建。1357年(延文2年)3月27日死去。 | |||||
12 | 誓阿 | 1297-1374 | 誓阿 | 当麻寺奥院を創建したという。1374年(応安7年)7月19日死去。78歳。誓阿普観。 | ||||
13 | 恭阿 | ?-1378 | 恭阿 | 1378年(永和4年)9月20日死去。 | ||||
14 | 助阿 | ?-1392 | 助阿 | 1392年(明徳3年)3月16日(1381年(永徳1年)4月22日とも)死去。 | ||||
15 | 佐阿 | ?-1398 | 佐阿 | 1398年(応永5年)2月21日死去。 | ||||
16 | 信楽 | ?-1400 | 1400年(応永7年)10月22日死去。 | |||||
17 | 法阿 | ?-1407 | 法阿 | 1407年(応永14年)応永14年4月23日死去。 | ||||
18 | 入阿 | ?-1448 | 入阿 | 1448年(文安5年)8月26日死去。 | ||||
19 | 隆阿 | 1413-1481 | 尭誉 | 隆阿 | 浄厳院開山隆尭の弟子。浄厳院2世。称名院(滋賀県守山市)を創建。1481年(文明13年)年9月7日死去。69歳。 | |||
20 | 空禅 | ?-1450 | 1450年(宝徳2年)4月28日死去。 | |||||
21 | 慶竺 | 1403-1459 | 行蓮社 | 大誉 | 知恩寺19世。1459年(長禄3年)1月24日死去。57歳。 | |||
22 | 珠琳 | 1439-1511 | 1459-1503 | 棟蓮社 | 周誉 | 1459年(長禄3年)就任。応仁の乱の戦火で1468年、知恩院は焼失。そのため青蓮院領だった近江国伊香立荘に御影像・宝物と共に避難。まず上在地の金蓮寺に入り、まもなく下在地に新たに一寺を建立した。これが新知恩院である。1477年、戦火が収まると京都に帰り、知恩院復興の準備を始める。御影像を修復し、伽藍を再建し、1788年、京都知恩院を復興させた。1503年(文亀3年)辞山。1511年(永正8年)4月23日(1月26日とも)死去。73歳。 | ||
23 | 愚底 | 1445-1516 | 1504-1511 | 真蓮社 | 勢誉 | 松平家・徳川家の菩提寺大樹寺の開山。江戸時代の浄土宗興隆の源流を作る。1504年(永正1年)8月就任。1511年(永正8年)辞山。1516年(永正13年)4月11日死去。73歳?。 | ||
24 | 訓公 | ?-1520 | 1511- | 釈蓮社 | 肇誉 | 信光明寺より晋山。三河大恩寺中興。1511年(永正8年)就任。1520年(永正17年)8月15日死去。 | ||
25 | 存牛 | 1469-1549 | 1520-1527 | 尊蓮社 | 超誉 | 高顕真宗国師 | 松平親忠の子。信光明寺3世。1520年(永正17年)冬就任。1527年(大永7年)辞山。1549年(天文18年)12月20日死去。81歳。1857年(安政4年)閏5月11日、国師号が贈られる。 | |
26 | 源派 | ?-1552 | 1527-享禄 | 歎蓮社 | 保誉 | 法然寺開山。1527年(大永7年)就任。享禄初年に辞山。1552年(天文21年)3月30日死去。 | ||
27 | 光然 | ?-1555 | 享禄-1554 | 浩蓮社 | 徳誉 | 山城・大念寺を創建。享禄(1528-1532)初年に就任。1554年(天文23年)10月辞山。1555年(弘治1年)7月24日死去。 | ||
28 | 聡補 | 1521-1598 | 1554-1595 | 九蓮社 | 浩誉 | 内大臣万里小路秀房の子。1554年(天文23年)11月就任。1595年(文禄4年)10月辞山。1598年(慶長3年)11月17日死去。78歳。『日本仏家人名辞書』に「聡甫」。 | ||
29 | 尊照 | 1562-1620 | 1595- | 行蓮社 | 満誉 | 知恩院中興。万里小路秀房の孫。聡補の甥。知恩院の総本山としての地位を固めた。1595年(文禄4年)10月就任。1620年(元和6年)6月25日死去。59歳。 | ||
30 | 法雲 | ?-1627 | 1620- | 馨蓮社 | 城誉 | 自坊は天嶽寺。1620年(元和6年)10月台命で就任。1627年(寛永4年)12月朔日死去。 | ||
31 | 源正 | ?-1628 | 1628- | 太蓮社 | 然誉 | 1628年(寛永5年)7月台命で就任。1628年(寛永5年)8月5日死去。 | ||
32 | 霊巌 | 1554-1641 | 1629- | 檀蓮社 | 雄誉 | 今川氏勝の三男。大巌寺3世。江戸・霊巌寺開山。1629年(寛永6年)6月25日台命で就任。1641年(寛永18年)9月朔日死去。88歳。『日本仏家人名辞書』に「霊厳」。 | ||
33 | 廓源 | 1577-1648 | 1642- | 本蓮社 | 円誉 | 鎌倉光明寺33世を経て晋山。1642年(寛永19年)2月台命で就任。1648年(慶安1年)7月4日死去。72歳。 | ||
34 | 文宗 | ?-1649 | 1648- | 深蓮社 | 心誉 | 飯沼・弘経寺から晋山。1648年(慶安1年)8月台命で就任。1649年(慶安2年)12月8日死去。 | ||
35 | 旧応 | ?-1657 | 1650- | 超蓮社 | 勝誉 | 鎌倉光明寺36世を経て晋山。1650年(慶安3年)1月台命で就任。1657年(明暦3年)3月朔日死去。 | ||
36 | 尊空親王 | 1616-1688 | 1657-1663 | 天蓮社 | 帝誉 | 伏見宮出身。尊空神社祭神。真如院と号す。1657年(明暦3年)6月台命で就任。1663年(寛文3年)12月退任。1688年(元禄1年)11月7日死去。73歳。 | ||
37 | 知鑑 | 1606-1678 | 1663-1674 | 信蓮社 | 玄誉 | 蓮馨寺、鎌倉光明寺41世を経て晋山。伊勢寂照寺を創建。1663年(寛文3年)12月24日台命で就任。1674年(延宝2年)4月19日退任。1678年(延宝6年)3月6日死去。73歳。 | ||
38 | 万無 | 1607-1681 | 1674- | 直蓮社 | 玄誉 | 浄国寺、弘経寺、大光院、光明寺43世を経て晋山。浄土律の僧。京都法然院を創建。弟子に忍澂がいる。1674年(延宝2年)5月2日台命で就任。1681年(天和1年)6月25日死去。75歳。 | ||
39 | 感栄 | ?-1687 | 1681- | 正蓮社 | 直誉 | 大光院から晋山。1681年(天和1年)8月24日台命で就任。1687年(貞享4年)12月朔日死去。80歳余。 | ||
40 | 孤雲 | 1624-1691 | 1688- | 称蓮社 | 専誉 | 鎌倉光明寺48世を経て晋山。1688年(元禄1年)2月13日台命で就任。1691年(元禄4年)11月6日死去。68歳。 | ||
41 | 良我 | 1631-1693 | 1691- | 督蓮社 | 宏誉 | 鎌倉光明寺50世を経て晋山。1691年(元禄4年)12月10日台命で就任。1693年(元禄6年)12月29日死去。63歳。 | ||
42 | 秀道 | 1631-1707 | 1694- | 本蓮社 | 白誉 | 伝通院14世をへて晋山。1694年(元禄7年)1月29日台命で就任。1707年(宝永4年)3月11日死去。77歳。 | ||
43 | 円理 | 1650-1725 | 1707-1715 | 相蓮社 | 応誉 | 鎌倉光明寺53世を経て晋山。1707年(宝永4年)3月23日台命で就任。1715年(正徳5年)5月22日退任。1725年(享保10年)9月5日死去。76歳。 | ||
44 | 岸了 | 1647-1716 | 1715- | 入蓮社 | 通誉 | 鎌倉光明寺55世を経て晋山。1715年(正徳5年)6月19日台命で就任。1716年(享保1年)7月17日死去。70歳。『日本仏家人名辞書』に「岩春」。 | ||
45 | 沢春 | 1649-1718 | 1716- | 本蓮社 | 然誉 | 伝通院20世を経て晋山。1716年(享保1年)8月6日台命で就任。1718年(享保3年)7月25日死去。70歳。『日本仏家人名辞書』に「深春」。 | ||
46 | 了鑑 | ?-1727 | 1718- | 任蓮社 | 然誉 | 伝通院21世を経て晋山。1718年(享保3年)8月12日台命で就任。1727年(享保12年)8月5日死去。 | ||
47 | 見超 | ?-1732 | 1727- | 真蓮社 | 照誉 | 伝通院23世を経て晋山。1727年(享保12年)8月26日台命で就任。1732年(享保17年)1月7日死去。 | ||
48 | 往的 | ?-1738 | 1732- | 正蓮社 | 堅誉 | 伝通院24世を経て晋山。1732年(享保17年)2月2日台命で就任。1738年(元文3年)4月25日死去。 | ||
49 | 真察 | 1670-1745 | 1738- | 名蓮社 | 称誉 | 増上寺、弘経寺、鎌倉光明寺60世を経て晋山。1738年(元文3年)5月16日台命で就任。1745年(延享2年)4月4日死去。76歳。 | ||
50 | 鸞宿 | ?-1750 | 1745- | 台蓮社 | 霊誉 | 常陸・常福寺から晋山。1745年(延享2年)5月2日台命で就任。1750年(寛延3年)10月15日死去。 | ||
51 | 雲頂 | ?-1753 | 1626- | 遣蓮社 | 喚誉 | 伝通院28世を経て晋山。1626年(寛永3年)11月12日台命で就任。1753年(宝暦3年)2月5日死去。 | ||
52 | 了風 | 1683-1754 | 1753- | 光蓮社 | 団誉 | 江戸・霊山寺、常福寺、光明寺64世を経て晋山。1753年(宝暦3年)3月14日台命で就任。1754年(宝暦4年)9月3日死去。72歳。 | ||
53 | 順真 | ?-1769 | 1754-1763 | 厳蓮社 | 麗誉 | 鎌倉光明寺65世を経て晋山。1754年(宝暦4年)10月7日台命で就任。1763年(宝暦13年)8月20日退任。1769年(明和6年)4月12日死去。 | ||
54 | 沢真 | ?-1765 | 1763- | 潤蓮社 | 曹誉 | 伝通院31世を経て晋山。1763年(宝暦13年)9月25日台命で就任。1765年(明和2年)7月25日死去。『日本仏家人名辞書』に「深真」。 | ||
55 | 正含 | 1690-1769 | 1765- | 仁蓮社 | 興誉 | 鎌倉光明寺67世を経て晋山。1765年(明和2年)8月26日台命で就任。1769年(明和6年)10月2日死去。80歳。 | ||
56 | 教意 | 1700-1771 | 1769- | 金蓮社 | 覚誉 | 鎌倉光明寺69世を経て晋山。1769年(明和6年)11月4日台命で就任。1771年(明和8年)11月12日死去。72歳。 | ||
57 | 貞現 | ?-1780 | 1771-1780 | 栴蓮社 | 檀誉 | 鎌倉光明寺70世を経て晋山。1771年(明和8年)12月8日台命で就任。1780年(安永9年)7月11日退任。1780年(安永9年)9月24日死去。 | ||
58 | 祐月 | ?-1784 | 1780- | 深蓮社 | 海誉 | 伝通院38世を経て晋山。1780年(安永9年)8月6日台命で就任。1784年(天明4年)7月5日死去。 | ||
59 | 興玄 | ?-1796 | 1784-1791 | 誠蓮社 | 実誉 | 伝通院40世を経て晋山。1784年(天明4年)8月8日台命で就任。1791年(寛政3年)8月7日退任。1796年(寛政8年)3月18日死去。 | ||
60 | 定説 | ?-1802 | 1791-1798 | 見蓮社 | 誠誉 | 鎌倉光明寺76世を経て晋山。1791年(寛政3年)9月25日台命で就任。1798年(寛政10年)9月10日退任。1802年(享和2年)1月3日死去。 | ||
61 | 聖道 | ?-1801 | 1798- | 信蓮社 | 仰誉 | 伝通院44世を経て晋山。1798年(寛政10年)10月2日台命で就任。1801年(享和1年)9月16日死去。 | ||
62 | 霊麟 | ?-1806 | 1801- | 徳蓮社 | 聖誉 | 伝通院45世を経て晋山。1801年(享和1年)10月16日台命で就任。1806年(文化3年)4月13日死去。 | ||
63 | 智厳 | ?-1809 | 1806- | 愛蓮社 | 君誉 | 伝通院46世を経て晋山。1806年(文化3年)5月18日台命で就任。1809年(文化6年)7月19日死去。『日本仏家人名辞書』に「智儼」。 | ||
64 | 在心 | 1744-1822 | 1809-1820 | 清蓮社 | 泰誉 | 伝通院47世を経て晋山。1809年(文化6年)8月16日台命で就任。1820年(文政3年)9月4日退任。1822年(文政5年)9月27日死去。79歳。 | ||
65 | 貞厳 | ?-1827 | 1820- | 等蓮社 | 迎誉 | 伝通院49世を経て晋山。1820年(文政3年)10月3日台命で就任。1827年(文政10年)6月18日死去。『日本仏家人名辞書』に「照誉」。 | ||
66 | 貞瑞 | ?-1831 | 1827- | 明蓮社 | 察誉 | 鎌倉光明寺85世を経て晋山。1827年(文政10年)7月20日台命で就任。1831年(天保2年)12月26日死去。 | ||
67 | 説行 | ?-1850 | 1832-1836 | 諦蓮社 | 聴誉 | 鎌倉光明寺86世を経て晋山。1832年(天保3年)2月2日台命で就任。1836年(天保7年)12月18日退任。1850年(嘉永3年)4月17日死去。 | ||
68 | 説玄 | ?-1838 | 1837- | 法蓮社 | 響誉 | 鎌倉光明寺87世を経て晋山。1837年(天保8年)1月23日台命で就任。1838年(天保9年)閏4月21日死去。 | ||
69 | 順良 | ?-1845 | 1838-1844 | 但蓮社 | 方誉 | 鎌倉光明寺88世を経て晋山。1838年(天保9年)6月10日台命で就任。1844年(弘化1年)11月11日退任。1845年(弘化2年)12月16日死去。 | ||
70 | 歓幢 | ?-1848 | 1845- | 顕蓮社 | 赫誉 | 大光院から晋山。1845年(弘化2年)5月26日台命で就任。1848年(嘉永1年)7月26日死去。 | ||
71 | 顕道 | 1790-1858 | 1848- | 徳蓮社 | 万誉 | 勝願寺から晋山。1848年(嘉永1年)9月19日台命で就任。1858年(安政5年)5月12日死去。 | ||
72 | 浄厳 | ?-1861 | 1858- | 得蓮社 | 荘誉 | 鎌倉光明寺92世を経て晋山。1858年(安政5年)8月4日台命で就任。1861年(文久1年)4月10日死去。 | ||
73 | 学天 | 1804-1870 | 1861-1870 | 実蓮社 | 名誉 | 鎌倉光明寺94世を経て晋山。1861年(文久1年)7月13日台命で就任。1870年(明治3年)11月26日死去。67歳。維新の混乱期で学天の死後しばらく無住となる。 | ||
74 | 漆間俊光 | ?-1874 | 1871-1874 | 天蓮社 | 随誉 | 順阿斎祥 | 伝通院から晋山。1871年(明治4年)10月2日勅で就任。1872年(明治5年)5月任権少教正。明治年7月11日任大教正。1874年(明治7年)4月19日退任。1874年(明治7年)5月21日死去。 | |
75 | 養鵜徹定 | 1814-1891 | 1874-1887 | 随蓮社 | 順誉 | 宝阿 | 浄国寺、伝通院を経て晋山。1874年(明治7年)4月17日教部省から住職に任命。1875年(明治8年)3月7日任大教正。1887年(明治20年)4月退任。1891年(明治24年)3月15日死去。78歳。 | |
76 | 福田行誡 | 1809-1888 | 1887- | 建蓮社 | 立誉 | 晋阿 | 小石川清浄心院、両国・回向院、伝通院、増上寺70世を経て晋山。1887年(明治20年)4月6日内務大臣から住職に任命。1888年(明治21年)4月25日死去。83歳?。 | |
77 | 日野霊瑞 | 1818-1896 | 1888- | 麟蓮社 | 鳳誉 | 亀阿 | 増上寺71世を経て晋山。1888年(明治21年)6月5日宗派で推戴し、内務大臣から住職に任命。1896年(明治29年)5月13日死去。79歳。 | |
78 | 野上運海 | 1829-1904 | 1896-1902 | 到蓮社 | 竟誉 | 任阿 | 増上寺75世を経て晋山。1896年(明治29年)7月宗派で推戴し、内務大臣から住職に任命。1902年(明治35年)4月28日退任。1904年(明治37年)12月21日死去。76歳。 | |
79 | 山下現有 | 1832-1934 | 謙蓮社 | 孝誉 | 妙阿 | 知恩寺62世、増上寺76世を経て晋山。 | ||
80 | 岩井智海 | 1863-1942 | 旭蓮社 | 願誉 | 底阿無涯 | 清浄華院72世、増上寺を経て晋山。音楽家 | ||
81 | 郁芳随円 | 一蓮社 | 相誉 | 入阿琶水 | 金戒光明寺63世を経て晋山。 | |||
82 | 望月信亨 | 1869-1948 | 晃蓮社 | 明阿望無雲 | 金戒光明寺64世を経て晋山。仏教学者。藤之寺。大正大学学長など歴任。いわゆる『望月仏教大辞典』の編者。 | |||
83 | 岸信宏 | 1889-1979 | 量誉 | 初代浄土門主。 | ||||
84 | 高畠寛我 | 1889-1981 | 明誉 | 浄土門主2世。清浄華院を経て晋山。 | ||||
85 | 藤井実応 | 1898-1992 | 1882-1992 | 明誉 | 浄土門主3世。増上寺を経て晋山。岐阜県出身。1898年(明治31年)生。知恩院85世。増上寺84世。1920年、行基寺で得度。1925年(大正14年)、宗教大学(大正大学)卒。同年7月6日、諏訪紫雲寺住職。諏訪・阿弥陀寺にも通ったという。第1回共生結衆に参加し、椎尾弁匡に師事した。1924年、曹洞宗永平寺で修行。宗務所職員、浄土宗布教講習所主事などを経て1970年(昭和45年)6月13日、大樹寺住職。1978年(昭和53年)10月、増上寺住職。1882年、知恩院に晋山し、浄土門主となる。1992年9月3日死去。光蓮社明誉生阿法仙。著書多数。 | |||
86 | 中村康隆 | 1906-2008 | 1993-2007 | 弌蓮社 | 心誉 | 念阿浄業 | 増上寺を経て晋山。浄土門主4世。知恩院86世・増上寺85世。印度山日本寺竺主。全日本仏教会会長。自坊は清水実相寺。中村弁康の長男。研究者としての専門は宗教学。唐沢阿弥陀寺で山崎弁栄に出会い信仰に目覚めた。1929年、大正大学卒(第1期生)。大正大学研究科修了。1938年、大正大学講師となり後に教授。1975年(昭和50年)から1978年(昭和53年)まで大正大学学長。1982年増上寺法主。1983年、浄土宗勧学寮寮頭。1993年、知恩院住職・浄土門主。2007年退任。2008年5月8日死去。弌蓮社心誉念阿浄業。 | |
87 | 坪井俊映 | 1914-2010 | 明蓮社 | 仁誉 | 信阿聞法無学 | 金戒光明寺73世を経て晋山。浄土門主5世。浄土門主5世。知恩院88世。1994年(平成6年)6月から2007年(平成19年)3月25日まで金戒光明寺法主。 | ||
88 | 伊藤唯真 | 1931- | 2010- | 願誉 | 清浄華院法主を経て晋山。仏教大学学長、京都文教短期大学学長を歴任。浄土門主6世。 |
- 野上運海まで「華頂誌要」に基づく
- 「浄源脈譜」、『日本仏家人名辞書』ほか
執事長
知恩院の執行部の責任者。1878年(明治11年)から事務総長や事務長を設置。のち執事数人が置かれ、のち執事1人となったようだ。1923年(大正12年)10月20日、本末規約を制定し、従来の執事を執事長に、主事を執事に改称する。1971年(昭和46年)2月20日、山規を改正して執事長任期を3年から4年に延長した。
代数 | 名前 | 生没 | 在職 | 略歴 |
---|---|---|---|---|
1 | 松濤舜成 | 生没年不詳 | 1878-1881 | 自坊は八幡正法寺。1878年(明治11年)2月、知恩院初代事務総長。 |
2 | 山田弁承 | 1841-1911 | 1881-1883 | 清浄華院68世。1881年(明治14年)6月から1883年(明治16年)5月まで知恩院事務総長。1890年(明治23年)5月8日から1897年(明治30年)12月4日まで知恩院執事。1898年(明治31年)清浄華院晋山。 |
3 | 佐藤説門 | ?-1887 | 1883-1883 | 金戒光明寺58世。大樹寺住職。1883年(明治16年)5月、公選で知恩院事務長。8月22日辞任。 |
吉水玄龍 | 1834-1904 | 1883-? | 愛知県出身。伊勢円明寺で得度。1874年(明治7年)三重県中教院長。1877年(明治10年)浄土宗中教院長。1878年(明治11年)浄土宗西部大会議幹事長。1883年(明治16年)知恩院執事(新纂浄土宗大辞典。浄土宗近代百年史年表になし)。1899年(明治32年)1月隠退して神奈川正覚寺に住す。1902年(明治35年)長善寺に転住。1904年(明治37年)10月29日死去。71歳。 | |
虎岡覚眠 | 生没年不詳 | 1884-1886 | 1883年(明治16年)8月22日、事務心得。1884年(明治17年)6月22日から1886年(明治19年)6月まで事務長。 | |
杉山清運 | 生没年不詳 | 1886-? | 自坊は備前正覚寺。1886年(明治19年)6月事務長。 | |
土方霊存 | ?-1889 | ?-1889 | 1889年(明治22年)6月5日、知恩院執事在職で死去。 | |
山田弁承 | 1841-1911 | 1890-1897 | 再任。1890年(明治23年)5月8日から1897年(明治30年)12月4日まで知恩院執事。 | |
白旗弁智 | ?-1904 | 1890-1897 | 1899年(明治32年)10月8日、敦賀西方寺住職。1890年(明治23年)5月8日から1897年(明治30年)12月20日まで知恩院執事。1904年(明治37年)9月10日死去。66歳。 | |
吉水賢融 | 1843-1918 | 1894- | 清浄華院69世。金戒光明寺61世。1894年(明治27年)浄土宗執綱。1895年(明治28年)知恩院執事(新纂浄土宗大辞典。浄土宗近代百年史年表になし)。1897年(明治30年)11月、知恩院執事。1902年(明治35年)知恩院執事(新纂浄土宗大辞典。浄土宗近代百年史年表になし)。1911年(明治44年)12月10日、清浄華院に転任。 | |
吉水賢融 | 1843-1918 | 1897-? | 再任?1897年(明治30年)11月、知恩院執事。 | |
北条弁旭 | 1843-1918 | 1897-? | 知恩寺65世。1897年(明治30年)11月、知恩院執事。 | |
山下覚随 | 1855-1929 | 1901-? | 福岡県出身。1855年(安政2年)生。京都西部大学林で学ぶ。1901年(明治34年)知恩院執事(新纂浄土宗大辞典。浄土宗近代百年史年表になし)。宗会議長。1908年(明治41年)大阪法善寺住職。1913年(大正2年)2月26日から1918年(大正7年)1月30日まで知恩院執事。1929年(昭和4年)10月2日死去。 | |
吉水賢融 | 1843-1918 | 1902-? | 再任?1902年(明治35年)知恩院執事(新纂浄土宗大辞典。浄土宗近代百年史年表になし)。 | |
大鹿愍成 | 1857-1925 | 1912-? | 金戒光明寺62世。浄厳院住職。1912年(大正1年)1月19日、知恩院執事。 | |
広安真随 | 1848-1922 | ?-1913 | 善導寺59世。1903年(明治36年)善導寺住職となるが、在職のまま知恩院執事となったようだ(年代不詳)。1913年(大正2年)2月26日、知恩院執事を辞任。のち執事再任。 | |
山下覚随 | 1855-1929 | 1913-1918 | 再任。1913年(大正2年)2月26日から1918年(大正7年)1月30日まで知恩院執事。 | |
広安真随 | 1848-1922 | 1918-1919 | 再任。1918年(大正7年)1月30日から1919年(大正8年)7月17日まで知恩院執事。 | |
土川善澂 | 1864-1930 | 1919-1922 | 知恩寺68世。1919年(大正8年)7月17日から1922年(大正11年)7月23日まで知恩院執事。 | |
郁芳随円 | 1867-1945 | 1922-1926 | 知恩院81世。金戒光明寺63世。1922年(大正11年)7月23日から1926年(昭和1年)2月6日まで執事・執事長。在任中の1923年(大正12年)10月20日、執事から執事長に改称。 | |
岩井智海 | 1863-1942 | 1926-1928 | 知恩院80世。清浄華院72世。増上寺80世。1926年(昭和1年)2月6日、知恩院執事長。 | |
宇都宮善道 | 1855-1928 | 1928-1928 | 愛知県出身。1855年(安政2年)生。1897年(明治30年)京都称名寺に住す。1899年(明治32年)宗会議員。のち議長。1913年(大正2年)宗派執綱。1914年(大正3年)9月、浄土宗報恩明照会会長。1928年(昭和3年)7月1日、知恩院執事長となるが直後の8月22日に死去。74歳。 | |
福原隆成 | 1872-1931 | 1928-1931 | 越前国出身。福厳寺に住す。浄土宗本校に学び、浄土宗大学幹事、近江・阿弥陀寺、京都上善寺を歴任。1928年(昭和3年)8月28日、知恩院執事長。華頂会館を建設。1931年(昭和6年)3月20日、在職で死去。60歳。 | |
豊岡博道 | 1875-1935 | 1931-1931 | 自坊は伊賀念仏寺。1875年(明治8年)生。愛知支校を経て浄土宗専門学院に学ぶ。宗教大学講授、浄土宗布教部長、宗会議員など歴任。御津大恩寺、牛込専念寺、念仏寺などを歴任。1931年(昭和6年)3月28日、知恩院執事長。1935年(昭和10年)5月10日死去。61歳。 | |
加藤鏡心 | 1867-1941 | 1931-1934 | 清浄華院73世。自坊は名古屋光明寺。1931年(昭和6年)7月1日から1934年(昭和9年)5月23日まで知恩院執事長。 | |
漆間徳定 | 1869-1944 | 1934-1934 | 美作誕生寺住職。1934年(昭和9年)5月23日から7月1日まで知恩院執事長。1944年(昭和19年)10月20日死去。76歳。 | |
薮内彦瑞 | ?-1953 | 1934-1938 | 自坊は大阪日根野楞厳寺。1934年(昭和9年)7月1日知恩院執事長。1953年(昭和28年)2月25日死去。著編書『知恩院史』『華頂聚宝』。 | |
小田信巌 | 生没年不詳 | 1938-1940 | 自坊は長崎大音寺。佐世保九品寺住職。1938年(昭和13年)1月4日から1940年(昭和15年)7月1日まで執事長。1948年(昭和23年)10月26日死去。80歳。 | |
小林円達 | ?-1957 | 1940-? | 自坊は四条浄教寺。1940年(昭和15年)7月1日執事長。1957年(昭和32年)7月20日死去。77歳。著書『燈籠堂浄教寺』。 | |
川端信之 | 1874-1946 | 1945-1946 | 金戒光明寺66世。善導寺60世。自坊は埼玉林西寺。1945年(昭和20年)から1946年(昭和21年)にかけて知恩院執事長を務めたようだ(浄土宗近代百年史年表には記述なし) | |
三枝樹貫道 | 1874-1954 | 1946-1947 | 1874年(明治7年)生。愛知県出身。浄土宗本校、浄土宗専門学院に学ぶ。第二第六教校教授。1905年(明治38年)和歌山九品寺住職。1907年(明治40年)第五教校教授。宗教大学専修部教授。1911年(明治44年)第六第七連合教校長、尼崎甘露寺住職。1917年(大正6年)仏教専門学校講授。1928年(昭和3年)宗会議員。兵庫教区教務所長。1946年(昭和21年)(6月?)から1947年(昭和22年)11月10日まで知恩院執事長。1954年(昭和29年)9月7日死去。81歳。 | |
颯田善雄 | 1885-1955 | 1947-1948 | 自坊は知多雲谷寺。愛知県出身。1909年(明治42年)宗教大学卒。1921年(大正10年)雲谷寺住職。1885年(明治18年)生。1947年(昭和22年)11月18日、知恩院執事長。同年12月8日、門末協議員会を開き、知恩院の単称浄土宗からの離脱と本派浄土宗設立を決議。9日に登記。1949年(昭和24年)3月、知恩院副門主。1955年(昭和30年)6月1日死去。72歳。 | |
久松鏆瑞 | 1877-1948 | 1948-1948 | 自坊は鈴鹿慶運寺。三重県桑名郡出身。1877年(明治10年)生。浄土宗専門学院に学ぶ。1900年(明治33年)鈴鹿慶運寺住職。1906年(明治39年)浄土宗大学幹事。第五教校教授。朝鮮開教区教務所理事。1926年(昭和1年)華頂高等女学校長。1928年(昭和3年)知恩院教務部長、1931年(昭和6年)仏教専門学校教授、1934年(昭和9年)布教師会会長を歴任。1948年(昭和23年)1月16日、分裂後初の知恩院執事長に就任するが直後の2月13日死去。72歳。 | |
林隆碩 | 1884-1972 | 1948-1949 | 自坊は津島円成寺。愛知県出身。1884年(明治17年)生。宗教大学卒。布教講習所長、知恩院教務部長、知恩院布教師会長を歴任。1948年(昭和23年)3月1日から1949年(昭和24年)12月17日まで知恩院執事長。1950年(昭和25年)津島円成寺住職。1972年(昭和47年)3月5日死去。89歳。著書多数。 | |
大河内貫静 | 1887-1967 | 1950-1952 | 愛知県出身。1887年(明治20年)生。京都智恵光院に入る。京都府仏教会初代会長。椿寺地蔵院住職。1950年(昭和25年)1月6日から1952年(昭和27年)8月10日まで知恩院執事長。1967年(昭和42年)10月16日死去。80歳。 | |
颯田善雄 | 1885-1955 | 1952-1953 | 1952年(昭和27年)8月10日から1953年(昭和28年)まで執事長再任。 | |
田中俊孝 | 1890-1959 | 1953-1955 | 自坊は転法輪寺。1890年(明治23年)生。山下現有に師事。1919年(大正8年)転法輪寺住職。1953年(昭和28年)4月15日知恩院執事長。1959年(昭和34年)3月8日死去。68歳。編著『雲介子関通全集』。山下俊孝とも。 | |
香月善裕 | ?-1964 | 1955-1957 | 自坊は松坂安楽寺。1955年(昭和30年)11月1日から1957年(昭和32年)11月9日まで知恩院執事長。1964年(昭和39年)4月8日死去。 | |
千々和宝天 | 1895-1961 | 1957-1961 | 福岡県出身。1895年(明治28年)生。宗教大学宗教部本科、研究科で学ぶ。福岡県の大乗院、西光寺、華頂寺の住職を歴任。1932年(昭和7年)宗会議員。1946年(昭和21年)知恩院執事・教務部長。1957年(昭和32年)11月10日、知恩院執事長。浄土宗合同への道筋を付けたが、1961年(昭和36年)9月2日、在任中死去。65歳。 | |
西村澄道 | ?-1973 | 1961-1962 | 自坊は大阪西往寺。1961年(昭和36年)9月17日知恩院執事長。浄土宗と合同を果たす。1973年(昭和48年)9月16日死去。83歳。 | |
曽和探玄 | ?-1968 | 1962-1965 | 自坊は芦屋安楽寺。1962年(昭和37年)7月25日、知恩院執事長(合同後、初の就任)。1968年(昭和43年)9月21日死去。64歳。 | |
鵜飼隆玄 | 1905-1990 | 1965-1983 | 岐阜県出身。仏教専門学校卒。1931年(昭和6年)鵜飼徳瑞の法嗣となり、滋賀福泉寺住職。本派浄土宗設立に関わる。知恩院社会部長。浄土宗合同に尽力し、1962年(昭和37年)宗派総務局長、1964年(昭和39年)教学局長を歴任。1965年(昭和40年)7月27日から1983年(昭和58年)12月1日まで知恩院執事長。1966年(昭和41年)6月「念仏おてつぎ運動」を始める。1967年(昭和42年)敦賀西福寺住職。大正大学理事長、華頂学園理事長、上宮学園理事長。1990年(平成2年)5月18日死去。85歳。著書『野僧のくりごと』。 | |
寺本哲栄 | 生没年不詳 | 1983-1995 | 自坊は大阪竹林寺。1983年(昭和58年)12月1日から1995年(平成7年)まで知恩院執事長。著書『徹定上人』。 | |
牧達雄 | 1924-2005 | 1995-2003 | 大樹寺62世。1924年(大正13年)生。仏教専門学校卒。大正大学卒。宗派社会局長、教学局長を歴任。1995年(平成7年)から2003年(平成15年)12月まで知恩院執事長。資産運用をめぐり退任に追い込まれた。2005年(平成17年)4月2日死去。 | |
吉田孝導 | 生没年不詳 | 2004-2005 | 自坊は武生大宝寺。2004年(平成16年)から2005年(平成17年)2月8日まで知恩院執事長。 | |
佐藤諦学 | ?-2016 | 2005-2010 | 自坊は山科福応寺。龍谷大学卒。東山学園事務局長、京都教区長、近畿教化センター長、知恩院顧問会副会長など歴任。2005年(平成17年)2月24日から2010年(平成22年)4月26日まで知恩院執事長。2016年(平成28年)2月11日死去。92歳。 | |
北川一有 | 1925- | 2010-2019 | 自坊は東京長寿院。1925年(大正14年)生。2010年(平成22年)5月14日、知恩院執事長。 | |
井桁雄弘 | 1934- | 2019-2023予定 | 自坊は大阪住吉大円寺。1934年(昭和9年)生。全日本仏教会理事や大阪府仏教会会長などを歴任。2015年(平成27年)知恩院顧問会会長。2019年(令和1年)2月1日知恩院執事長。 |
顧問会
知恩院の諮問機関。予算案・決算、山規山令を審議する。 会長
- 八木善祐
- 秦隆真
- 稲田稔界
- 山下法文
- 北川一有
- 井桁雄弘
- 木全一乗
- 木村弘文
画像
資料
古典籍
- 「総本山知恩院旧記採要録」:『大日本仏教全書83寺誌部1』[38]。新纂浄土宗大辞典解説[39]。
- 「知恩院御取立御趣意覚書」:『大日本仏教全書83寺誌部1』[40]。1856年(安政3年)頃か。
- 「起立開山名前御由緒寺格等書記」:1768年(明和5年)幕府に提出。『知恩院史料集―古記録篇1』[41]。解題[42]
- 「御菩提所知恩院御由緒書」:1832年(天保3年)8月寺社奉行の下問により増上寺に提出。『知恩院史料集―古記録篇1』[43]。解題[44]
- 「尊牌御廟等御安置御由緒書」:1790年(寛政2年)4月知恩院役者が記す。「諸寺院由緒書」に添付。知恩院の位牌。『知恩院史料集―古記録篇1』[45]。解題[46]
史料
- 森宏伝1895『総本山知恩院什宝物抜萃』長積歓瑞[47]
- 「知恩院一切経目録」『大正新修大蔵経別巻1昭和法宝総目録10』[48]
- 小林円達1925『華頂山古経目録』総本山知恩院[49]
- 「知恩院御門跡并引続公家衆参向一件1天保十二丑年十二月より翌寅四月至」[50]:1841年(天保12年)12月から1842年(天保13年)4月
- 「知恩院御門跡并引続公家衆参向一件2弘化四未年正月」[51]:1847年(弘化4年)1月
- 宮内庁書陵部編1976『九条家文書6知恩院関係文書』明治書院[52]
- 総本山知恩院史料編纂所編1974『知恩院史料集―日鑑・書翰篇1』総本山知恩院史料編纂所[53]
- 総本山知恩院史料編纂所編1975『知恩院史料集―日鑑・書翰篇2』総本山知恩院史料編纂所[54]
- 総本山知恩院史料編纂所編1978『知恩院史料集―日鑑・書翰篇3』総本山知恩院史料編纂所[55]
- 総本山知恩院史料編纂所編1985『知恩院史料集―日鑑・書翰篇4』総本山知恩院史料編纂所[56]
- 総本山知恩院史料編纂所編1986『知恩院史料集―日鑑・書翰篇5』総本山知恩院史料編纂所[57]
- 総本山知恩院史料編纂所編1987『知恩院史料集―日鑑・書翰篇6』総本山知恩院史料編纂所[58]
- 総本山知恩院史料編纂所編1988『知恩院史料集―日鑑・書翰篇7』総本山知恩院史料編纂所[59]
- 総本山知恩院史料編纂所編1989『知恩院史料集―日鑑・書翰篇8』総本山知恩院史料編纂所[60]
- 総本山知恩院史料編纂所編1992『知恩院史料集―日鑑・書翰篇9』総本山知恩院史料編纂所[61]
- 総本山知恩院史料編纂所編1994『知恩院史料集―日鑑・書翰篇10』総本山知恩院史料編纂所[62]
- 総本山知恩院史料編纂所編1995『知恩院史料集―日鑑・書翰篇11』総本山知恩院史料編纂所[63]
- 総本山知恩院史料編纂所編1996『知恩院史料集―日鑑・書翰篇12』総本山知恩院史料編纂所[64]
- 総本山知恩院史料編纂所編1998『知恩院史料集―日鑑・書翰篇13』総本山知恩院史料編纂所[65]
- 総本山知恩院史料編纂所編1999『知恩院史料集―日鑑・書翰篇14』総本山知恩院史料編纂所[66]
- 総本山知恩院史料編纂所編2000『知恩院史料集―日鑑・書翰篇15』総本山知恩院史料編纂所[67]
- 総本山知恩院史料編纂所編1991『知恩院史料集―古記録篇1』総本山知恩院史料編纂所[68]。解題[69]
- 「御菩提所并御祈願所御来由」[70]:享保年間。徳川家と増上寺の関係。
- 「古記録抜粋」:1604年(慶長9年)~1721年(享保6年)。1764年(明和1年)書写。
- 「知恩院御領水帳」:1589年(天正17年)~1722年(享保7年)。
- 「知恩院諸伽藍御作営に付法式留帳」:1633年(寛永10年)火災後の再建の記録。
- 「浄土宗御朱印地諸寺院録」[71]:浄土宗の朱印地寺院の一覧。1703年(元禄16年)頃の記録。
- 「諸寺院由緒書」[72]:知恩院以外の徳川家位牌所。1790年(寛政2年)増上寺役者が作成。
- 「尊牌御廟等御安置御由緒書」[73]:「諸寺院由緒書」に添付。知恩院の位牌。1790年(寛政2年)4月知恩院役者が記す。
- 「御制条控」[74]:1722年(享保7年)から1827年(文政10年)まで。
- 「公儀より下置候御条目類聚并御触達之抜写共」:1597年(慶長2年)~1825年(文政8年)。
- 「霊元院様崩御記」:知恩院門跡尊胤法親王が霊元法皇の皇子であったため、知恩院往的が崩御から100日までの泉涌寺や般舟院、知恩院門跡御殿で焼香したことなど法要などの記録。
寺誌など
- 知恩院編1911『華頂誌要』:1911年(明治44年)浅井法順著[75]。1913年(大正2年)増補改訂した浄土宗全書版[76]。「浄土宗全書テキストデータベース」[77]
- 知恩院編1930『知恩院』知恩院[78]
- 知恩院編1937『知恩院史年表』知恩院[79]
- 知恩院編1937『知恩院史』知恩院[80]
- 田中緑紅1958『知恩院物語上』京を語る会[81]
- 田中緑紅1958『知恩院物語下』京を語る会[82]
- 藤堂恭俊1974『知恩院―法然上人伝』教育新潮社
- 梅原猛・岸信宏1977『古寺巡礼京都19知恩院』淡交社
- 『昭和京都名所図会』「知恩院」[83]
文献
- 井川定慶1973「明治初期における知恩院の教学振興」『藤原弘道先生古稀記念史学仏教学論集乾』[84]
- 井川定慶1977「本願寺の故地は知恩院」『森鹿三博士頌寿記念論文集』[85]
- 土居次義1974「知恩院方丈画に関する一考察」『日本文化と浄土教論攷』[86]
美術関係
- 森宏伝1895『総本山知恩院什宝物抜萃』長積歓瑞[87]
- 知恩院編1935『華頂聚宝』知恩院[88]
- 1936『華頂大鑑―総本山知恩院名宝集1』華頂大鑑刊行会[89]
- 大熊喜邦他監修1939『国宝書院図聚12知恩院方丈』洪洋社[90]
- 1969『障壁画全集9知恩院』美術出版社[91]
- 1982『日本古寺美術全集21本願寺と知恩院』集英社