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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

仏光寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年4月2日 (火)

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仏光寺(ぶっこうじ)は、京都府京都市下京区にある浄土真宗本山寺院。独立する前は妙法院門跡を本山とした。真宗仏光寺派の別院寺院も参照。(参考:同名寺院仏光寺_(同名)

目次

歴史

荒木門徒麻布門徒の系統を継ぐ了源が鎌倉から京都を訪れ、正中元年(1324)頃に山科に創建。興正寺と称した。伝説では親鸞が関東布教に行く前に京都に戻った時に山科に建て、了源はそれを復興したとするが、史実とは言いがたい。嘉暦3年(1328)頃、京都渋谷(汁谷)(現在の京都国立博物館の辺り)に移転し、仏光寺と称した(渋谷仏光寺)。すぐそばの妙法院門跡の庇護下に入る。応仁2年8月、兵乱で焼亡。やもなく13世光教は摂津平野に移る。文明14年(1482)、仏光寺14世経豪(蓮教)が仏光寺を捨て多くの末寺と共に蓮如に帰参して山科に新寺京都・興正寺を創建したことから大きく勢力を削がれた。仏光寺には元々、塔頭48坊があったが、42坊が経豪に随従したと伝わる。仏光寺に残ったのが六坊(六院)と呼ばれる6カ寺である。天正14年(1586)、豊臣秀吉方広寺大仏殿建立のために寺地を提供。現在地に移転した。

本願寺などに先立ち、寛正6年(1465)、後土御門天皇が門跡としたというが(図録)、不詳。

伽藍と塔頭

六院

六坊ともいう。元来、仏光寺には48の坊があったが、興正寺が42坊と共に独立したため六坊が残されたと伝える。六坊(六院)は教団内で大きな力を持っている。

子院

  • 明顕寺
  • 常行寺
  • 大行寺:仏光寺学頭に任命された信暁が創建。
  • 高林庵
  • 等覚寺:了源を殺害した山田八郎が悔悟帰依して創建。現存しない。
  • 照流寺:了源を殺害した田中兵衛が悔悟帰依して創建。現存しない。

末寺

  • 西徳寺:東京都台東区。江戸触頭院家(東都歳事記)。
  • 西雲寺:福井県福井市。正徳4年(1714)に院家。『日本歴史地名大系』。連枝?
  • 妙楽寺:滋賀県東近江市。了源門下の了念が創建。仏光寺と「同格別殿」とされたという。江戸時代、寺格を巡り、本山と対立。西本願寺に転属し、その院家となった。
  • 証海寺:福井県越前市村国。善応と相続争いで負けた証誠寺15世の善養が仏光寺派に転属して創建。廃絶。
  • 光源寺:大阪府大阪市平野区。平野は仏光寺教団の拠点だった。
  • 専光寺:福井県越前町上戸。専照寺の一老だったが、仏光寺末に転じる。その後、西雲寺と対立して西本願寺末となる。
  • 法雲寺:福井県小浜市。熊坂・専修寺の後身。最初、仏光寺末だったが、西雲寺と対立して東本願寺末となる。
  • 仏照寺:大阪府茨木市。元は仏光寺末だったが、西本願寺末となった。
  • 了源寺:三重県伊賀市。
  • 美馬・安楽寺:徳島県美馬市。四国最大の浄土真宗寺院。仏光寺末から興正寺末を経て西本願寺末となる。

組織

歴代住職(分裂以前)

「堯」の名を持つものが多いのは得度の師となった妙法院門跡との関係を示すのだろうか。

世数 法号 法諱 院号など 生没年 在職年 備考
1 親鸞 見真大師 1173-1262 浄土真宗の開祖。寺伝では仏光寺は親鸞が建てた草庵を起源とする。
2 真仏 1209-1258 高田門徒の開祖。親鸞の弟子。
3 源海 光信 1164-1253 1232-1278 荒木門徒の開祖。源氏。近江出身。1189年(文治5年)4月5日生。8歳で青蓮院門跡慈円に師事。当時、聖光院にいた親鸞に慕って出入りした。1201年(建仁1年)3月には親鸞と共に吉水禅坊に入る。1204年(元久1年)起請文に連署。1212年(建暦2年)9月、親鸞が仏光寺創建の際、土木を管轄する1232年(貞永1年)7月18日、3世となる。1242年(仁治3年)10月、陸奥に下向して立川の「邪義」を破す。1246年(寛元4年)『一向輪西鈔』1262年(弘長2年)8月、高田の専空と共に再び陸奥に下るが親鸞の不予を聞き、帰洛して看取る。火葬のことを掌る1264年(文永1年)大阪天満に別坊を営む1272年(文永9年)親鸞の廟堂造営にあたり寺務を担当1275年(建治1年)3月『浄土法門見聞集』を撰述同年、親鸞の伝文2巻、報恩講式文『持妻取肉説』1278年(弘安1年)1月、了海に譲る。同年2月23日死去。90歳。
4 了海 願明 華徳院 1239-1320 1278-1289 麻布門徒の開祖。伝記は諸説ある。源海の弟子。麻布善福寺を創建。著書に『還相回向聞書』『他力信心聞書』。1239年(延応1年)7月15日生。1278年(弘安1年)1月、上洛して2月23日、源海から法灯を継承。1289年(正応2年)1月、甥の誓海に法灯を譲って武蔵国麻布に帰る。1320年(元応2年)1月28日死去。82歳。
5 誓海 願念 法仙院 1266-1316 1289-1309 麻布門徒。鎌倉甘縄の出身。麻布善福寺2世。戸塚・永勝寺にも住す。了海の甥。1289年(正応2年)1月、法灯を継承。1309年(延慶2年)3月11日、職を辞す。1316年(正和5年)5月26日死去。51歳。
6 明光 了延 平等心院 1286-1353 1309-1316 麻布門徒。鎌倉の出身。源頼朝の甥で藤原氏。仏光寺の伝承では了海の長男という。1286年(弘安9年)6月生。病弱だったという。1309年(延慶2年)3月11日、法灯継承。日蓮宗との諍いが頻発する。1316年(正和5年)2月5日法灯を了源に譲り鎌倉に下る。1353年(正平8年)5月16日死去。68歳。鎌倉最宝寺備後・光照寺を創建。了円。備後開教の先鞭を付け、浄土真宗が広がる。墓所は光照寺。
7 了源 空性 光山院殿 1295-1336 1316-1336 実質的な開山。了海の三男(次子)とも、武士の子ともいう。1295年(永仁3年)5月1日生。1310年(延慶3年)6月得度。1316年(正和5年)2月5日法灯継承。足利尊氏の請で、山科から渋谷に寺地を移転して造営。1320年(元応2年)落慶。後醍醐天皇の帰依を受ける。1327年(嘉暦2年)5月、本尊顕現の故で参内して「一宗棟梁の綸旨」と宸翰祖伝を賜るという。同年少僧都。翌年、比叡山の圧迫を避けて近江粟津に一宇を建てた。1332年(元弘2年)遠江三河尾張を巡教。1334年(建武1年)伊勢、1335年(建武2年)伊賀に入る。1336年(延元1年/建武3年)1月8日、伊賀から京都に向かう途中に暗殺された。42歳。本願寺の伝承によると、元は金森弥三郎という武士で、覚如に学んで興正寺を建て、存覚から仏光寺の名を与えられたという。光山院殿。
8 源鸞 了英 清浄光院殿 1319-1347 1336-1347 了源の長男。1319年(元応1年)12月生。妙法院門跡尊澄法親王を戒師として出家。以後、妙法院門跡が戒師を務めるのが慣例となる。1336年(延元1年/建武3年)1月、仏光寺住職。5月伝灯奉告。1347年(正平2年/貞和3年)8月28日死去。29歳。専性。清浄光院殿。
9 了明 順子 無上々院殿 1294-1376 1347-1354 尼僧。了源の妻。藤原持顕の娘。源鸞の生母。1294年(永仁2年)3月生。1317年(文保1年)、了源に嫁ぐ。1347年(正平2年/貞和3年)源鸞の早逝後、跡を継ぐ。1354年(正平9年/文和3年)3月源讃に譲る。1376年(天授2年/永和2年)1月23日死去。83歳。無上々院殿。了明尼。
10 唯了 源讃 即成就院殿 1322-1400 1354-1387 了源の次男。即成就院殿。1322年(元亨2年)11月24日生。1337年(延元2年)11月10日、亮性法親王を戒師として得度。1354年(正平9年)3月10日、1385年(元中2年)1月、50回忌にあたり『了源上人伝』[1]を執筆。1387年(元中4年)8月、性曇に法務を代行させて嵯峨に隠棲。1400年(応永7年)6月22日死去。79歳。
11 堯経 性曇 真解脱院殿 1385-1438 1400-1438 唯了の第三子。1370年(応安3年)10月5日生。1385年(元中2年)2月7日、亮性法親王について得度。法眼。同年5月3日大僧都。1387年(元中4年)8月、法務を摂行する。1400年(応永7年)6月26日、法灯継承。同年、西成郡塚口に別坊を構える(現在の興正寺塚口別院)(1409年(応永16年)?)。1438年(永享10年)12月4日死去。71歳。真解脱院殿。
12 経実 性善 無碍光院殿 1407-1469 1438-1457 太政大臣二条持基の次子(堯経の長子とも)。母は後小松天皇第五皇女という。1407年(応永14年)9月1日生。1435年(永享7年)10月、法嗣となる。1438年(永享10年)10月3日、堯性法親王により得度。同月法眼。翌月、法灯継承。1445年(文安2年)8月10日、大僧都。近江国に疫病が流行った時、宇津呂郷の恵信筆の尊形と現世利益和讃を授けて教化。郷民は喜び日牟礼八幡宮に集って念仏して、疫病は収まったという。1457年(長禄1年)2月、法灯を光教に譲る。1469年(文明1年)5月17日死去。43歳。無碍光院殿。
13 堯仁 光教 無量寿院殿 1430-1503 1457-1469 太政大臣二条持基の六子(堯経の子とも)。経実の弟。分裂後も仏光寺に留まる。無量寿院殿。1430年(永享2年)2月生。1456年(康正2年)3月法嗣となる。1457年(長禄1年)1月24日教覚を師として得度。同月法眼。翌月、法灯を継承。3月法印大僧都。1465年(寛正6年)3月、後土御門天皇により門跡とされる。1469年(文明1年)3月10日、法灯を譲って隠棲。1503年(文亀3年)5月6日死去。74歳。僧正。
除歴 堯円 経豪 順乗院 1451-1492 1469-1476 性善の長男。1451年(宝徳3年)1月15日生。1469年(文明1年)3月10日、法灯継承。1473年(文明5年)6月18日法眼権大僧都。1476年(文明8年)8月、法灯を譲る。1481年(文明13年)仏光寺を捨てて京都興正寺を開く。蓮如に帰依して蓮教と改名する。1492年(明応1年)5月2日死去。42歳。順乗院。

歴代住職(分裂以降)

世数 法号 法諱 院号など 生没年 在職年 備考
14 堯守 経誉 歓喜心院殿 1455-1512 1455年(康正1年)生。権少僧都。1512年(永正9年)9月14日死去。歓喜心院殿。
15 堯賢 経光 真実明院殿 1503-1569 1503年(文亀3年)生。権少僧都。1569年(永禄12年)8月24日死去。真実明院殿。
16 経範 堯勲 功徳聚院殿 1559-1591 1559年(永禄2年)生。権僧正。1591年(天正19年)11月9日死去。功徳聚院殿。
17 存海 堯昭 大悲心院殿 1577-1618 1577年(天正5年)生。権僧正。1618年(元和4年)8月5日死去。大悲心院殿。
18 経海 堯聡 龍光院殿 1606-1656 1606年(慶長11年)生。権僧正。1656年(明暦2年)7月28日死去。龍光院殿。
19 堯導 随庸 良正院殿 1634-1689 1656- 摂政二条康道の猶子。1634年(寛永11年)生。妙法院34世の堯然法親王に師事。1656年(明暦2年)仏光寺住職。僧正。1689年(元禄2年)3月29日死去。良正院殿。著書に『渋谷勧章』。
20 堯庸 随如 龍秀院殿 1641-1721 興正寺19世准秀の六男。左大臣二条光平の猶子。1641年(寛永18年)生。妙法院35世堯恕法親王に師事。僧正。1721年(享保6年)7月17日死去。龍秀院殿。子に修験道乗々院20世尊海。
21 堯超 寛如 無量覚院殿 1713-1770 1713年(正徳3年)生。僧正。1770年(明和7年)6月29日死去。無量覚院殿。
22 堯祐 順如 清浄楽院殿 1738-1788 1738年(元文3年)生。僧正。1788年(天明8年)3月17日死去。清浄楽院殿。
23 真乗 随応 清浄勲院殿 1774-1823 1774年(安永3年)生。権僧正。1823年(文政6年)10月18日死去。清浄勲院殿。
24 真導 随念 功徳蔵院殿 1805-1845 1805年(文化2年)生。権僧正。1845年(弘化2年)1月12日死去。功徳蔵院殿。
念心 近子 無量光院殿 1804-1849 尼僧。真導の妻。二条治孝の娘。1804年(文化1年)生。1849年(嘉永2年)3月12日死去。無量光院殿。『日本仏家人名辞書』、望月『仏教大辞典』になし。
25 真達 教応 功徳宝院殿 1844-1866 鷹司政通三男。興正寺27世の華園摂信の弟。1844年(弘化1年)生。権僧正。1866年(慶応2年)10月4日死去。功徳宝院殿。
26 渋谷家教(清棲家教) 得清浄院殿 1862-1923 1873-1888 伏見宮邦家親王の第15王子。二条斉敬の猶子。1862年(文久2年)生。1868年(明治1年)仏光寺に入る。1872年(明治5年)華族となり渋谷家を立てる。1873年(明治6年)仏光寺住職。初代管長。大教正。1888年(明治21年)6月28日天皇聴許を経て還俗(官報)。渋谷家と離縁し、伏見宮家に戻り清棲伯爵家を起こす。山梨県・茨城県・和歌山県・新潟県の知事を歴任。1923年(大正12年)7月13日死去。得清浄院殿。
27 渋谷真意 光子 微妙定院殿 1850-1924 1888-1905 尼僧。渋谷真達の妻。明石藩主松平斉韶の五女。1850年(嘉永3年)生。1860年(万延1年)嫁ぐ。1872年(明治5年)剃髪して真意と称す。1888年(明治21年)、渋谷家教が離縁したため、法灯継承。近代教団確立に尽力。1905年(明治38年)譲る。1924年(大正13年)5月19日死去。75歳。微妙定院殿。(20世紀日本人名事典)
28 渋谷真空 隆教 快楽音院殿 1885-1962 1905-1948 渋谷家教の子。1885年(明治18年)生。1905年(明治38年)法灯継承。1月14日管長就任認可(官報)。1962年(昭和37年)死去。快楽音院殿。
29 渋谷真照 有教 1917-1993 1948-1992 渋谷隆教の子。1917年(大正6年)生。1948年(昭和23年)法灯継承。1993年(平成5年)死去。昭和天皇のいとこ。
30 渋谷真承 歓喜光院殿 ?-2013 1992-1995 渋谷真照の長男。1992年(平成4年)法灯継承。1995年(平成7年)退任。退任後、西教寺に務める。2013年(平成25年)11月5日死去。64歳。
31 渋谷暁真 1995-2008 渋谷真照の次男。1995年(平成7年)就任。2008年(平成20年)退任。
32 渋谷恵照 笑子 2010-2018 尼僧。渋谷真照の妻。真承・曉真の母。2010年(平成22年)就任。2018年(平成30年)退任。
33 渋谷真覚 1980- 2018- 渋谷真承の長男。渋谷恵照の孫。1980年(昭和55年)生。2018年(平成30年)就任。
  • (『日本仏家人名辞書』、望月『仏教大辞典 付録』、新聞記事)
  • 院号は図録『佛光寺と了源上人展』による。
  • 僧名と諱と逆転するものもあり要検討。
  • 人名辞書に生没年

資料

  • 『了源上人伝』[2]
  • 『渋谷歴世略伝』[3]
  • 『仏光寺系図』[4]
  • 『渋谷学匠略伝』[5]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E4%BB%8F%E5%85%89%E5%AF%BA」より作成

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