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熊坂・専修寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年12月28日 (火)
専修寺(せんじゅじ)は、越前国坂井郡熊坂(福井県あわら市熊坂)にあった浄土真宗の本山級寺院。伊勢専修寺の後継争いで追放された11世真智が創建。畠中に移って再建。江戸時代、伊勢専修寺の訴えで廃絶となった。西雲寺と法雲寺が後継寺院。跡地には真智の墓所がある。熊坂専修寺。畠中専修寺。法性寺。(参考:同名寺院専修寺_(同名))
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歴史
真智は、後柏原天皇の皇子(常盤井宮恒直親王の王子とも)とされ、常盤井宮と称していた。招かれて専修寺11世となるが、前代の子の応真が後継者を主張。越前に多かった古くからの末寺は真智を支持し、伊勢の新しい末寺は応真を支持した。大永2年(1522)、両派は和議を結び、真智は応真の弟子となり、越前に滞在したままとすることになった。当初、真智は坂北郡兵庫の西林坊(西光寺)に滞在したが、朝倉義景の寄進を受け、熊坂専修寺を創建した。専修寺4世専空が熊坂道場を開いた地ともいう。『和漢三才図会』によると、専空から10世真慧の時まで専修寺はこの地にあったという。伊勢専修寺の応真が死去すると、その跡に尭慧が入り、対立が表面化。三河や越前の大寺が熊坂専修寺を支持するが、真智が死去。2代真空もまもなく亡くなると、寺地は伊勢専修寺に没収され、廃絶となった。真能という僧が慶長末年に丹生郡畠中(福井県福井市畠中)に専修寺を復興(畠中専修寺)。福井藩が寺領を寄進したが、寛永11年、伊勢専修寺が幕府に訴え、敗訴。末寺は強制的に転派させられた。しかし、畠中専修寺は法性寺と名前を変えて活動。寛文3年、再び伊勢専修寺に訴えられて破却された。残された僧俗が転派したが西雲寺や越前・法雲寺を建てた。 畠中専修寺には実浄坊、法泉坊、海定坊、勧明坊、真行坊の塔頭があった。
歴代
- 1真智()
- 2真空()
- 3真能()
- 4真教()
- 5専誉()
関連寺院
真智を擁立した有力寺院
- 明眼寺:愛知県岡崎市大和町。現在は妙源寺。真宗高田派。
- 満性寺:愛知県岡崎市菅生町。真宗高田派。
- 専光寺:福井県あわら市角屋。廃絶。新郷専光寺。加賀専光寺やあわら市二面の安養院が後身。
- 西光寺:福井市坂井市坂井町兵庫。真宗高田派。現在はあわら市中川。
- 勝鬘寺:福井県福井市風尾町。真宗高田派。
- 専西寺:福井県大野市。現在は真宗仏光寺派西応寺。
参考文献
- 『日本仏教基礎講座』
- 『日本歴史地名大系』
文献
- 「法雲寺」『二十四輩順拝図会前編』[1]
- 日下無倫1935「真宗高田門徒に於ける秘密相伝について」『大谷学報』[2]
- 坪内晋1962「秀吉の小田原城攻略に関する古文書について 特に福井県丹生郡越廼村法雲寺の古文書を中心に」[3]
- 辻惟雄1963「研究資料 福井県法雲寺蔵の岩佐又兵衛関係文書」『美術研究』225[4]
- 武藤正典1966「法雲寺蔵 「尊号真像銘文」 について」[5]
- 高道正信1967『越前法雲寺物語』[6]:2007年復刻。
- 高道正信1975『伊勢一身田越前熊坂専修寺争論』
- 川口久雄1974「越前丹生郡法雲寺所蔵「道士勝負記」とその絵解きについて〔含 翻刻〕」
- 松原信之1968「越前東御坊と百ヵ寺騒動」[7]
- 松原信之2013「真宗高田派寺院の越前における盛衰」[8]
- 毛利伊知郎「専修寺:信仰と歴史と文化」[9]
- 「戦国期の高田派の分裂」『福井県史 通史編2 中世』[10]
- 「越前専修寺破却事件」『福井県史 通史編3 近世一』[11]
- 芦原慧明1963「江戸時代越前に於ける転宗派について」[12]