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泉涌寺悲田院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''泉涌寺悲田院'''は、京都府京都市東山区にある[[真言宗]]寺院。無人如導が延慶元年(1308)に四宗兼学の寺院として創建。[[後花園天皇]]の勅願寺で菩提寺。元は現在の[[大応寺]]のあたりにあり、ここで火葬したという。現在も[[後花園天皇火葬塚]]がある。江戸時代の正保2年(1645)、如周恵公が高槻藩主永井直清の帰依を受けて[[泉涌寺]]内に移転。永井家の菩提寺となる。明治18年(1885)、山内の寿命院と合併した。[[Category:京都府]] | '''泉涌寺悲田院'''は、京都府京都市東山区にある[[真言宗]]寺院。無人如導が延慶元年(1308)に四宗兼学の寺院として創建。[[後花園天皇]]の勅願寺で菩提寺。元は現在の[[大応寺]]のあたりにあり、ここで火葬したという。現在も[[後花園天皇火葬塚]]がある。江戸時代の正保2年(1645)、如周恵公が高槻藩主永井直清の帰依を受けて[[泉涌寺]]内に移転。永井家の菩提寺となる。明治18年(1885)、山内の寿命院と合併した。[[Category:京都府]] |
2020年7月5日 (日) 時点における版
泉涌寺悲田院は、京都府京都市東山区にある真言宗寺院。無人如導が延慶元年(1308)に四宗兼学の寺院として創建。後花園天皇の勅願寺で菩提寺。元は現在の大応寺のあたりにあり、ここで火葬したという。現在も後花園天皇火葬塚がある。江戸時代の正保2年(1645)、如周恵公が高槻藩主永井直清の帰依を受けて泉涌寺内に移転。永井家の菩提寺となる。明治18年(1885)、山内の寿命院と合併した。